ラマナ・マハルシの教えの中で有名なのは、「私は誰?」だろう。孫弟子のガンガジの本にも、当然ながら登場する。
これを見て思い出すのは、ウスペンスキーの本に出ていた、あやしい瞑想セミナーに参加した人のエピソード。そこではなんと、「私は誰?」という自問を、何日も延々と繰り返させられたという。朝から晩まで、「私は誰、私は誰、私は誰・・・?」と、ひたすら心の中で唱え続ける修行。やってる間は「なんじゃこりゃ?」と思ったが、セミナーを出て日常生活の中に戻ったとき、すべてがまったく違って見えたという。すれ違う人々は皆、日常生活の中に埋没していた。自分だけは、いつのまにか、そこから意識が抜け出していた・・・。
「アナタが自分だと思っているものは、じつは自分ではない」というのが、インド伝統の教え。「○○は、自分ではない。××も、自分ではない。△△も、自分ではない・・・」がひたすら続くのは、仏典でもオナジミだ。
たとえば、「ボクはお金持ちだ」と思っている人がいたとする。でも、おカネなど、この世という仮の宿りでしか通用しない。「おカネは、墓までは持っていけない」のである。土地とか株とか貴金属とか、財産もみんなそう。こういうものは、本当の自分ではない。これは、すぐわかる。
「ボクは背が高くてやせた人だ」とか、「ボクは背が低くて太った人だ」とかいうのも、本当の自分ではない。肉体もまた、この世での乗り船にすぎず、いつかは消えてなくなる。その後に残るものが自分。これも考えれば、すぐにわかる。
では、そういう社会的な属性とか、肉体的な特徴とか・・・を取り除いた後に残るものは何なのか。それはやっぱり、「魂」とか、「心」ということになるだろう。
ところが、ここがカンジンなところなんだけど、それもまた、本当の自分ではないのである。ここは、スピリチュアリズムの道に入った人が、最初に誤解しやすい関門だろう。世間の一般人ならともかく、精神世界の探求者なら、「肉体は本当の自分ではない」なんてことは、当たり前のスタートラインといってよい。それは結論ではなく、話の前提でしかない。そこで止まったんじゃ、なんとも中途半端。まずは肉体や物質の実在を否定するのが当たり前で(笑)、「自分とは何か」という検討が始まるのは、それからだと思ったほうがいいみたい。
たとえば、「ボクは怒りっぽくてマジメな人だ」とか、「ボクはいつも周囲を笑いの渦に巻き込む人だ」とかいうような場合、それが本当の自分なのかどうかを再検討する必要がある。それもまた、この世で身についた単なる習慣にすぎないというか、本来の自分とは異なる仮の姿である可能性は高い。つまり、「性格」もまた、本当の自分ではない。性格だけでなく、感覚とか、知性と教養とか・・・。そういうのも「自分ではないもの」に含まれる。
こんな具合に、「自分とは何か?」という自問自答を続けて、「ボクは○○である」、「私は××である」というのが次々に思い浮かんだとき、「でも、それは自分ではない」といちいち否定していく。そして、さんざん否定しまくったあげくのハテに、それでも最後に残ったものこそが、「本当の自分」ということになる。なんとも面倒な話だけど、それが古代インドから連綿と続いてきた精神世界の探求。
話が先走ってしまった。というより、いきなり仏教っぽくなってしまった。
それはともかく、結局のところ、「これが私だ」と思っていたものは、ガンガジ流にいえば、「あなたがあなた自身に語る、あるいは、あなたの社会があなたに語ってきた、あなたは何者かという物語」にすぎなかった。
>この、もっとも基本的な、私は誰?・・・という問いこそが、最も見過ごされがちな問いです。私たちは毎日、その時間のほとんどを、自分自身に対して、あるいはほかの人に対して、自分は大事な人間であるとか、自分はつまらない人間であるとか、偉いとか偉くないとか、若いとか年寄りだとか、そう言いながら過ごします。そして、この最も根本的な仮定に本当に問いを投げかけることは決してしないのです。
この、「私は誰?」という自問の作業をずっと続けただけでも、意識の覚醒に到達できるという話だから、やってみて損はないだろう・・・(?)。
意識の覚醒をさまたげているものは、自分自身だったということに気づく。というのも、人は、「私はこういう人間だ」という物語を、いつも自分自身に聞かせているようなもの。「私はサラリーマンである」という具合に、「自分とは何者であるか」という定義づけをしょっちゅうやっている。でなきゃ、とてもやってられない。この世で生きていくためには、それが必要。
>夜、夢を見るとき、夢には始まりがあり、展開があり、そして終わりがあります。夢を見ているときは、それは本当のことに思えますが、目が覚めれば明らかに夢であったことがわかります。
>それと同じように、あなたはあなたの人生という夢の途中で目を覚ますことができます。どんな物語もいずれは終わりますが、あなたの物語が終わる前に目を覚ますのです。話の中にいながら目を覚ますことは「明晰夢」と呼ばれます。
これは、眠っているときに見るオナジミの夢で考えれば、よくわかる。
たとえば、夢の中では、何者かに追いかけられて必死で逃げていたが、目が覚めてみたら自分は布団の中で寝てるだけだった。「明日は大事な試験だ。このままじゃ留年する」と思って必死で勉強していたが、目が覚めてみたら、自分は学生ではなくオジサンだってことを思い出した・・・。
このように、夢の中では必死だったけど、目が覚めてみたら、なんにも意味がなかった。
こういうアリガチなことが、人生にも当てはまる。この人生における自分は、本当の自分ではなく、この世で見ている夢であり、仮の姿に過ぎない。死んでからなら気づくのは簡単だけど、それをなんとか、生きている間に目を覚まして「明晰夢」に変えたい。これこそが、精神世界の探求者の目標。
それが、「意識の覚醒っていうけど、それは要するにどういうことなんですか?」という、よくある質問に対する答になるだろう。この世とか人生というのは、本当の自分が眠っている間に見ている夢にすぎない。普通の人は、「すべてが夢の中の出来事だ」ってことに気づかず、妙に必死で取り組んでいる。でも、目を覚ませば全部、なんの意味もない。現実に起きていることは、何ひとつない。
生きてるうちに目を覚まして、これを「明晰夢」に変える。それが、「意識の覚醒」というもの。
(つづく)