宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

ガンガジ 「ポケットの中のダイヤモンド」

2016年05月05日 | 精神世界を語る

 

インドの聖者たちの教えの中でも、親しみやすい名著として評判なのは、ガンガジの「ポケットの中のダイヤモンド」。他の本みたいに分厚くないし、語り口も易しい。このジャンルの本を何冊も読むより、これ一冊を何度も読み返したほうがいいかもしれない (・・・という気がした。まあ、他の本を読む前から決め付けるワケにもいかんけど)。

序文を、あのエックハルト・トールが書いている。エックハルト・トールといえば、「現代のスピリチュアル・リーダー」だ。そういう人が、ガンガジから影響を受けたことを公言している。それを見ても分かるとおり、インドを出て巡業生活に入ってからというもの、欧米の精神世界に大きな影響をおよぼしてきた人。

ガンガジはアメリカ人の女性だけど、縁あってインドに赴き、かの高名なるプンジャジ(パパジ)に弟子入りした。英語で言えば“Poonja”(プーンジャ)だし、本文では「パパジ」となってるけど、筆者は「プンジャジ」という呼び方に慣れ親しんでいるので、この名前でいきたい。

ガンガジは、精神世界を探求すべく、わざわざ遠くて暑いインドにまで赴いた。とはいっても、別にアメリカでの生活が苦しくて、そこから逃れたかったわけではない。むしろ、どちらかといえば何不自由ない生活を送っていた。それでも、何かが決定的に欠けていた。

精神世界の探求とは、「ポケットの中のダイヤモンド」を探し求める、壮大なる旅なのだ。本当は、探し求めているダイヤモンドは、アナタのポケットの中に入っている。でも、それを見つけるために、わざわざ遠回りをしなきゃいけない。「なんとかならないものか」とは思うけど、この世界はそういう風にできてるんだから仕方ないか・・・。

それはともかく、幸運にも、世界最高の師にめぐり合ったガンガジ。師のプンジャジは、目がキラキラした人だった。「何が欲しいのか言ってごらん」と言われたガンガジは、「自由」と答えた。

師は、「正しい場所に来たね」と言い、「何もしないでいなさい」というアドバイスをくれた。

プンジャジいわく、アナタの問題のすべては、行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい・・・。

「行為」といっても、立ち上がって歩いたりとか、そういうことを言ってるわけではなかった。というのも、それを聞いているガンガジは、もともと座ってジッとしていたからだ。ここで師が言ってるのは「精神的な行為」すなわち、「思考」をストップせよ・・・ということを意味していた。

このことに気づいたとき、「私」という存在の物語から、「物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深み」へと、驚くべきフォーカスの転換が起こった。なんという平安、なんという休息! その瞬間、もはや、「私という物語」に縛られていなかった。

ガンガジは、もともとアメリカでも精神世界の探求者だったので、それまでにも宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間が何度もあった。でも、このときにインドで感じた恍惚感は、まったく性質が違っていたという。

思考が停止したガンガジ。師は、いくつか質問をして、本当に思考が停止したことを確認した。次に師が言ったことは、「一軒一軒たずねて、その経験を人々に語れ」・・・ということだった。

それから、ガンガジのスピリチュアル伝道の旅が始まった。世界中で講演会をひらき、あらゆる階層、職業の人々と話をするようになった。そんな対話を積み重ねた結果として生まれたのが、「ポケットの中のダイヤモンド」という本。

こうして、師との出会いにより、「私という物語」から解き放たれたガンガジ。それにしても、その「私という物語」とは、いったい何なのだろうか。

(つづく)

  


インドの聖者 その2

2016年05月05日 | 精神世界を語る

  

インドは、歴史の国ではない。本当は、インドにも、三国志や戦国時代に勝るとも劣らない群雄割拠の歴史がある。でも、当のインド人が歴史に関心なかったのと、暑い国では昔の記録が残りにくいのもあって、ほとんどの出来事が忘れられてしまった。もしも記録が豊富に残されていたら、さぞかし歴史小説のネタに困らなかっただろう。

インド人に限らず、もともと昔の人にとって「時間」というのは、過去から未来に向かって一直線に流れていくものではなかった。太陽が、朝は昇って、夕方には沈む。次の朝には、また昇る。春が過ぎれば夏が来て、冬が過ぎれば、また春が来る。文明の進歩はゆっくりしていて、たいした変化はなかった。そうやって、グルグルと円環のように回っていくのが時間だったのだ。現代人なら、それは地球の自転と公転が、われわれ人間に見せている視覚効果だと知っている。でも、昔の人はそんな舞台装置の仕掛けのことなど知る由もない。

古代ギリシャ人にとっても、時間はグルグル回るものだった。ギリシャ哲学を深く研究したフリードリヒ・ニーチェは、「同じものの永遠なる回帰」という説を打ち出した。それは、近代ヨーロッパ人に大きなショックをもたらした。キリスト教徒であるヨーロッパ人にとって、時間とは、天地創造から最後の審判に向かって一直線に流れるものだったのだ。

そんなこんなで、古代人にとって、時間とか歴史には、あんまり意味がなかった。歴史教の信者なのは、中国人くらいのものだった。もっとも、中国人でも、「歴史は繰り返す」という思想は徹底していた。

インドは、歴史の国ではない。では、何の国なのかというと、なんといっても哲学と宗教の国で、これこそは、まさしく本場。欧米でも、精神世界関係者はみんなインドに憧れる。「ガンガジ」も、元はといえばアメリカ人だけど、インドに行って聖者の仲間入りした。ガンガジというのは、もちろんインドでついた名前で、本名ではない。

でも、インドの思想を語るには、やっぱり一応、インド思想の歴史をさらっと知っておいたほうが良いと思われる。チマタにはびこる新興宗教を見るにつけ、そう思う。・・・というのも新興宗教では、教祖の教えが、「神から降りてきた思想」として語られることが多い (まあ、宗教なんだから当たり前か)。でも、筆者のように「思想の歴史」に妙にくわしい人から見れば、どれもこれも、話の出ドコロが割れているものがほとんど。

釈迦やキリストの教えでさえも、「突然、天界から降ってきた」というのは、ちょっと誤解がある。それ以前のインド哲学の流れを知っていれば、お釈迦様の教えもその流れの中にあるのが明らかで、そりゃ天界からのインスピレーションもあっただろうけど、たいていの話は、それ以前のインド哲学者たちも言ってたことが多い。もちろん、そんな古代インド思想家の中でもお釈迦様が突出して有名なのは、それだけの理由があり、それまでのインド思想を集大成して大きく飛躍させ、最終結論を出したからなんだけど。

お釈迦さまの教えは、やがて「シャンカラ」に受け継がれた。シャンカラは、日本ではマニアしか知らないけど、インドではビッグネーム。クリシュナムルティの講話にも、「釈迦とかシャンカラの本をいくら読んでも、それだけじゃ意識の覚醒はできません」という具合に、しょっちゅう並んで登場する。

それはラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジといった現代の偉大な聖者たちも同じで、彼らの説く教えは、シャンカラから脈々と受け継がれてきたインドの伝統思想。

そして、ラマナ・マハルシの弟子のプンジャジの、そのまた弟子のガンガジが、エックハルト・トールに大きな影響をもたらした。エックハルト・トールといえば、「現代のスピリチュアル・リーダー」。こうして、欧米の精神世界にも、この教えが大きく深く浸透している。

というわけで、筆者は、釈迦とかシャンカラはよく読んだし、エックハルト・トールやクリシュナムルティもよく読んだけど、「ラマナ・マハルシ」とかは名前と「私は誰?」くらいしか知らなかった。読むべき本のすべてを満遍なく押さえるなんてことは、いくらヒマ人でもかなり困難だったのだ。でも、これから読んでも遅すぎるなんてことはない。

そもそも、代表的な聖者の一人である「プンジャジ」だって、31歳でラマナ・マハルシの弟子になるまでは、いたって普通の人だった。弟子になったといっても、一緒に南インドのアルナーチャラ山にいたのは短い期間で、残りの人生の大半を遠く離れたパキスタンで過ごした。しかも、独立してプロの聖者になったのは、55歳のとき。それでも出家はせず、在家を通した。

「覚醒の巨人」ことニサルガダッタ・マハラジも、34歳で高名な聖者の弟子になるまでは、ごく普通の人生を送ってた。しかも、聖者の話を聞いただけで、修行はとくにしなかったという。有名になったのは、54歳のとき。マハラジも、出家せず在家を通した。

インドには、古代からそういう伝統がある。つまり、若いときは働いて社会貢献し、年をとって隠居してから、教えの道のプロになる。そういう考え方が大昔からしっかりと社会に根付いてた。

この世で精神世界を探求するのに、遅すぎるなんてことはない。さすがに、死んでからじゃ遅すぎるかもしれないが、その前にどこかの時点でやればいいのだ。

日本人も、そんな生き方を学ぶときかもしれない。高齢化社会なんだし、これからは精神世界の探求で余生を送るのが主流になる可能性が高い・・・。

(つづく)