宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

筋金入りの現実主義者

2017年11月03日 | こっくり亭日記

精神世界関連のサイトを見てよく思うことだけど、ほかの精神世界ブログは、熱狂的というか、陶酔的な雰囲気のところが多い。いい悪いは別にして、本ブログはちょっとノリが違う。

そもそも、ここは、もともと精神世界ブログとしてスタートしたのではなかった。十年前の当初は、「コンサル星人日記」と称する、自虐ネタの多いサラリーマン雑感ブログだった。あるとき、「これでは内容があまりにも雑然としている。これからは精神世界にテーマを絞ろう」と思い立ち、雑多な記事を整理して再スタートした。

というのも、本ブログの関心事は、精神世界だけじゃないのである。むしろ、文系・理系を問わず、それ以外の分野の話が多い。でもって、精神世界を特別なテーマだと思わず、他の分野のいろんな話と同様に、ごく普通の話題として取り扱うのが特徴。

それはやはり、個人的な精神遍歴に原因があるだろう。

というのも、通常、人は成長する過程のどこかで宗教なりスピリチュアルなりと出会い、そこで「真実」に目覚める。「私は、この教えを知るために生まれてきたのだ」という感動や、「この教えを世に広めたい」という情熱は、そんな真理との出会いから生まれる。

筆者のたどった経路は、それとは大いに異なる。

むしろ、それとは逆に、幼少の頃が、最も純粋なスピリチュアリストだった。物質的な面では無能で無力で、同世代の子供よりも大幅に遅れていたが、観念的な面では、並みの大人よりも高度に哲学的でスピリチュアル的だった。

そういう傾向は、その後も続いた。精神世界は、日常生活に完全に溶け込んでいた。電車に乗っているときでも、高度に哲学的でスピリチュアル的な思索を展開していた。その代わり、電車が駅についても乗り過ごして、また戻ってくることが多かった。しかも、電車内で切符をなくしてしまうことがよくあった。

それが大人になるにつれて、だんだん、いわゆる「現実」に染まってきたというか、物質的な面ではそこそこ健全で有能な人になってきた一方で、観念的な面では、以前ほど純粋培養されたスピリチュアル人間ではなくなり、むしろ、現実主義者っぽい面がだんだん強くなってきている。

だから個人的に、精神世界はどっちかっていったら、「学んで身につけよう」というより、「放っておけば日常に紛れて忘れてしまいそうなことを、忘れずに思い出すため、どこかに書きつけておこう」という対象になっている。

しかも、日常生活というか、日常の思考と精神世界が混然一体となっているので、世間の人々が言うような、特別なテーマとして意識していない。政治とか、アートとか、スポーツとか、科学とか、その他もろもろの話題と同じように取り扱っている。

話はちょっとズレるけど、かつて、故・船井会長がよく、「私は筋金入りの現実主義者です。そんな私が、アセンションは起きると言っているのです」と言っていた。でも、当方から見ると、申し訳ないけど、当時の船井会長が「現実主義者」だとはとても思えなかった。

「地球の内部は空洞になっていて、その中には地底人が住んでいる。地底人は、われわれ地表人よりも文明が進んでいる」とか、正直、あまりにも現実にあり得なさすぎて、とてもマジメに聞いてられなかった。もしも地球の内部が巨大な空洞になっているのなら、現代の科学者にはすぐ分かる。実際に地底に潜って見てくるまでもなく(もちろん、できればそうすべきだが)、いろんなデータを集めて計算結果を突き合わせれば、事実は一目瞭然なのである。

でも、だからといって、この「地球内部説」をバッサリと否定できるわけではない。そこがフクザツなところ。

地球の内部には、高度な霊的存在がいる。でもって、鋭敏な霊視能力の持ち主がそこに意識を向けたとき、そこには「高度に進化した地底人」が見えた・・・ということは、十分に考えらえる。いや、むしろ、それは自然なことのように思われる。

地球は巨大な霊的センターであり、その内部には膨大な精神エネルギーが凝縮されている。高度に進化した存在がそこに現れるのは、無理のない話だろう。

この地球は、広大無辺な霊的実験場なのだ。そこに思いを馳せると、とても感慨深い。

これに限らず、精神世界ジャンルで言われていることというのは、理科的もしくは社会的におかしくて、とてもストレートに受け取れない話が多い。一見、突拍子もない話に見える。でも、見る角度を変えてみれば、かえって自然な話に見えてくるから不思議なものだ・・・。

というわけで、最初の話に戻ると、要するに、相変わらずインターネットを周回して、アセンション情報を漁って楽しんでいる。熱狂的で陶酔的なスピ系ブログを見るにつけ、「なんともクレージーな話だな」とあきれる。それでいて、自分もアセンションから離れる気はまったくない。客観的に見れば、なんとも矛盾しているのだが、自分にとっては、この2つがなんの矛盾もなく両立している(笑)。

 


人間の意識が、世界を編集している

2017年10月16日 | こっくり亭日記

以前、「クオリア」のところで書いたけど、この世界というのは、結局のところ、自分が作り出している。正確にいえば、この物質世界の元になる舞台装置があって、それを元ネタにして自分が作り出している。

というのも、たとえば、赤いリンゴを見たとする。普通は、そこにもともと赤いリンゴがあって、それを自分が認識しているとしか思えない。でも、これをジックリと考えてみれば、重大な疑問に行き当たる。

それは、「ボクには赤く見えるけど、それはそんな風に見えるというだけで、本当は違うんじゃなかろうか?」という疑問。

そんな疑問を持つ人は、俗世間には滅多にいないかもしれない。でも、たまにいる。これは単純なようでいて、世界観を根底から引っくり返すあやうさを秘めた疑問。

光がリンゴに当たって、リンゴの表面で反射する。その反射した光が、空気中を通って人間の目に入る。目は、「こんな光が飛び込んできました」という情報を、視神経を通して脳に送る。その情報を受け取った脳は、「これは、赤いリンゴだな?」と認識する。

このような、一連の流れになっている。

問題は、この中で、「赤」という色が発生するのが、いつの時点なのか・・・ということだろう。

それは、実は、情報が脳の中に入ったときなのである。

太陽の光とか、部屋の照明の光には、とくに色はない (しいて言えば、白っぽい)。

その光をリンゴが反射するわけだけど、その反射された光が「赤い」かっていったら、そんなことはない。それは、単なる光。やっぱり、色はない。

というのも、光は波でできている。波には、波長の長い波もあれば、波長の短い波もある。でもって、人間の脳は、波長の長い光をキャッチすると「赤い」と感じ、波長の短い光をキャッチすると「青い」と感じるようにできている。われわれの脳は、そういう反応をするようにできている。

リンゴの表面というのは、波長の長い光を反射して、それ以外の光を吸収している。そのリンゴが反射した波長の長い光が、目を通って脳に入ると、そこで脳の中に「赤」という色がパッと浮かぶ。

ただ、それだけなんであって、リンゴが本当に赤いのかどうか、それは誰にもわからない。人間にとって赤く見える光だけを反射、つまりハネ返して、それ以外の光を吸収しているのだから、むしろ本当は「赤」とは逆の色なのかもしれない。

リンゴに限らず、この物質世界にあるものは、ガラス細工と同じで、光を反射してキラキラと、人間にいろんな色を見せるような仕掛けになっている。万華鏡みたいなもんだ。それ自体には、何の色もない。白黒ですらない。それをカラフルに彩色しているのは、人間の脳、つまり自分自身。

音も同じで、救急車が近づいてくると、ピーポーピーポーと高い音がする。通り過ぎて遠ざかっていくと、パーポーパーポーと低い音になる。でも、これまた、やっぱり、音が鳴っているのは自分の脳の中の世界。救急車のサイレンは、クルクル回転して空気を振動させているだけだ。人間の脳は、振幅の長い空気振動を受け取ると、「低い音だ」と感じ、振幅の短い空気振動を受け取ると、「高い音だ」と感じるようにできている。

よくテレビで、「人間は、自然を必要としている。でも、自然は人間を必要としない」と言ってるけど、本当は、その辺は微妙なのである。緑の大森林も、青い大海原も、人間が見るから、そんな風に見えるんであって、それ自体は原子や分子が集まってできた、単なる集合体でしかない。

波長の長い光を受け取ると、「赤い」と思う。波長の短い光を受け取ると、「青い」と思う。これは、われわれの脳がそんな風に設定されているからそう思えるんであって、逆でもおかしくない。つまり、波長の長い光が「青」で、波長の短い光が「赤」だったらどうなるか。昼間の空や海は、われわれの目には赤く見える。夕焼けは、青く見える・・・ということになる。これは単なる脳の設定の問題だから、それでもおかしくない。

そんなこんなで、この物質世界にあるものはすべて、人間が、「そこにそういうモノがある」と思うような仕掛けになっているだけで、本当は色もなく、音もなく、匂いもなにもない。そういうのは、人間の意識が作り出している。

・・・というようなことに、古代ギリシャの哲学者、デモクリトスは気が付いた。もちろん、光が波であることも、脳がどのような仕組みで認識するかも、地球人類はわりとつい最近まで知らなかった。もちろん、古代ギリシャ人は知らなかった。でも、ジックリと考えれば、そんな昔の人でも気づくことだったのだ。

近代に入って、ジョン・ロックやカントといった大哲学者たちが、この考えをおおいに発展させていった。「この物質世界というのは、粒子が集まってできたモノが感覚を刺激することにより、人間の意識が作り出しているのである」というところまでは、これらの人々によって明らかにされてきた。

つまり、この世は、物質世界という舞台装置と、人間の脳という認識装置があって、この両方の共同作業でできている。どっちか一方だけじゃ、こうはならない。

ましてや、現代人には、前回も書いたような「量子力学」がある。人間の感覚を刺激して世界があるように思わせているという、この舞台装置そのものだって、本当の意味で実在するのかどうか、かなり怪しくなってきた。

物質というのは、原子や分子といった粒子が集まってできている。でも、この粒子というのも、「人間が見るから、そこに粒子があるように見えるだけなのである」という可能性が非常に濃厚っていうか、そういう結論にならざるを得なくなってきた。

本当は、それは「波動」でしかない。それがなぜか、人間が見ると、「粒子」に見えるようにできている。そんな「粒子」が集まって、この世界はできている。

・・・というわけで、この物質世界というのは、本当は実在しないという可能性が高くなってきた。人間が見るから、そこに物質世界があるように見えるだけ。そういう仕掛けになっている。

3D映画は、3D専用のメガネをかけると、なぜか画面が飛び出してきて、立体に見える。どっちか一方だけでは、そうはならない。映像とメガネの共同作業で、立体映像はできている。

しょせん、この世は、そんな立体映像。バーチャル・リアリティでしかない。

でも、前回も書いたけど、それが分かってくるにつれて、逆にこの世がおもしろく見えてくるから不思議なものだ。まるで、ゲームの中のコンピュータ・グラフィックの世界に迷い込んだような気になってくる。

どうして、こんな世界が存在するのか。

世界がある。それが不思議なのだ・・・。


物質的ヴァイブレーション

2017年10月10日 | こっくり亭日記

故・葦原瑞穂氏の「黎明」(もはや、日本の精神世界の古典ですな・・・)には、独特の言い回しが多かった。ああいうのが苦手な人にとっては、あの分厚い本を読了する上で、高い壁になってるんじゃないかと思われる。

そのひとつが、「物質的ヴァイブレーション」という言葉。

その「物質的ヴァイブレーション」とは、何を意味しているのか。何年か前に自分が書いたブログ記事に、「黎明」の本文からアチコチ抜粋されていた。我ながら、読み返してみて、実に参考になった(笑)。

>このように粒子という概念は、自然界に表現されている物質レヴェルの波動を、ある時間軸にそった瞬間の断面で参照していった時に観測される状態を、心の中に理解できるような形で投影した映像のひとつなのですが、人間がより高いエネルギーの領域に意識を向けるにつれて、その領域を表現するために、さらに「細かく精妙な粒子」という解釈が造られ続けてきたという事情があります。

>光は波としての側面と、粒子としての側面をあわせて持っていると書きましたが、物質を構成するあらゆる粒子もまた、粒子としての表現の他に、波としての表現という、2つの側面を持っています。

>本来、自然界の現象面には、無限に続く波動領域が重なって表現されているだけで、境界のようなものが存在しているわけではないのですが、これまでの科学で取り扱ってきたような、人間の五官を通して知覚している世界の範囲を、便宜上、「物質的ヴァイブレーション」と呼ぶことにします。

>私たちの多くは物質というと、何か恒久的な存在とか、確かな実体があるものというイメージを思い浮かべがちですが、これまで何度も述べてきましたように、これらのイメージは心の中で作り上げた固定観念に過ぎないことを、よくよく理解していただくことが重要です。

>私たち人間の多くは、自然界の膨大な表現領域の中から、物質的ヴァイブレーションというごく限られた側面を、五官の小さな窓を通して見ているにすぎない・・・(以下略)。
  

早い話が、「物質的ヴァイブレーション」というのは、ひらたく言えば、「この世」つまり、地球の物質世界のこと。

では、なんで「この世」と言わず、わざわざ「物質的ヴァイブレーション」と言うのかといえば、それは、この世の存在がすべて「波動」だということ、しかも、波動の中でも、ある一定の決まった波長の領域だからということになる。

以前、量子力学の二重スリット実験の話を書いたけど、物質には「粒子」と「波動」という2つの性質がある。電子などの微粒子は、人間が観測していないときは、フワフワした「波動」になる。人間が観測すると、急にシャキッとして「粒子」になる・・・という摩訶不思議な現象が、百年前から実験で確認されてきた。

物理学者が、観測機械を使って電子を観察すると、それは粒子でしかない。でも、放っておくと、それは波動としての振る舞いをしていることに気づいた。

ここでいう「波動としての振る舞い」ってのがどういうことかというと、海でも湖でも、水面には波が立つ。波が立つと、シマ模様ができる。逆にいえば、そんなシマ模様ができたら、それは波だと分かる。でもって、科学者が電子銃で電子を一粒ずつ撃ってスクリーンにぶつけてみたら、その痕跡は波のようなシマ模様を描いてました・・・というわけ。

そこで、波動になってるときの電子を観測したいと、大勢の物理学者が必死になって実験した。でも、不思議なことに、人間が観測しているときの電子は、いつも粒子だった。目を離すと、また電子は波動になって、きれいなシマ模様を描きだす。そういうことが、何十年も前から確認されてきた。

電子などの微粒子は、人間が観測していないときは、波動としてボワーッと広がっている。原子の中の電子は、ふだんは「雲」となって広がり、原子核を包んでいる。原子の大部分は、この電子の雲でできている。そして、その原子が集まって、鉄とかコンクリートとか、人間とかができている。これがないと、物質もない。

・・・というわけで、結局のところ、物質というのは、ほんとは波動だってことがわかった。なぜか、それが人間が見ると、硬いモノや柔らかいモノ、いろんなモノに見えてくる。そういう風にできている。

といっても、どんな波動でもいいというわけではない。波動にもいろいろあって、短い波長から長い波長まで、無限の広がりがあるんだけど、その中でもある一定の決まった波長の領域になったときだけ、それが人間にとって意味のある「物質」に変わる。それ以外の波動に対しては、人間にはセンサーがないので反応しない。

人間は、テレビの受像機みたいなものだ。テレビ局のアンテナから、電波が飛んでくる。その電波をキャッチしたテレビは、赤とか青とか黄色とか、いろんな色を映し出し、高い音や低い音、いろんな音も鳴らしだす。

それが、人間にとっては、この世の物質世界。ここで生きている分には、じつにリアルな厳しい世界に思えるけど、はたから見れば、ホログラムの3D映像みたいなものでしかない。

しょせん、この世は物質的ヴァイブレーション。いろんなヴァイブレーションがある中に、物質的なヴァイブレーションってのがあって、それがこの世の正体。われわれ人間には、それが永遠不変に存在する、堅固な実在の世界に見えるようにできている。

「物質世界がある」というのは、人間が心の中で作り上げた、強固な信念でしかない。

ラマナ・マハルシは、「私」に意識を集中せよと説いた。自分の外に広がる物質世界から、心を離す。自分の中にある、「私」という存在に意識を集中する。そうやって、「物質世界がある」という強固な信念から離れる。

とはいうものの、目の前に広がる物質世界の堅牢さには、圧倒的なリアル感がある。これを、「ほんとは無いんだ」と思おうったって、そう簡単にはいかない。これには、よほどの発想の転換を必要とする。

でも、いったん発想を転換してしまえば、この世のすべて、なにもかもがバーチャル・リアリティに見えてくる。なんていうか、ゲームの中の世界に迷い込んだ感じで、逆に、この世がなんとも興味深く、面白い世界に思えてくるから不思議なものだ。赤ちゃんが、なんにでも好奇心を示して夢中になるような感じ。こんなに奇妙な世界を、いったい誰が作ったのか。

ここが、われわれの集合意識によって創られたゲームの中の世界だったとは。なんで、こんな世界があるのか。「世界がある」ということが最大の不思議なのだ。事実は、小説よりも奇なり珍なり、摩訶不思議なり・・・。

 


地球の科学技術は、まだ遅れている

2017年09月20日 | こっくり亭日記

 

今日はカゼを引いて休んでいるが、午後になって回復したので、ブログを書くことにした。

それにしても、21世紀に入って20年近くがすぎた今、まだまだ克服されていない病気が多い。むしろ高齢化社会なので、病気の人がますます増えている。

アメリカの経済規模は日本の3倍以上で世界最大だけど、そのうちの2割近くが「医療産業」だという。これは日本の倍くらいの比率。もはや、医療産業こそが、アメリカの経済を支える屋台骨、基幹産業そのものだと言ってよい。

つまり、「アメリカを見習って、日本の経済をもっと発展させよう」というのなら、なによりもまず、日本人がもっと莫大な医療費を使う必要がある。しかし、それが国民にとって豊かさを意味するのかどうか。

筆者は海外ドラマファンなのでアメリカのドラマをよく見るけど、たしかに、どのドラマでも、出てくる病院の設備がすごいなといつも思う。まるでSF映画に出てくる未来の病院みたいだ。でも、それでいて、平均寿命は日本よりかなり短い。これは、なぜなのか。アメリカ人は、ピザやハンバーガーを食べすぎているのかもしれない。あるいは、コーラの飲みすぎなのかもしれない。

それはともかく、お釈迦さまは、「生・老・病・死」を人生の「四苦」とした。これらは、現代でも解消されていない。もちろん、古代のインドよりも、現代の日本のほうが、寿命は何倍も長いし、遥かに病気になりにくくて、死ににくい。だからといって、病気や老化や死が、なくなったわけではない。やっぱり、それは程度の問題にすぎず、変わっていない。

むしろ、多くの人が老いる前に地球の物質世界を去っていた大昔より、大半の人が老化を迎える現代のほうが、老化の脅威が実質的に大きくなってるんじゃなかろうか。

筆者は、「遠からずバイオテクノロジーが発達して、老化した皮膚や血管を注射1本で再活性化し、若返らせることが可能になる」と昔から主張してきた。以前は、「ハァ? また意味不明なことを言い出したな」というような反応が多かったけど、最近は、「たしかに、遠からずそうなるだろうな」といった反応が多い。それだけ、驚くべき科学の進歩ぶりが、人々にも知れ渡ってきた。

「最低でも200歳までは生きる」とか、「60歳くらいから、科学の力で逆に若返り始める」というようなことも、10代の頃から周囲によく言ってたが、それは妄想や思い付きではなく、いろいろ調べた上で、「2030年頃の地球の科学技術はこのくらいまで進むだろう」というような予測をした結果だった。

「科学技術が進歩した未来の世界に、妙に憧れているな」とよく言われたが、確かにその通りだった。

というより、「いまの地球は、科学技術があまりにも遅れている」という不満が強かった。「地球人の寿命は短すぎる。人間の寿命は、5百歳か千歳くらいがちょうどいい」とも考えていた。

まあ、そんなことばかり言ってるから、「なんだか、宇宙人みたいな奴だな?」と言われるハメにもなるわけだが。

ていうか、地球人類が抱えている悩みの多くは、科学技術の発達によって克服できる。科学技術は、発達する途中の、中途半端な段階では、多くの問題を引き起こす。でも、それはあくまで、惑星としての進化の途上のレベル。まだ、地球の惑星進化は中途半端で、安定した成熟段階には至っていないと考えられる。

もちろん、「人間、原初の自然が一番」という考え方もあるし、それにも一理ある。しかし、根本的な原初の自然が、どういう環境だったかを考えてみよう。そこには、そもそも人間などいなかったのではあるまいか?(笑)

 


バーチャル化する世界

2017年09月19日 | こっくり亭日記

 

最近は、仕事で全国各地に行くことが多くなった。そのたびに思うのは、新幹線や飛行機の速さだ。とくに新幹線。東京から、仙台・新潟・富山・金沢などは、すぐに着いてしまう。ちょっと前まででいえば、北関東の宇都宮か前橋あたりの感覚だ。移動時間が短すぎて、遠くに来たという実感がない。

10年後には、リニアモーターカーが開通する予定になっている。東京-名古屋間が40分になる。電車賃はともかく、時間的には、名古屋は首都圏の一部になる。東京にいても、名古屋にいても、ほとんど違いがなくなる。

電車だけではない。遠くない将来に車の自動運転が普及すれば、「車の中で寝ている間に目的地に着く」というのが当たり前になり、これまた移動革命が起きるであろう。電気自動車の場合、床は段差がなくて平たい。車の中は、箱みたいな空間になっており、布団と枕が置いてある。寝ていれば、朝には勝手に目的地に着いている。まさに、「移動するカプセルホテル」だ。

21世紀に入って十数年。いよいよ、SF映画みたいな世界が現実になろうとしている。2001年頃は、「20世紀とたいして変わらないな?」とよく言われていたが、その判断はまだ早すぎた。2020年頃から、いよいよ世界が、本当にSF映画みたいになってくる。

問題は、それが人間の精神にどういう影響をもたらすかだろう。

考えられるのは、「おそらく、この世界そのものが、壮大なバーチャル・リアリティーに見えてくるのではないか?」ということ。

というのも、もともと、この世界は壮大なバーチャル・リアリティーなのである。これは、精神世界の探求者にとっては、古来から常識だった。でも、世間の一般人には、いまひとつ普及しなかった考え方。

でも、だんだん、昔はどうにもならなかったことが、自由自在にできるようになってくる。遠いところにも素早く移動できるし、物理的な障壁がだんだん薄れてくると、この世界の本質が、あらわになってくるに違いない。

ていうか、遠いところに移動する必要もなくなってくる。代理となる昆虫サイズくらいのロボットを現地に派遣して、自分の目と耳の代わりをさせればよいのだ。まるで、現地にいるのと変わらない現地体験ができるようになるであろう。

筆者のように、好奇心は旺盛だけど、行動力が乏しくて、どこにも行かないタイプの人にとっては、実にありがたい技術だ。最近は、上にも書いたように国内ではアチコチに行ってるけど、しょっちゅう海外出張している知人などと比べたら、まだまだ行動範囲は狭い。しかし、これからは、行動範囲を広げなくても、認識範囲をどんどん広げることができる。

いろんな面で危険な技術ではある。とくに、盗撮・盗聴をいかにして防ぐかが、将来は極めて難しい課題となるだろう。自分の身近にいる昆虫が、地球の裏側の人と直通する情報端末だった・・・というようなこともあり得る。

例によって話がズレてきたので、もとに戻すと、要するに近い将来、この世はバーチャル・リアリティーに見えてくる。今までにも、精神世界の探求者には、そのように見えていた。でも、これからは、世間の一般人にも、明らかにそう見えてくる。人によって個人差はあるだろうけど、おそらく大半の人にとって、そう思える日がきっと来る。

そのとき、精神世界というジャンルが大きくクローズアップされるものと筆者は見ている。今までは、どちらかといえば、「陽が当たらない日陰のサブカルチャー」という扱いだったけど、おそらく遠くない将来に脚光を浴びることになる。

(つづく)

 


2017年、変化が加速する世界

2017年01月28日 | こっくり亭日記

 

「2012年アセンション」の説は空振りに終わったが、アセンションそのものの寿命が尽きたわけではない。むしろ、これからだ。

ていうか、2017年はどうやら、世界が激動の時代を迎えたようだ。

急速なグローバル化が、大きな反動を起こしている。アメリカも中国も、貧富の差が大きくなりすぎて、まるで革命前夜のような社会情勢。アメリカでは、暴言王のトランプ大統領が登場した。中国は、世界中に軍艦を送りこみ、日本やアメリカとの対決姿勢を明確にしている。

かつて、アセンションがブームだった頃は、「アメリカが滅亡することにより、地球人類は新しいステージに上がる」という、政治的な主張をする勢力が登場した。それに対して筆者は、「いや、それは違う。中国が崩壊することにより、地球人類は新しいステージに上がるのだ」という異論(?)を唱えていたものだ(笑)。

まあ、そのことの是非はともかくとして、途方もなく変化が早い時代に突入したのは確かなようだ。

もちろん、こうした政治・経済の変化が、アセンションに直結するわけではない。でも、諸行無常の世の中を見ていれば、物質世界の虚しさに気づき、急速な意識覚醒へと向かう人々が増える。

地球人類の歴史を振り返ると、一万年前の世界は、ほとんど変化しなかった。千年前の世界はゆっくりと変化していた。百年前の世界は、急速に変化していた。十年前の世界ともなると、あっという間に変わる世の中になった。

このような加速が、ますます進行している。それが、2017年の世界。

この調子で変化が加速していけば、やがて、変化それ自体が日常となり、限りなく流動的な世界になってくるだろう。「まだ遠い先のこと」と思っていたことが、予想外に早く到来する。やがて、変化しているのが通常の状態となる。

今までは、「こんな世界がずっと続く」、「自分がこの世からいなくなっても続く」と思いこんでいたことが、次々と、自分が生きている間に崩壊し、消えていくことだろう。

そんな体験が続けば、人々は、「ずっと続くものなど、何もない」と考えるようになるだろう。何事も、「もうすぐ変わる」、もしくは、「もうすぐ無くなる」ということを前提にして考えるようになる。

それは、強烈な信念体系の崩壊をもたらす。

そうなると、どうなるか。おそらく、「この世は共同幻想の産物であり、仮想世界である」ということが、誰の目にも歴然としてくるだろう。

このように、筆者の考えでは、「変化の加速」と「アセンション」には切っても切れない関係がある。それは、表裏一体と言ってよい。 

もともと、アセンションというのは、そういう話だった。「時間の加速」を抜きにしては語れない話だった。「マヤ暦の終焉」とか、そういう都市伝説が後から出て来て、そちらがブームになりすぎたおかげで、話のポイントがズレてしまったのだ。今こそ、原点に戻るとき。

もっとも、現実をどのように解釈しようとも、その現実のほうが、人々の意識より先に変わってしまいそうだが・・・。

(つづく)

 


「八ヶ岳の聖人」が急逝

2016年10月13日 | こっくり亭日記

やはり、「虫の知らせ」ってものは、あるみたいだ。

先日、収蔵してた本の山を整理したところ、蘆原瑞穂氏の「黎明」が出てきたので、急に読みたくなり、久しぶりに読み返し始めたら、ハマった。数年前に読んだときよりも、「黎明」が気になりだした。

そこで、「蘆原瑞穂講演会にでも行ってみるかな?」と思ってサイトを見たところ、なんと、「蘆原瑞穂氏はつい最近、交通事故で急逝されました。追悼集会を開催します」とあるではないか。

亡くなったのは10月2日だというから、急に「黎明」が気になり始めたのは、その数日後。かつての愛読者ならではの、虫の知らせだったか・・・。

それにしても「黎明」は本当に、精神世界で知るべきことを全て網羅した、空前絶後の体系書。これだけの著書を残せば、人生に悔いはあるまい。地球での役目を終えて、一足お先に宇宙のどこかに還ってしまったんでしょうな。残念だけど仕方ない。

特に、序章から第一章・第二章あたりがいい。「科学的な物の見方にあまり関心のない方は、ここを適当に読み飛ばしていただいて構わない」と、本人が書いてるだけあって、物理の話をとても詳しく書いている。久々に読んでみると、「物質界は実在しない」ということが、ほぼ完全に証明されている。

物理学もさることながら、哲学の考え方に慣れてない人にとっては、かなり面食らう内容だろう。「いきなり、こんな難しい話から始めて大丈夫かいな?」と、他人事ながら心配になってしまう箇所。もうちょっと序盤から入りやすい本になっていたら、普及度も違っただろうに。それでも、愛読者が少なからずいるんだから、結果的にはOKなんだけど。

いずれにしても、また「黎明」を読み返す。読み返して、ブログにも書きます。

それにしても、惜しい人物を失ったものだ。交通事故で急逝?・・・事情はよく分からないけど、こればっかりは仕方ないねえ。

講演会に行きたかった。この世での縁がなかったようだ。残念。

謹んでご冥福をお祈りします。

 

  久遠の昔   そこから私はやって来て

  永遠の時を掛けて  私はそこへ還って往く

   それが  私の求めているものです

   (黎明 序文より)

 


量子力学

2016年03月19日 | こっくり亭日記

量子力学は、「相対性理論」と並ぶ20世紀の物理学の二大理論。古典物理学を、すっかり書き換えてしまった。

とはいうものの、筆者にとって量子力学は「科学」というより、「精神世界・スピリチュアル関係者の間で大人気の理論」という面でずっとナジミ深い(笑)。実際のところ、これほど精神世界の考え方に合う科学理論は、他にちょっと見当たらない。だから、人気が出るのも当然だろう。

もちろん、「これは科学なのだ。スピ系っぽい解釈をするな」と怒る人もいるんだけど、そういう人はたいてい、本物の専門家ではない。

そもそも、本物の専門家による量子力学の解説は、ほとんど「数学の講義」そのもので、スピ系っぽく解釈すること自体が難しい。というのも、専門の研究者は、なんといっても、「実験結果および、それとツジツマの合う数学理論」に関心がある。精神世界関係者は、そうではない。量子力学によって浮かび上がってきた、「物質という存在のあやうさ(?)」みたいなものに関心が集中している。

それはともかく、量子力学が取り扱っているのは、原子・電子・光子・・・といった、ものすごく小さな粒子の話。どのくらい小さいかというと、「原子とピンポン玉の大きさの違いは、ピンポン玉と地球くらいの違い」とよく言われる。いくらなんでも小さすぎて、日常生活における「物質」の常識がほとんど通用しない。

問題なのは、その「原子」の構造だった。われわれ人間や動物も、岩石や海水も、地球や太陽も、銀河系やアンドロメダ星雲も、すべてが原子でできているにもかかわらず、あまりにもナゾに満ちた存在だった。

最初は単なるツブと考えられていたけど、そのうち、「原子核の周りを、電子がクルクル回っている」という、理科の教科書などでオナジミの図が登場した。これはちょうど、「太陽の周りを、地球や火星その他の惑星が回っている」という太陽系の形にソックリだったから、なんともいえない説得力があった。まさしく、太陽系と原子こそは相似形で、マクロコスモスとミクロコスモスの見本みたいに思われた。

もっとも、オナジミの図といっても、実態とは大きくカケ離れている。というのも、原子の大きさと比べて、原子核の大きさが本当はあまりにも極端に小さいので、正確な図にすることなど不可能だからだ。原子核がどれくらい小さいかというと、これまたよく使われる例えに、「原子の大きさを東京ドームとすると、原子核の大きさは野球のボールくらい」というのがある。「このテーブルの大きさを原子核とすると、電子は山手線くらいの遠いところを回っている」というのも聞いたことがある。何kmも離れたテーブルの周囲を、お皿が回っているというくらいのイメージ。

誰もいないガラガラの東京ドームの真ん中の空中に、ボールが一個だけ、ぽつんと浮いている姿を想像してみよう。それでいて、全体の重さの99%以上を、その「ボール」が占めている。原子というのは、それくらい中身がカラッポ。それが、われわれ人間や宇宙を作っている、「物質」の中身なのだ。そう思うと、なんとも背筋が寒くなってくるほど空虚・・・。

その原子核の周りを、電子が回ることにより、原子ができている。その電子ときたら、原子核と比べても、さらに極端に小さくて軽い。ほとんど、物質なのかどうかも分からないくらいだけど、それでもやっぱり物質の仲間ではある。

原子核はプラスの電気を帯びていて、電子はマイナスの電気を帯びている。プラスとマイナス、陽と陰とがお互いに引き寄せあって、ペアになっている。原子核も電子も、お互いにメチャクチャ小さい。それでいて、電子は、原子核から遠く離れた軌道をいつまでも回っている。そうやって、中身がカラッポでスカスカの「原子」が作られている。なんとも、摩訶不思議な構造というしかない。

ここで科学者たちには、大きな疑問があった。それは、「なんで、電子は原子核に引っ張られて、くっついてしまわないの?」という疑問。

まあ、地球が太陽の周りをいつまでも回っていられるのは、遠心力があるおかげ。電子が原子核の周りを回っていられるのも、それと同じだろう。

・・・というのは誰もが思うところなんだけど、実験の結果なんと、この電子のエネルギーは、時間がたつにつれて、だんだん落ちてくる(はずである)ことが判明した。このままでは、電子はやがて原子核に吸い寄せられてしまうだろう。そうなったら、原子はつぶれる。原子がつぶれたら、どうなるか。物質そのものが消えてなくなってしまう。これは、物質世界の一大事。

それにしては、この物質世界は、見るからに堅牢にできている。かつて古代中国には、「空が落ちてきたら、どうしよう?」と心配して悩んだ人がいた。でも、世の中、「物質が消滅したらどうしよう?」と心配する人はさすがにいない。それはナゼなのか。

そういう疑問を解決するために登場したのが、量子力学だった。

量子力学といえば、かの有名な「二重スリット実験」から話は始まる。

(つづく)


クオリア その5 ~ スピリチュアルの領域

2016年03月05日 | こっくり亭日記

茂木健一郎氏のおかげで、クオリアは「脳科学の問題」として取り上げられることが多くなった。でも本当は、その辺りは微妙かもしれない。どっちかっていったら、「宇宙にハテはあるのでしょうか?」に代表される、「こればっかりは、どんなに科学が進歩しても永久に分からないんじゃあるまいか?」というタイプの問題かもしれない。

なんで科学で解明できないのかといえば、「他人のクオリアは分からないから」というのが、その理由。「ボクに見えているリンゴの赤い色と、ペットの犬に見えているリンゴの色は、同じでしょうか?」・・・というような、究極に主観的な問題ともなると、実験して分かるものでもない。これじゃ、科学者が取り扱う対象になりにくい。分からないというより、調べようがないのである。

そもそも、他人の意識というのは、本人になってみないと分からないところがある。

「ボクには意識があるけど、他の人たちはどうなんだろう?」というのは、子供がよく抱く疑問。「ひょっとしたら、意識があるのは自分だけで、他の人たちは機械みたいに動いてるだけなんじゃないのかな?」というのは、子供らしい空想で、「ボクも昔、そう思ったことがある」という人は多い。

ところが、これは哲学では「独我論」と呼ばれ、昔からある、かなり強力な考え方のひとつだったりする。というのも、「疑える限界まで疑ってみる」というのが、西洋哲学の伝統。「他人にも、自分と同じような意識があるのかどうか」なんてのは、どうにも確信がもてないものの筆頭に挙げられるくらいなんだから、真っ先にさんざん疑われてきた。

でも、やっぱり、「意識があるのは自分だけ」と本気で思っている人は、まずいない。明らかに、ほとんどの人は、他人にも意識があるのを当たり前と考えている。ナゼかというと、それは、他人の心の中までは分からなくても、反応や行動を見れば、だいたいのことは分かるからだろう。

たとえば、他人の目の前に、ミカンとテニスボールを置いてみる。普通は、ミカンの皮をむいて食べるだろう。ここで、テニスボールの皮をむいて食べようとする人は、まずいない。このように、他人の反応や行動を見ていれば、「どうやら、他の人たちにも、自分と同じものが見えているみたいだな」ということが分かって安心する。

そういう人生経験を重ねることを通じて、「他人にも、自分と同じような意識があり、感覚がある」というのが確信へと変わり、ついでに、「この世は実在する」という確信も深まる。他の人たちも「ある」って言ってるんだから、やっぱり実在するんだろう。他人との交流を通じて、そういう信念が強くなる。

子ネコに鏡を見せると、鏡に映った自分の像にビックリして、後ろをのぞきこんだりする。それを見れば、「ネコにとっても、鏡に映るのは不思議なんだな?」ということが分かる。でも、そんな好奇心旺盛な子ネコが、大人になると、鏡をメンドくさそうにチラッと見るだけになったりするのだが・・・。

このように、いくら「意識とか感覚とかは、人それぞれの内面のことだから分からない」と言ったって、実際には、反応や行動を観察することによって、かなりのことが分かるのである。たとえば、「利き酒テスト」をやってみれば、人それぞれの味覚の個人差も、かなりのところまでは客観的に分析できる。

人間の感覚の中で、昔から実体が疑わしいものの代表格とされている「色覚」だって、絵を見たときの反応などを観察すれば、他人にどう見えているのかは、だいたい分かる。色覚検査をすれば、さらによく分かる。もっとも、「本当の色」など誰も知らないのだから、色覚「異常」も何もあったものじゃないんだが・・・。

それはともかく、他人の意識や感覚のことは、こういう観察と分析を通じて、かなりのところまでは分かる。IT革命のおかげで、その方法は飛躍的に進歩した。おかげで、ますます多くのことが科学者には分かるようになった。

それでも、分からないことは残る。どれだけ技術が進歩しても、「反応や行動を、外から観察する」ということに変わりはなく、心の内側にはナゾが残るからだ。

たとえば、イヌの脳をよく調べれば、「どうやら、イヌにとっては、リンゴは黒っぽいコゲ茶色に見えてるみたいだな」とか、そういうことは分かってくるだろう。でも、本当にどう見えているのかは、イヌにしか分からない。

それと同じように、他人の感覚についても、最終的には本人の意識になってみるしかない。

実は、ここが重要なポイント。というのも、「本人の意識になってみる」というのは、「意識を統合して、自他一体になる」ということ。ここまでくると、完全にスピリチュアルの領域に入ってしまう。

「人間の認識の限界」を明らかにした18世紀の大哲学者・カントに対して、19世紀の大哲学者・ヘーゲルは、それを「意識の進化によって乗り越えられる」と唱えた。ヘーゲルによれば、「人間の認識には限界がある。本当のことは分からない」とカントは言うけど、そんなことはない。それは、あくまでも、「現時点では」という話。人間の意識は成長している。人類の精神も進化している。今は無理でも、いつかはすべてを知ることができるようになるのだ。

・・・この話を聞いて、「やっぱり、ヘーゲル大先生は偉いなあ」と感動する人もいれば、「人間が全知全能の神様みたいになれるとは、なんだか、神がかった偉そうな思想だな?」と反感を持つ人もいた。後に第二次世界大戦を起こしたヒトラー総統は、「人間は、生成途上の神である」という超人思想を唱えた。「元ネタはヘーゲルだ」と批判されている。

でも実際のところ、ヘーゲルが言ってたのは、「人間は、進化すれば神になる」というような話ではなかった。それよりも、「自他一体の境地になれば、完全なる理解に到達できます」という、ワンネス思想に近い話だった。このあたり、精神世界マニアにとっては難解どころか、逆にピンと来やすいところ。やっぱり、昔の人の思想に共感するためには、哲学の知識だけでは無理。ここは、精神世界の素養が要る(笑)。

例によって話が脱線しまくりだけど、「クオリア」というのは、要するにそんなところ。人類にとっては、神秘の彼岸にある永遠のナゾのひとつだろう。

もっとも、先日も取り上げた未来学者のレイ・カーツワイル氏によると、「将来はITの進歩により、自分の意識をインターネットにUPして、視聴者がその意識をダウンロードして楽しむのが流行する」という話だった。たとえば、サーフィンをやっている最中の爽快な感覚を、本人の意識になりきって楽しめるらしい。脳神経とコンピュータが直接つながっているから、リアルな感覚が脳へとダイレクトに送り込まれる。これほどハマる娯楽は、他にないだろう・・・だそうな(笑)。


クオリア その4 ~ 世界の実在をどこまで疑えるか?

2016年03月01日 | こっくり亭日記

人間は、それぞれの意識が作りあげた、一種の仮想現実の世界に生きている。検討を重ねた結果、カントを初めとする近代ヨーロッパの哲学者たちには、「どうやら、そうらしい」ということが分かってきた。

だからといって、「物質世界など実在しない」というのは、さすがに極端な意見。

インド哲学と違って、西洋哲学は、「この世は幻影(マーヤー)である。解脱しましょう」というような思想ではない。中にはそういう人もいたけど(ショーペンハウアー)、主流とは言えない。

この世の物質世界は、やっぱり現実に存在している。それを否定するのは、ちょっと極端。でも、ボクやアナタに見えている世界は、どうも、なんだか違うみたいだ。脳内現象を抜きにしては、人間は何も分からないようにできている。本当はどうなってるのか、誰にも分からない。

そう思うと、目の前にある「現実」が、どんどん疑わしくなってくる。「ボクの目には、赤くて丸いリンゴが見えているけど、本当は違うんじゃないか?」なんて疑いだしたら、キリがない。

これは、科学にとっても深刻な問題だった。たとえば、金属片に火をつけてみたところ、オレンジ色の炎を上げて燃えました。そこで、「ボクの目には、オレンジ色の炎が見えている。でも、このオレンジ色の炎は、ホンモノの炎なのだろうか?」なんてことをやってたら、とても実験どころではない。何もかもが、根本的に疑わしくなってしまう。

 そこで颯爽と登場した大哲学者が、「現象学」のフッサール。

 現象学の研究者・竹田青嗣氏によると、この「認識」の問題がヨーロッパの哲学者たちにとって、これほどの大問題になった背景には、血で血を洗う宗教戦争があった。カトリックとプロテスタントに分かれて、欧州各地で大戦争。とくに、17世紀に起きた「三十年戦争」では、「ドイツの人口が3分の2に減った」と言われるほどの、すさまじい被害があった。

 「人間は、同じ世界に住んでいるのに、どうしてこれほど考え方が対立して、殺し合いにまでなってしまうのか?」というのが、なんといっても最大の問題だった。「人はそれぞれ、同じ世界に生きているようでいて、実は違うモノを見ているんじゃないのかな?」という深刻な疑問が出てきた背景には、それがある。

 筆者も先日、左翼の知人が「中国は過去に一度も他国を侵略したことがない平和な国なのに、日本の安倍政権が戦争を起こそうとしている」と言っているのを聞いて、その感を深くした。「それは、地球の現実とは正反対だな。今は、中国が海軍を大増強して、ラバウルとかガダルカナルにまで海洋進出している時代。日本とアメリカ、そして東南アジアやオーストラリアまでが連帯して、その脅威に対抗しているのだ」と反論したところ、「それは、どこの惑星の話だ?」と言われてしまった。

 このような例を見ても、同じ地球環境に生きていると言ったって、人それぞれの意識世界は異なっているのであり、一種のパラレルワールドに住んでいるんだってことがよく分かる・・・。

 それはともかく、底なしに疑わしくなってきた物質世界への疑問に、フッサールは歯止めをかけることに成功した。

 そのためには、まず、すべての先入観を捨てることから始める。特に、「この世は実在する」という、地球人類にとって最も強固な信念、思い込みを停止することから始める。これを、「エポケー(判断停止)」という。

 この世をエポケーしたら、次に、自分にとって見えるもの、聞こえるもの、あるがままの姿だけを直観する。それは、純粋な直観。結局のところ、最終的には直観しかない。

 そこで、テーブルの上のリンゴを見る。そこに見えるのは、「赤くて丸いリンゴ」だ。これを、「白くて細長い大根」だと思おうったって、それは無理というもの。「本当は、これはリンゴじゃないのだ。一見リンゴに見えるけど、実は大根なのである」と、いくら自分に言い聞かせたところで、大根には決して見えない。それはやっぱり、丸くて赤いリンゴ。目と脳は、自分の意思にかかわらず、勝手にそう認識する。胃腸が、自分の意思にかかわらず、勝手に動いて消化するのと一緒。こればっかりは止められない。

どう頑張ってみても、赤いものが青くは見えない。丸いものが四角く見えることもない。「本当は青いんじゃないの?」と疑うことはできるけど、それによって赤いのが青に変わるわけでもないんだし、意味がない。

 「それなら、もう、それは認めてしまってもいいんじゃないか?」というのが、フッサールの考えだった。認めるというより、それ以上は疑っても意味がない。「疑うことの限界」が、ここにある。ここにきて、ついに、人間が物質世界の実在を疑える限界が確定されたのだ (まあ、もちろん、これだけで終わるような話じゃないんだけど・・・)。

 ・・・とまあ、そんなこんなで、哲学者たちは「認識問題」に延々と取り組んできたわけなのだが、最終的には、これは「クオリア」の問題に尽きる。われわれが感覚する、花の色とか、水の冷たさとか、草むらの匂い・・・とかは、なんで、こんなに鮮やかで生々しく、現実感に満ちているのか。これは、人類にとって最大の難問と言えるテーマ。今では、哲学の問題じゃなくなった。現代において、これは脳科学の問題。21世紀になって、急速に進歩している。

 (つづく・・・)