旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

トロワ街歩き~運河、市庁舎、聖ウルバン・バジリカ、

2023-02-09 13:17:35 | フランス
↑トロワに入って最初に目についたのは、二つの旧市街の間を流れるこの運河。

観光案内には木組みの家並みとステンドグラスの教会群ばかり紹介されていたが、トロワは19世紀の建物も多い。

繊維業が現在に至るまで盛んで20世紀前半まではこの運河も現役で使われていた。

↑この橋は船が通る時に旋回していた跡を記憶している↑


19世紀↑革命の後に出来た市庁舎↑中央にはフランスのモットー「自由、平等、博愛」を表す女神がフリギア帽(ローマ時代の解放奴隷がかぶったことが起源とされる)をかぶって、ファッシ(権標)を足元に置く↓

↑モットーの最後に「OU LA MORT(さもなくば死を)」と刻まれている革命最盛期のオリジナルはたいへんめずらしい↑左手には首でも持っていたような手つきをしている…


広場に置かれたメリーゴーラウンド

↑旧市街の「猫の小道」の絵が描かれている

↑ランチタイムが終わってもどってきたお一人が「猫の小道」近くのお店のきれいな紙袋をもっていた。
旧市街の中心にも大きな広場があるトロワ。

シャンパーニュ地方の中心都市だから↑地元の小さなシャンパン製作者のボトルもある
**

商業地区側の聖ウルバン・バジリカ↑
後に法皇ウルバヌス4世となる靴職人の子=ジャック・パンタレオンは1200年にトロワで生まれた。
この教会のある場所は父親の工房跡。
生まれで生涯を決められる時代にあって、自らの能力で地位を得られるのは宗教界しかなかった。
十字軍最盛期にエルサレム司教に任命され、1261年に法皇に上りつめたが、
神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世と対立するなかで、1264年に中部イタリアのペルージアで没した。

ローマ法皇に選出された翌年にこの教会の建設をスタートさせ、「故郷に錦を飾った」のだが、彼の遺骨がここに返還されたのは1905年になってからである。

↑内陣のこの場所に、返還された遺骨は埋葬された↑


ゴシックの彫刻群は破壊されているが一見に値する

↑地獄へひきこまれる人々↑



↑クレルボーのベルナルド像↑戒律の厳しいシトー派の中でもさらにきびしいクレルボーの修道院を創設した人物

↑外側の壁支え柱(フライングバットレス)で支えられていて↓その柱のいちばん下に大きなヤギの頭↓

↑ここをさわると力をもらえるのだそうな(^^)
****

まだまだ↑ホット・ワインの季節(^^)

運河を超えて、大聖堂のあるシテ地区を歩こう。
ローマ時代から街のあった場所である。
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トロワ街歩き~ムロワ館外観(道具博物館)、市場の聖ジャン教会

2023-02-09 12:56:42 | フランス
1582年、ジャン・ムロワとルイズ・プルール夫妻は、死後この館をトリニテ修道院に委託し孤児院として運営することを決めた。

孤児院は自立のための職業訓練として紡績工場を兼ね、職人を育てる場にもなっていった。

この理念があったため、フランス革命時にも孤児院と工場は護られた。
移転はすることになり、この建物は兵舎として使われた。

1920年からは印刷会社が入った。
その後、オーブ県で最初の歴史的建造物に指定され、1966年にトロワ市が買い取った。

1974年にポール・フェラー氏が集めていた職人の道具を展示する博物館となった。

こういう博物館はフランス全土でも珍しく、
今回の旅で見学したいとは思ったのだが…
解説されても小松がすぐに理解・解説できるとは思えず、見送った。
次回(いつ?)、しっかり時間がある時に訪れたい。

↑周辺の路地の木組みの家々↑いちばん上の切妻下にロープをかける場所がある↑


ガイドのクリスティンさんが通りに面した扉の鍵をがちゃがちゃ開けて我々を招き入れた。こんなところのカギなんか持っているんだ↑

ツーリスト・インフォメーションを通じてガイドをおねがいしているから、この場所も見られる。
「黒いライオンの館」と名前が付けられている。

↑この紋章が二階の古い部屋にある暖炉に刻まれているそうな。
「黒いライオン」は道路にむけてあったそうだが失われている。

大通りに↑コロナ禍で閉店したデパート跡↑
**

↑サン・ジャン・ウ・マルシェ教会は9世紀には木造存在していた記録がある。
それは西暦889年から892年まで続くノルマン人の侵略によって破壊された。
その後、遠来の商人たちがやってくる市(いち)で栄えるようになったトロワの街の真ん中に石造りで再建されはじめた。
13-14世紀の石造りが今も見られる。

1524年の大火では聖歌隊席と翼廊に被害をうけたがその後も建設は続けられた。
市のど真ん中にあったので石壁には多くの商店がくっついて建てられていただろう。
1911年に教会の外側に並んでいた小屋が撤去され、南西角の鐘楼塔も崩壊した。
幸い塔の中にあった鐘は無事で、今は教会内部の床におかれている。

1420年、百年戦争中にイギリス王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリンの結婚がここで行われ、「トロワ条約」が締結された。発狂していたシャルル6世の死後にイギリス王がフランス王の領土を継承する内容だった。※シャルル6世の叔父のブルゴーニュ公による策略とされる

↑小松がはっとしたのは↑2018年にカナダのケベックを訪れた時に覚えていた名前を教会の前でみつけたこと。
※2018年秋のケベックのブログごらんください
★マルグリット・ブルジョワは1663年と1673年に、ルイ14世統治下のニューフランス=現在のモントリオールに渡った。
770人もの「王の娘たち」を選び・教育し、男ばかりだった入植者と結婚させた。
数年後にニューフランスの人口は三千人から一万人に増えた。
マルグリットは二十歳の時神の啓示をうけて修道院に入っていた。
友人・ルイーズ・ショムディの弟がモントリオールの初代総督になり「女たちとその教師がニューフランスに必要だ」と相談したので推薦されたのである。彼女は先住民の子供たちにも教育の機会を与え、モントリオールには今も彼女興した施設がある。
※モントリオールの初代総督メゾヌーヴの像の夜景を見た日のブログにリンクします

堂内には聖母マリアとカナダ先住民の子供たちの像↑

***
カフェでランチブレイク

****
NHKの「世界ふれあい街歩き」でもとりあげられたアンティーク店をみつけた

※番組公式HPにリンクします
実際に店内に入ると予想以上に「時の欠片」がつみあげられていた

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トロワ街歩き~ラシ館(外観)、聖パンタレオン教会

2023-02-09 11:55:15 | フランス
ユダヤ人が多いのは中世商業都市の常。ラビのラシ(Rabbi Chlomo ben Itzhak(イサクの息子ソロモン) HaTzarfati(フランスの))は、1040年に トロワに生まれ、今のドイツに位置するマインツとウォルムスで学び、30歳前にはトロワにもどってユダヤ教の学校を開き、ヨーロッパ中から生徒がやってきた。※ラシ館の英語サイトにリンクします

今もここに学校があり、シナゴーグがあり、ミュージアムとしてガイドツアーも行っているのはラビ・ラシ師の存在に寄る。

しかし、晩年には十字軍運動がはじまり(1095年にフランス中部クレルモン(現クレルモンーフェラン※2018年に訪れた時のブログにリンクします)近隣都市のユダヤ人たちへの迫害がはじまっていた。
誰かの正義感が、他の誰かの災いになることはいつの時代にもある。

予約すれば二時間の見学ツアーもあるようだ。
トロワのガイドさんによれば、アメリカからのユダヤ人たちが多く見学に訪れるそうな。



↑改修中の路地を通った↑木造の建物の入口がなぜ高い位置にあるのか?

↑中世の路地は家々から投げ捨てられる汚物がいっぱいで、時にぬかるんで、とても不衛生だったとされる。それらが家の中に入らないようにしていたのではないかしらん。

↑修復中の家の内部が覗けた。
路地を抜けて広場にでると

19世紀に爆発的に拡大した繊維産業に融資するために進出したリヨン銀行※リヨンも繊維(主にシルク)産業で栄えた
**
聖パンタレオン教会は高さ28メートルになる木造の天井が印象的↓

この場所にはかつてシナゴーグ(ユダヤ教会)があったとされるが、十字軍運動の迫害で没収・破壊されたと推察されている。1189年には木造のキリスト教会の記録がある。1500年代はじめに石造りに代えられていった途上、1524年にトロワの大火に遭う。1527年に周囲の土地を購入してより大きな教会として1570年に現在に近いカタチになった。

この教会は周囲に住む裕福な繊維業者の寄進によって支えられていて、特にポーランドから移住してきた職人たちも住んでいた。彼らのためにポーランド語のミサを行ってきたし↑今も目の前にポーランド領事館の旗が出ている。

内部、イタリアからの影響をより強くうけた↑動きのありすぎる彫刻

中央祭壇の直立な聖パンタレオンと対照的。

「グリザイユ」と呼ばれるステンドグラスは↑「新しいステングラスのスタイル」と解説されているが、実はより安価にステンドグラスを製作できるように多彩な色ガラスをつくる代わりにガラスの上に描く方法がとられている。

入って右手二つ目の柱にあるリアルな彫刻。
↓皮職人の守護聖人=聖クレパンと双子の聖クレピアン↓3世紀にローマから布教にやってきた靴職人。
皮を切っている作業場に、今しもローマの兵士が乱入して捕まえられるところ↓



↑机の下の犬も怖がっている↑

↑彫刻の下に腕の折れた天使像↑花輪には何が書かれていたのか?
推察だが↑天使たちの下の空白部分にはかつて裕福な皮職人か商人の墓か記念プレートがあって、フランス革命あたりに破壊されたのではないかしらん。

↑近くの二階から見ている二人はユダヤ人だとされる↑

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トロワ街歩き~マドレーヌ教会

2023-02-09 11:17:57 | フランス
「おしつぶされることを怖れず、祝福された復活を待つ者ここに眠る」
見事な彫刻の「ジュベ」を製作した職人ジャン・ゲルデは1519年この下に葬られ、墓碑にこう刻んでいた。

※「ジュベ」とは、聖職者席と参列者席を隔てるための壁。今ではフランス全土でも四つ(七つと書かれた資料もあり)しか残されていない。

「おしつぶされることを怖れず」とは、ジュベが重さで崩れることを指しているのだろう。
当時はこういった建造物が倒壊することは珍しくなかった。
完成後一週間、建築責任者が下で寝泊まりすることを課していた教会もある。

ジャン・ゲルデが何歳だったのかはわかっていない。
1492年に職人ギルドに加入し、トロワ大聖堂(Cathédrale Saint-Pierre-et-Saint-Paul de Troyes)の内装コンペでは落選し、生涯最後の十年間1508年から1517年までの十年でこの仕事をしあげたことから推測すると五十代中頃だったのではないか。
トロワで最も歴史あるマドレーヌ教会に、自分を採用しなかった大聖堂委員会を残念に思わせるようなジュベを、十年かけて完成させた。

↑16世紀当時祭壇に向かって右側には男性が座っていたから、ジュベも向かって右側に男性の聖人たちが刻まれている↑
**

マドレーヌ教会はステンドグラスも必見である。
↑「エッサイの樹」はキリストの祖先にあたるユダヤの王たちを画面いっぱいカラフルに描いた16世紀はじめの作品↑
※「エッサイの樹」を主題にしたステンドグラスはシャルトル大聖堂にある12世紀のものが有名。2013年に訪れたブログに少し載せています
三百年後にトロワのステンドグラスを制作した職人も、シャルトル大聖堂の「エッサイの樹」を見ていたにちがいない。


↑こちらは左下から旧約聖書の「天地創造」↑シンプルな構図ほど青や黄色のステンドグラスの色が生きている。

↑左下の紋章は貴金属加工職人たちの組合紋章↑このステンドグラスを制作する費用を彼らがまかなったということ。描かれているのは彼らの守護聖人の聖エロワ(エリジウス)の生涯↑


↑こちらは資金を出した家族の全員が描かれている↑左には主人と息子↑
↑主人は腰から赤い財布を下げており↑中がからっぽなのが見えている↑

↑左には奥方と娘たち↑

↑彼はニット業者だったので↑赤いタイツを履いた男が美脚をアピールしている↑
***
16世紀初期にイタリアからルネサンスの影響がもろに感じられる彫刻↓

↑「シャウスのマスター」とだけ伝わる職人が製作した聖マルタの像↓

↑手の表現に注目↑左手には怪獣タラスコをつなぐ引綱と聖水、右手にはおぞらく十字架を持っていた。
南フランスには怪獣タラスコ伝説がある。


↑説教壇への階段下に刻まれたロマネスク・ゴシックの怪獣彫刻も大好きです(^^)
****
教会の建物外に↓英語で言うなら「イノセント・ガーデン(無垢の庭)」がある

ここには生まれてすぐに亡くなった子供たちが埋葬されてた。
かつて、教会に入ることができるのは洗礼を受けたキリスト教者だけだった。
洗礼を受ける前に死んだことで、子供であっても教会内部の家族の墓にはいることができなかったのである。
今も遺骨が見つかるこの庭には白い花だけが植えられる。
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トロワ街歩き~木組みの家々

2023-02-09 09:45:57 | フランス
シャンパーニュ地方の古都トロワの木組みの家々↑傾いてもよりかかりあってもちこたえている↑いちばん左の19世紀の建物との間に木材が差し込んであるのがわかるだろうか↑

2月9日朝、青空とキリっとした空気の中を歩きはじめた。

「中世のままよく残ったなぁ」と思いがちだが、そうではない。

↑ひとつ前の写真と同じ円柱形の螺旋階段、しかし向かいの家の壁に木の梁は見えない↑
↑1960年代に修復される以前、家々の壁はしっくいで覆われていたのだ↑
1524年に大火が街を焼き尽くし、直後に元通りに再建したが、火事を怖れて木組みは隠した。

↑しっくいを剥がして一軒一軒修復をほどこして↑大火以前・中世の雰囲気を取り戻したトロワ旧市街。

↑有名な「猫の小道」近くにあるメガネ屋さん↑この木組みも「中世そのまま」ではない↓

↑いちばん下に「MCMLXXXⅥ(=1986)」と修復した年が刻まれている↑その右側には「VINI VIDI(=来た、見た)」とカエサルの言葉を引用し、修復者のマークが続く↑

修復の時につけられたメガネをかけた猫の顔(^^)なるほど

↑「猫の小道」には猫が歩けるような細い梁。猫のためではなく、つっかえ棒として何本もわたしてある。

↑両側の壁は16世紀からのものだが↑下部だけ新しい木材に取り換えられている↑

↑この石は路地を通る荷車の車輪が建物に当たらないように置かれている↑

「この扉はよく見ると新しいでしょ」と、ガイドのクリスティーンさん。

「猫の小道」の表示と地元のシャンペンの看板


↑この家はまだ漆喰をはがしていない

↑木の柱の一部にマリア様↑
修復にはお金がかかる。
個人所有の家々だから修復費用はそれぞれの家が支払う。ただ、文化財指定されているから修復計画書を提出してOKをもらうと、重要度や事情を勘案して最大半額の補助がうけられるのだそうだ。



木組みの家々に囲まれた中庭に出る↑地下に続く階段は何だろう?
今はシャンパン蔵になっていたりするが、かつてはニット工房の作業場だった。
「湿度が高くてたいへんだったそうよ」とクリスティーンさん。

↑かつてのこの広場のスケッチ↑
今見えているのは「中世そのまま」ではなく、残されたスケッチなどを基に試行錯誤を重ね・たんねんに修復した成果なのである。

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