宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

死後の存続

2011年04月26日 | 精神世界を語る
 
「自分は、永遠に存続する魂なのだ」というような信念は、精神世界関係者なら大なり小なり、必ず持ってます。「無我」の代表選手である、お釈迦さまやクリシュナムルティだって、必ずしも、それを否定してるわけじゃありません。
 
「人間は、この世での生がすべてなのではありません。永遠に生まれ変わり、死に変わり、永遠に続く魂なのです」と、世間の一般人に説教する指導者は少なくない。いわく、この世での生がすべてだと思っている人は、世塵にまみれた人生をアクセクと送るうちに、元いた世界のことを忘れてしまったのだ。実のところ、それが人間界にアリガチな落とし穴なのだ。でも、ご安心ください。永遠の輪廻転生を知った皆さんは、今こそ目を覚まし、永遠の意識進化の道を歩み始めたのです・・・。
 
なんだか、すごく良いことを言っているように思える。でも、そこに別の落とし穴があったりするから要注意だ。まったく世の中、どこに危険が潜んでいるか分からないのである。そよ風の吹く広々とした草原に悠々と寝そべり、「ああ、至るところ罠だらけのセチがらい人間界と違って、大自然はホントに気持ちいいね~」とかなんとか言ってたら、草むらに潜んでいた毒蛇にかまれるようなものだ。
  
なぜ、それが落とし穴なのか。それは、それが形を変えた「自我の執着」になってしまっているケースが多いから。
 
「自我の執着」などと言ったら、大げさかもしれない。でも、決して甘くみるわけにいかない。
 
世間の一般人が、身体を自分だと思い、この世で少しでも長生きしたいと執着するのを見て、精神世界の探求者は違和感を覚える。神社にお参りして、「長生きさせてください」と神サマにお祈りする。それを見て、「ああ、世俗の人はなんと、現世の生に執着し、長生きしたがっていることよ」と、精神世界ファンはあきれて笑うかもしれない。 
 
でも、当の本人が、「ボクは、死んだ後でも永遠に長生きするんだぞ」と思っているとしたら、どうか。それに比べたら、「この世で長生きしたい」という願いなど、人間として自然な感情であり、カワイイものではないか。実のところ、前者の方がより深刻な「自我への執着」であり、もっと重症だと考える人もいる。釈尊やクリシュナムルティが、その代表格だろう。これは、精神世界の極北をゆく、最も硬派な考え方と言えるかもしれない。
  
物質世界では、形あるものは必ず壊れる。人間の身体ももちろん、その例外ではない。身体は、やがて死んで朽ち果てていくもの。そんなものに執着して、どうする。でも、心配ない。身体が死んでも、霊魂が生き伸びるから。
 
・・・そこまでは分かった。「じゃあ、霊魂は永遠に存続するのでしょうか?」というのが、われわれにとって本当に考えるべきテーマの始まり。
   
これは、「霊魂は永遠だ」と信じて疑わない人にとっては、意表を突かれる質問かもしれない。でも、霊魂だって、いつまでも、生まれ変わり、死に変わりを続けていられるのか。どっかで終わりが来たりしないのでしょうか?・・・つまり、身体と同様、霊魂にもいつか「死ぬ」ってことはないんでしょうか。ただ、続く長さが違うだけで。 
 
実のところ、これは、古代ギリシャの獄中で毒杯をあおいで死んでゆくソクラテスに、弟子が「最後に、これだけは聞いておきたい」として言い出した質問だ。以前から気になって仕方がなかった問題を、ソクラテス大先生に聞けるうちに聞いておこうというわけ。こう見えても2000年以上の歴史を持つ、由緒ある問いなのだ。
 
もちろん、そのときソクラテスが答えたように、霊魂が「死ぬ」ことなどあり得ない。霊魂こそは「生」の原動力、というより「生」そのものであって、本質的に「死」とは相容れないものだからだ。
 
でも、霊魂が「死ぬ」ということはなくても、集合意識の中に吸収され、いつのまにか消失してしまうということなら、あり得るのではなかろうか?

たとえてみれば、コップですくった海水を、元の大海に戻すようなものだ。コップの中の海水は、なくなったわけではない。広い海の中の、どこかに残っている。でも、大海に吸収されて一部になってしまい、元の形を取り戻すことは二度とない。

霊魂が「死ぬ」わけではないが、集合意識の中に「吸収されてしまう」というのは、そういうことを意味する。いずれにしても、個人としての自我は、そこで終了。「自分」は、消えてなくなる。 
 
結論から言えば、これはまあ、いずれはそうならざるを得ないんじゃなかろうか。宇宙とは、分離と統合を繰り返す壮大なプロセスそのものだ。「全体」から「個我」として分離したわれわれは、やがて「全体」に溶けて、消えていく運命・・・。
 
そう言うと、「なんだか、さびしい話だな」と思う人がいるかもしれない。でも、別にさびしくはないのである。なぜ、さびしくないのかといえば、それには理由がいろいろある。
 
ひとつには、「統合」のプロセスが完成するのが、まだ当分、先の話だからだ。現在、地球は「第三密度」の進化段階にある。ここでは、ひとりひとりの個人がバラバラに分かれている。生き残るための対立とか闘争とか、何を考えているのか分からない相手との話し合いとか・・・を果てしなく続けて、皆が疲れきっている大変な世界だ。でも、そんな世界は、いつまでも続かない。地球はもうすぐ、「第四密度」へと移行すると言われている。第四密度は、シンクロニシティの世界。われわれは、依然として個人個人に別れてはいるけれど、お互いが「共鳴」によって結び付いていくという。つまり、今までほどバラバラな個体ではなくなる。人々の存在は「集合意識」へとかなり近づいていく。
 
でも、第四密度においても、人々は完全な集合意識になるわけではない。まだまだ、個人としての意識は濃厚に残ると言われている。例えていえば、戸建住宅から、共有部分のある区分所有マンションになるようなものか。人々は、完全にバラバラな意識ではなく、共有する部分ができてくる。しかも、共有部分がだんだん大きくなってくるという。
 
さらに、その先がある。第四密度の次は、「第五密度」の世界が待っている。第五密度では、人類がさらに集合意識へと近づいている。今度は、むしろ意識を共有している部分が中心となり、個人としての意識はかなり薄れている。ただ、それでもまだ、完全な集合意識として一体化しているわけではない。個人としての意識は、それでも残っている。さらにその次の第六密度に至って、やっと集合意識としての統合が完成を迎えるらしい。人類の意識は、ついに一体化して、巨大な一つの意識となる。
 
となると、「第六密度になって完全に統合された集合意識になったら、各個人はどうなっちゃうんでしょうか?」というのが素朴な疑問というものだろう。それについては、「なってみなければ分からない」としか言いようがない。どうせ分かるわけがないのだから、今から考えてみても仕方がないのである。統合のプロセスとは、それほどまでに壮大で、遠大な目標なのだ・・・。
 
でも、「個人としての自我が消えてなくなる」というのが別にさびしくないのには、それ以上の理由がある。
 
最大の理由は、そもそも、精神世界の探求者なら、そんなことを気にしないからだ。「なあんだ」と思えるような理由かもしれない。でも、それが最大の理由。不思議なことに、精神世界の探求が進むにつれて、「死後の存続」という問題がだんだん小さくなり、いつのまにか、問題そのものが消失してしまうのである。それが、この問題に対する最終的な解決。
 
そのことを我々に教えてくれたのは、やっぱり、古代インドのお釈迦さまだった。
 
ある人が、「悟った人は、死んだ後はドコへ行くのでしょうか?」と釈尊に質問した。これに対する釈尊の答は、質問者の意表を突くものだった。なんと、「燃えていた薪(たきぎ)の火が、消えたとする。火はどこに行ったのか?」と、逆に質問されたのだ。質問者は答えた。「どこへも行きません、師よ。それは、ただ消えたのです」。それを聞いた釈尊は、我が意を得たとばかりに、「その通りだ。やっと分かってきたみたいだな」と言ったという。
 
これを見ると、釈尊は「死後の存続」を否定していたように思える。実際に、「釈尊は、あの世とか生まれ変わりを否定していた」と見る人は、決して少なくない。でも、それはやはり、単純すぎるモノの見方というものだ。
 
「人は、死ねば無になる。だから生きてる間は精一杯、生きよう」というのは、現代人に特有な、特に20世紀の実存主義者が持っていた考え方だ。お釈迦さまが、そう言っていたわけではない。「人間は、死ねばオシマイなのさ」なんてことを言ってたら、それはそれで、やっぱりお釈迦さまに叱られる。それは、虚無主義につながる危険思想だ。物質世界での生をすべてだと思う人たちの発想は、あらゆる価値観の喪失につながりかねない。だから、こんな考え方をすることは、規則で禁止されている。
   
「じゃあ、どっちなの?」と言いたくなるところなのだが、実のところ、「どっちでもないのさ。そんなことは気にするな」というのが最終回答なのだ。一見、答に見えないのだが、それが最終回答。
 
というのも、精神世界の探求が進むにつれて、人は現在の一瞬のみに生きるようになっていく。「いま、ここ」だけに全生命を燃やし尽くす生き方をするようになる。そんな人が、「死後の存続」のことなど気にするはずがない。気にしないというより、そもそも、「死後の存続」という信念そのものが、「時間」という物質世界に特有の観念にしばられた錯覚だったのだ・・・ということに気づく。
  
多くの人は、「自分は、死んだ後でどうなるのだろうか?」という興味から、精神世界の探求に入っていく。通常、そのことに興味を持たないような人は、精神世界とは無縁の一生を送る人だ。でも、探求が進むにつれて、それは気にならなくなってくる。逆説的なのだが、それが真実だ・・・・・。