旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

アヴィニョン~法王庁の建物はかつて

2023-02-11 10:37:48 | フランス
巨大な厨房の煙突だけは14世紀と変わらないのではないかしらん。

↑調理室とその煙突は↓下の写真大広間壁の右隅に見える小さな扉から入ったところにある。

アヴィニョンの法皇宮殿は今はがらんどう。

かつてはタペストリーが壁を飾り、祭壇も家具類もあっただろう。

巨大な宮殿がこんな状態になるとは、何があったのか?

↑壁に残る塗りこめられた窓がそのヒント↑

同じ場所を内側から見たところ↑
宮殿はフランス革命期に巨大な兵舎に改造されていた。
天井の高い空間は兵舎には必要なく、二つの床をつくって三階建てに分割されていた。

↑この巨大な礼拝堂も

↑かつては三階分割

↑正面のゴシック縦長窓もわざわざ三つに分割されている↑

この写真は1905年に14世紀法皇宮殿の姿をとりもどすべく改修工事がおこなわれていた時のもの↑
どれだけ大規模な改修がされていたのかがひと目でわかる。

↑礼拝堂入口に向かって右側の壁には↑かつて階段があった跡がはっきり残されている↑
五百年前の姿というのはそう簡単に「そのまま」に残らない。

↑一部にフレスコ画が残された部屋があるが、これらを復元するのにどれだけの苦労があったか。

↑壁に四角くはがれた跡があるのは後の時代になにか構造物がとりつけられていたからだろう。
↑はがされてどこぞの美術館に収蔵されて戻ってこない部分もある。

かつての床のタイル柄がおもしろい

↑これなんか「織部焼」みたい(^^)

シモーネ・マルティーニのフレスコ画は

そのシノピエ(下絵)がとなりに展示してあった。
フレスコ画の下に隠れているシノピエは一度はがされなければ見ることはできない。

つまり、一度はがされてしまったものなのである。
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アヴィニョン到着、翌朝歩きはじめる

2023-02-11 09:14:03 | フランス
有名なアビニョンの橋は途中で壊れたままになっている。

2023年2月10日、暗くなる前に「オクシタン」地区に入った。

今は南仏方言となったオック語を話すエリア、という意味。

アビニョンの城壁そばのホテルにチェックイン。

翌朝、ガイドさんと共に

城壁の中、旧法皇庁宮殿まで伸びる並木道を歩く

このリパブリック通りがアヴィニョンの目抜き通り。まっすぐな通りは革命後に建設されたのだろう。

途中にある作家フレデリック・ミストラルの胸像↓

「ミストラル」というと冬にこの地域に吹く強風のこともそういうが、
オック語もつかって文学作品を発表した郷土作家も同じ名前。

市庁舎↑その向こうに14世紀からの時計台↓

動かなくなって久しいようです。

↑ローマ法皇庁が「アヴィニョンの虜囚」だった時代に建設されていった宮殿。
1309年に、当時治安が悪かったローマ周辺から護るという口実でアヴィニヨンにつれてこられた法皇。
アヴィニョンはローヌ川に面した国境の片田舎だったが、
その後七十年のあいだにこんな法皇宮殿が建設され、発展した。
現在でも夏の演劇祭が行われる文化芸能の街になっているのはこの時代があったおかげ。

向かっていちばん左にみえる「ドンの聖母」教会へ

入ってすぐのロマネスクのフレスコ画がある空間が中世の雰囲気を留めている。


↑身廊部分はだいぶ新しい雰囲気。
アヴィニョンの発祥、ローヌ川をみおろす「ドンの岩山」に登る
冒頭の「アビニョンの橋」が見えた。

大河ローヌを渡る橋はずっと求められてきたが建設が困難だった。
12世紀に羊飼いのベネゼが「神のお告げ」をうけ、衆目の中巨石を動かして橋の建設がスタートした。
この時の橋はしかし、現在みるようなものではなく川の中に立てた石に板を渡した程度のものだった※2004年に橋博物館のイヤフォンガイドをきいたときの日記にリンクします2004年には三回もアヴィニョンに来ていたっけ。

↑橋の下の中州で踊る人々の写真↑演劇祭の時に撮影されたもの



↑教皇庁の建物に入ろう
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リヨン旧市街を少し

2023-02-10 08:06:34 | フランス
リヨン旧市街の「バラ色の塔」↑。
今日はトロワからアヴィニョンまでロング・ドライブする日だが、途中少しの時間でもリヨン旧市街を歩いていただきたい。


朝九時にトロワのホテルを出発。
地平線から登る朝陽。
フランス中央部は平らで肥沃な大地。

一回目のサービスエリア休憩↑コーヒー自動販売機がずらりと並ぶのは日本のSAと同じなのに、我彼の差はどこからきているのだろう。トイレの入口だってこのデザイン感覚(^^)消火器まで含めてデザインしたんじゃないか(笑)

トロワの南はすぐにブルゴーニュ。
言わずと知れたフランス二大ワイン産地のひとつ。

二回目のSA休憩で各自軽食。

↑ブルゴーニュ南部のマコンには、二十年以上前の視察旅行で一週間滞在したっけ。

軽食ですませたぶんリヨン滞在の時間を長くできる。マクドナルドのプリオーダーの画面では日本語も選べる。
**

リヨン旧市街を流れるソーヌ川のたもとで下車。

すっきり晴れて、きりっと冷たい空気。

↑川岸から曲がって入った↑「両替広場」(Place du change)。
↑かつてソーヌ川にかかる橋は、画面左奥・川向うに小さく見えている教会からまっすぐかかる一本しかなく、橋を渡って入ってきた遠来の商人たちはまず両替をしたのである。

↑川側から「両替広場」を見ると、正面にあるのが銀行だった。

↑中世の14世紀から両替商が陣取っていた場所には16世紀に銀行の建物建設がはじまり、1630年には両替商の建物があった。建物は何度も改修され証券取引所になっていったが、フランス革命期1803年にナポレオンがプロテスタント教会にすると決めた。
なので現在はTemple du changeという名前になっている。

↑角にはイタリア風のゴシック窓のある建物も残されている。
リヨンはパリよりずっとイタリアにちかい。

旧市街のメインストリートを歩こう。

↑「星の王子様」のお店。作者サンテグジュペリはリヨン出身。

↑「ギニョール」プチ博物館。リヨンの伝統人形劇です。
※2018年に訪れた時のブログに詳しく書きました

↑右の鼻の赤いのは酔っ払いのニャフロン↑ギニョールと彼との風刺会話がキモ。こういう会話劇の面白さはネイティブの人にしか楽しめないですよねぇ~。

ネイティブでなくても地元料理は楽しめる↑「ブション」はそういう食堂↑
←TRIBU DE GONES=ゴーヌ族とは
↑リヨンのモノを売っているお店
↑GONES(ゴーヌ)はリヨン人のことをあらわす方言

↑リヨンに来たらぜったいまた食べたいとおもっていたのがピンクのプラリネ入りブリオッシュ!あぁやっと再会できた(^^)
※2018年に訪れた時のブログに詳しく書きました
ピンクのプラリネは持って帰れても、ブリオッシュはここで食べるしかありません(^^)


↑知っていなければ入っていかないだろう門

↑上の看板「クリブル」とはここに住んでいたファミリーの名前。
下の金色の看板は民泊のもの↑
そして、冒頭写真の中庭にでる。ここにはリヨンで結婚したフランス王アンリ二世とイタリアのメディチ家からの嫁カトリーヌも滞在したそうな。

リヨンにはこうした中庭を繋ぐ小道が建物の中に隠されている↓

「トラブール」とよばれるこれらは、織物の街リヨンがその製品を濡らさずに・安全に移動させるために考案したのだとされている。

※2018年のブログにも書きました
***

サン・ジャン大聖堂のあるサン・ジャン広場にやってきた。

↑丘の上には19世紀のフルビエール大聖堂↑丘から見晴らすリヨンの全景をこちらに載せています


彫刻の多くは革命期に壊されたが入口の細かい浮彫はまだ一見の価値がある↑

↑大聖堂内部

↑かつていちばんの見所だった現役の天文時計は止まっていた!
動いていた時の様子※yutubeのスペイン語の動画にリンクします

年号表示は何度か新しくされた形跡があるのに、残念。


現在の大聖堂以前にあった教会の跡が発掘されている↑

↑壁の石材↑下部になるほど古い時代のもの

↑いちばん下はキリスト教化される以前の古代ローマの石材。4世紀の壁に使われている↑

リヨン旧市街徒歩観光、今日は二時間半だけだったがみなさんリヨン贔屓になりました(^^)

ガイドしていただきありがとうございます!

早くも夕景のリヨン










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トロワ街歩き~塗りつぶされたベラ・シャガール トロワ現代美術館

2023-02-09 16:25:29 | フランス
2023年1月、塗りつぶされた裏カンバスの下からシャガールの妻・ベラの肖像画がみつかった。
※展示は鏡をつかって裏側も見せている↑
「なぜ、塗りつぶされたのかはわかりません」

表の絵はロベール・ドロネーが描いたランナーたち。
1924年のパリ・オリンピックの一場面。
来年、百年ぶりのパリ・オリンピックが開催されるので各所から貸与の申し出があり、あらためて調査されてみつかった。

ロベール・ドロネーは1910年ごろシャガールとパリで知り合ったとされる。
シャガールと妻のベラの故郷はベラルーシ北部のビテブスク村。
ドロネーが結婚したソニアはウクライナ出身。
妻同士ネイティブなスラブ語で・ロシア語で会話したにちがいない。
ベラは友人画家夫婦のモデルになったのである。

このあとは想像だが…
この肖像画を彼女自身は気に入らなかったのかもしれない。
受け取ってもらえなかった絵は塗りつぶされ、
カンバスは再利用され、ランナーが描かれた。

ポンピドゥーセンターとの共同調査によると、カンバスを再利用するためにわざわざ裏の絵を塗りつぶす必要はなく、実際両面に描かれた絵はけっこうある。塗りつぶしたのはやはり、気に入らなかった・気に入られなかったから?

この絵はトロワ現代美術館の三階いちばん奥にある。

大聖堂のすぐ横にある建物は元の司教館

木組みが美しい階段

窓からは大聖堂が見える

1990年代に開館したが2019年に閉館。
長い修復期間を経て近年再オープンした。

トロワ伝統の繊維業者レヴィ夫妻のコレクションを中心にしている。
ピエール・レヴィはパリ生まれだが20歳の時にトロワやってきた。
働いていた会社の跡取り娘ドゥニーズと結婚し、家業をさらに発展させた。
後には有名なラコステブランドを傘下におさめるほどになる。
↑上のラフスケッチはトロワ生まれのガラス作家・画家モーリス・マリノーによる。
未完成だが40歳前後のレヴィ夫妻の雰囲気をよくとらえている。

↑これらがマリノーのガラス作品群

ピカソ晩年の陶器や
19世紀の先進的な画家の作品を網羅している。

さらにキュビズムに決定的な影響をあたえたアフリカの民族造形も豊富。

これらの収集にあたっては、現在パリのオランジェリーにそのコレクションが収められているポール・ギョームの助言があった。


バルテュス

デュフィー


さらに庭園には屋外彫刻も見える↑
合気道有段者の受付の彼はちょこっと日本語も話す(^^)
またゆっくり見学できる機会をつくれますように。

**
大聖堂のすぐちかくにもうひとつsaint-Loup博物館がある。

こちらは自然科学から古代ローマ以前の歴史にはじまり18世紀までの美術・絵画まで幅広い展示。

↑この5世紀ごろとされる剣は1842年に発見され、トロワの宝石商が資金を出して買い取り、ナポレオン三世の裁定でトロワの博物館に展示されることになったもの。発掘物はできるだけその場所の近くで展示されるのがよいという考え方がすでにはじまっていた。


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トロワ街歩き~ローマ時代の名残、大聖堂

2023-02-09 15:53:13 | フランス
トロワ旧市街はシャンパンのコルクのカタチをしている。


キノコ型の部分にローマの街アウグストボナがあった。

↑現在のパリ=上の地図のルテシアはセーヌ川でアウグストボナ=現在のトロワとつながっている。

ローマ帝国時代の南北直線道路(=カルド)と東西直線道路(=デクマヌス)

ローマ街道に沿って建てられた教会群。
中世13世紀に建設がはじまった現在の大聖堂もその一角に位置している。

つまり、地下にはローマ時代の遺構がねむっている。

Muse saint-Loup博物館には↑地下に下りる階段があって↑

↑発掘された様子をそのまま見ることができる。

↑壺に満載された貨幣は紀元後二世紀ごろ=ガリア帝国として一時的にローマ帝国から独立していた時代のものと推察されている。

↑貴重な青銅のアポロ像は紀元後一世紀ごろ?

Loup博物館は自然史からはじまって石器時代から現代までを俯瞰している。


今回はローマと中世のセクションをざっと見ただけで時間切れだった。

↑トロワ大聖堂は正面右側にも塔が建設される予定だったが財力がつづかなかった。

↑壁には1429年にジャンヌ・ダルクがシャルル七世を奉じて短期間滞在していたことを示すプレート↑

↑トロワでもっとも壮大な教会

バラ窓も見事↑

13世紀に遡るステンドグラスもある、ということは、シャルトル大聖堂のステンドグラスと同時期のものもあるということか。

大聖堂見学でいちばん驚かされたのはしかし↓ステンドグラスではなく象牙の小箱だった↓

↑ひと目で正倉院宝物の鳳凰を思い出した↓※下は正倉院に伝わるペルシャからとおぼしき布をモチーフに、現代日本で織られたもの



↑同じ小箱の側面に刻まれた狩りの図を見て、ロンドンの大英博物館のハイライトのひとつ「古代アッシリアのライオン狩り浮彫」を思い出す↓



この象牙の小箱はコンスタンチノープル(現イスタンブール)から、1204年の第四回十字軍でもたらされたと解説。
当時のコンスタンチノープルは東ローマ帝国の首都。
古代アッシリアの現イラク北部も領有していたから、この象牙の浮彫を制作した職人は見たことがあったのかも…などと妄想する。


↑絹と金糸でつくられたこれは何?
↑腰に下げていた「財布」で、貧者に施すための銭が入れられていたのだそうな。
※マドレーヌ教会のステンドグラスで赤いこんな財布をさげた金持ちがえがかれていた


↑このケースには聖人「クレルボーのベルナルド」の遺骨が収められている。
彼は1146年に第二回十字軍への参加演説をした。
シャンパーニュ伯爵アンリ一世はまっさきに参加を表明。
その息子チボー三世は第四回十字軍に参加するはずだったがトロワで急死している。
フランス中部の諸侯は十字軍とのかかわりが深い。

ベルナルドの遺骨は彼が創設したクレルボーの修道院にあったが、フランス革命動乱で廃止され1792年この大聖堂に移された。
象牙の小箱も元は別の場所にあったものがフランス革命期にここへ移されたと思われる。
大破壊の時代をのりこえてここで見ることができることに感謝。


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