旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

AMベルサイユ宮殿観光

2024-09-29 11:30:12 | フランス
朝07:30、メルキュール・ラ・デファンス ホテルの部屋からの朝焼け。夏時間おわりのこの時期、朝が遅くなっている。

06:30朝食会場前は長蛇の列。
扉が開くといっせいに席とり。
パンだけはおいしいからまぁいいか。

08:00ホテル出発なのだがエレベーターが混んで乗れない。
ロビー外にはバスが10台ほどひしめいている。
メルキュール・ラ・デファンス ホテルは団体客でいっぱい。

08:15ようやくバス出発。
オフィス街のデファンス地区は土曜日空いている。
ベルサイユへの道は少し渋滞。
09:00にゲートが開いてすぐ↓


宮殿内で、今「馬」がテーマの展示をやっているようだ。

ベルサイユ宮殿では時々とんでもない現代アート展示をやっている
※2008年に「掃除機」を展示していてめんくらった、リンクします

ベルサイユ宮殿は入場予約を持っていても、そこそこ待たされる。
※2019年5月のパッケージツアーの一日のブログにリンクします

グループエントランスBから入ってトイレを使う。
09:30から宮殿観光スタート。

馬が着せられていた鎧の展示↑

↑鏡の間↑ゴージャス場違いなドレスを着て撮影しているアジア人グループもある↑


↑ルイ14世の家族肖像画↑右の半裸の長髪男性が本人。右下に王妃。子供たち。下の額に描かれた二人は夭折した子供たち。
左の男性は王の弟=いわゆる「オルレアン公」とその妃。
二カップルの間に座る貫禄のある女性が母后。
周囲に描かれた女神たちにも、きっとモデルがあるにちがいない。


↑イタリアはフィレンツェを首都にしていた17世紀トスカーナ大公コジモ二世のいちばん若い王子レオポルド・デ・メディチ(1617-1675)当時7歳の騎馬肖像画。人間もきちんと描かれているが、馬の描写の方がたしかに優れているように見える。
↑画家は現在のベルギーはアントワープ出身のユストゥス・スステルマンス。1620年からフィレンツェに赴き1681年かの地で没した。
何度来ても新しいものがみえてくる。


11時から庭園の噴水があがった。
昔は無料だった庭園が有料になってどのぐらいたつだろう。
ひとまわりしてから11時半にバスにもどり、パリへ向かう。

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南房総の「紅葉の旅」を催行したい! 手掘りの「灯篭坂大師隧道」、「岩谷観音堂」、古墳、アンティークホテル、「月の砂漠」の海

2024-09-21 17:08:25 | 国内

「灯篭坂大師トンネル」は江戸時代以前の旧道 房総往還道から南にある。
この隧道は明治期に歩行者用に開けられ、その後鋸山の石切り技術をつかって下まで掘り下げられた。

この上に弘法大師空海ゆかりの小さなお堂がある↓

9世紀、弘法大師空海が日光への途上(当時は伊豆から船で房総半島に上陸して北上するのが通常ルートだった※現地案内版より)、この地の岩に自画像を刻んだのがはじめと伝承されている。

「灯篭坂」という名前は

石段の参道に掲げられていた灯篭が、海をゆく船の目印になったからだとされる。

↑この石を持ち帰って痛いところを撫でてご利益があると、
再びここに戻してお礼参りをするのだそうだ。
**
車で少しいったところに「岩谷観音堂」がある

もともとは古墳時代末期の横穴墳墓~「吉見百穴」の小さい版のよう

そこに鎌倉時代に五輪塔などが彫り込まれて礼拝の場所になった?

江戸から明治期にかけても祠が建てられてミニ霊場巡りのルートも掘られた↓

↓「三猿」はいつごろのもの?

冒険気分

南房総にこんなに古墳が多いとは知らなかった。

***
「弁天山古墳」では石室を見ることができるときいて訪れた↓

↑突起がある石棺の蓋?のようなモノは関東では唯一ここからしか見つかっていないのだそうだ。

前方後円墳は一部が線路に削り取られてしまっているが、
なかなかの見どころ(^^♪
****
食の楽しみ
●「はかりめ丼」↓

アナゴの胴体には測りの目のような点々がついているのでこの名前でよばれる。
ウナギよりあっさりしている。
●「黄金アジ」も楽しみたい(^^♪
*****
富津岬は東京湾の入り口に針のように突き出している↓
↓たった10km向こうは三浦半島観音崎。
↓三日月形に見える池は砲台の堀。

※公共財団法人日本交通公社のこちらのページより引用しました

橋を渡ると、大砲が設置されていた堡塁がそのまま残されていた。

海上には人工の海保島も見える。

房総半島内を横断するルートは
秋には「もみじロード」が見どころ(^^♪

※富津市のHPにリンクします
12月のはじめ紅葉の時期にぜひ「もみじロード」と隧道や古墳を合わせた旅を提案してみたい。
******
宿泊は外房にあるアンティークホテルに泊まった。

高台の住宅街をのぼっていくと突然現れる。

ここだけヨーロッパ(^^)

インテリアすべてにオーナーIさんのこだわりが感じられる。

おねがいすればフレンチのディナーも用意してくださるそうな。

Iさんのライフストーリーもぜひお話していただこう。
*******
ホテルから少し上ると外房を一望できる展望台がある。

源頼朝が再起のために戦った「一戦場(いっせんば)公園」のさらに上。

訪れた9月3日は曇天だったがそれでも景色はたのしめた。


********
勝浦の朝市も今日はお休み

でも、「灰干し鯖」を知ることができた

※こちらにもう少し書きました

*********

唱歌「月の砂漠」の作者が住んだ街に記念館があった。
あの歌詞に出てくる砂漠はなんと、この海岸だったのか。

ラクダの像が背景とよく合っております(^^)

12月第一週に《手造の旅》南房総「もみじロード」
さっそく興味アリの方、ありました(^^♪
十人ぐらいでこぢんまりした旅がしたいですね。

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カラコルムのいわゆる「亀石」~正式には「勅賜興元閣碑」

2024-09-19 06:49:20 | モンゴル
草原に残された巨大な「亀石」
モンゴル帝国の遺構で地上に残る唯一のものではないかしらん。

↑こちらは2010年に開館した「カラコルム博物館」の入り口にあるレプリカ
↑もとは背中に↑石碑が載せられていた。

↑なぜ、碑文の中に変形の区切りがあるのか?↓
松川節さんの論文図より引用

↑博物館を見学して↓これらが石片が発見された部分だと知った↓
↓博物館内に展示してある石片もあるが↓


↑エルデニゾー仏塔の礎石に組み込まれてとりだせないでいる石片は拓本をとって検証が続けられている。
表面に刻まれているのはモンゴル語↑
※2009年の発掘に携わった松川節さんの論文にリンクします

詳しいビデオ解説が博物館で見られる。

裏面の↓漢字で書かれていた部分も見つかっている↓

許有壬の漢文が原文で、モンゴル語は設置された当時14世紀に翻訳して刻んだもの。
厳密な翻訳にはなっていないと検証されている。

碑が建てられたのはチンギス・ハーンの生きた13世紀からは百年以上後。
↓内容の一部↓
「太祖(チンギス・ハーン時代の元号)15年、チンギス・ハーンはカラコルムをモンゴル帝国の首都と定めた。ウゲデイ(=オゴデイ)・ハーンはそこに宮殿を、モンケ・ハーンは壮麗な仏教寺院(興元閣)を建てた。それはトゴンテムル・ハーンが再建した」※博物館の日本語解説より
北京を首都にしていた「元」の皇帝・恵宗帝(明朝により後に順帝と呼ばれるようになる)(=モンゴル語での名前はトゴンテルム)が、カラコルムにある興元閣を1347年に大規模修繕工事をした際に立てた碑だということ。
↓こんなふうに↓復元図

↑手前に小さく描かれた「亀石」が見える↓

↑写真左の壺は2014年に寺の敷地四つの角から発掘された↓
「容器の中には九つの宝(金、銀、真珠、トルコ石、瑠璃、絹、鍍金した木器、茶葉、穀物、粒食など)を入れて蓋がされていました。こういったものはそれ以前にモンゴルでは発見されていません。「勅賜興元閣碑」で言及された仏教寺院の存在を実証しています」※カラコルム博物館の日本語解説より(日本語が不自然なところを修正しています)

仏教寺院「興元閣」はカラコルムの城壁内、南門を入った近くにあったとされる
↓博物館の復元模型↓

↑遠くに見える塔は高さ90mあったと推察されている。
↑左手の四角い敷地に建つ本堂の四隅に四つの甕が埋められていた?
↑「亀石」もあった?
いや、この復元模型はモンケ・ハーン時代(1251-1259)を再現しているということだから、
1347年にトゴン・テムル帝が修復して「亀石」を立てる九十年ほど前の姿だ。
「興元閣」自体はあったが、まだ「亀石」はない。
現在「興元閣」は礎石だけが復元されている↓

↓このジオラマは2005-2006年にカラコルム一帯を発掘調査したドイツ・モンゴルの成果に基づき製作された。

カラコルムの町を南北に貫通するシルクロード↑

★カラコルムとはどういう場所か
前出の松川さんの研究論文から要約
1220年58才のチンギス・ハーンがこの場所を首都にすると決定。兵站基地だけ築かれる。
1235年チンギスの三男・2代代皇帝のオゴデイ(ウグダイともウゴデイとも)が、都市建設。
シルクロードの要衝として繁栄。
当時は世界一の人口を誇ったとも伝わる。
※博物館の解説より↓
「1.6㎢の首都の人口は一万から一万五千人だったと考えられています。彼らの国籍は多岐にわたり、契丹、中国、チベット、ウィグル、ペルシア、インド、さらにヨーロッパで捕虜となったフランス、ドイツ、ハンガリー、ロシアの人々などが含まれていました。1254年カラコルムに数か月滞在したフランス人修道士ギョーム・ルブルクの記録によると町は土壁で囲まれており、地区ごとに様々な民族や職業の建物が配されていました。キリスト教ネストリウス派の教会もひとつあったそうです。人々の信仰の自由は尊重されていました。北東にはイスラム教徒が住む地区がありモスクがありました。中国北方の契丹人は町の中央地区に職人街を形成していました。南西にはモンケ・ハーンの建立した壮麗な仏教寺院が存在していたと考えられています。北西地区には建物の跡が少ないことから、遊牧民のゲル地区だったのではないかと指摘されています」

首都カラコルムはチンギス・ハーンの孫によって終わる。
1267年5代皇帝フビライ(クビライ)が大都(=北京)に遷都。
1271年に国名を「元」とする。
カラコルムがモンゴル帝国の首都だった期間は三十年ほどだったが、
その後も繁栄していた。
1333年に即位したフビライの五代後の皇帝トゴン・テルムは、
1347年、許有壬に命じて文案を作成させ、
「勅賜興元閣碑」(=「亀石」)をカラコルムに設置。
父祖の栄光を刻ませた。

大都(=北京)を首都とする「元」は、明王朝に攻められる。
1368年、トゴン・テルム帝は北京を捨てて「北帰」=百年前の自分たちの故郷にもどる。
世界史的には中華王朝「元」は終わり、「北元」として再出発したことになる。

モンゴル民族の再襲来をおぞれた明の永楽帝は、
北に逃げたモンゴル人たちをそのままにはしなかった。
1410から五回も遠征し戦いをしかけ、カラコルムは廃塵となった。
この時に「亀石」も破壊されたと推察できる。

百五十年ほど後、
1586年、破壊されたカラコルムの残骸を使って、
モンゴルに現存する最古の仏教寺院エルデニゾーが建設された。

バラバラになっていた「亀石」は寺院や仏塔の土台や壁に使われた。

※エルデニゾー寺院の話にリンクします
今やまったくの草原にもどってしまったカラコルムが
エルデニゾーのすぐ南に位置していたことは衛星調査で確認された。

★現代の発掘
1889年、帝政ロシアのアカデミーが「オルホン探検隊」を編成。
※オルホン渓谷は遺跡が多く残されている地域
1892年、探検隊長のラドロフⅤ.Ⅴ.Radlof。文字の書かれた石片をはじめて発見。
ラドロフは石片が「亀石」の上の碑文のものとは気づかなかった。
1897年、ポーランド人のコトヴイチⅤ.L.Kotvichが
  彼はモンゴル語の文面の3破片をエルデネ=ゾー寺院で発見。
1926年、ソ連のポッペN.N.Poppeもエルデニゾー寺院内からモンゴル語文面の2破片を発見。
1952年、アメリカ人研究者クリーヴスF.W.Cleavesがモンゴル語と漢字面の対象訳を試みる。
1984年、中国の研究者Dobuが四つの石片の再構成図をはじめてつくる
2003年、ドイツ・モンゴル共同発掘隊が新たな石片を発見。
2009年、9月日本・モンゴル共同調査隊が1897年にコトヴィチが発見した石片を再発見。

日本が全面協力して建設されたカラコルム博物館に資料の多くが集められている。

**
2024年8月モンゴルから帰国すると、
カラコルムがモンゴルの新首都として開発されるコンペを
隈研吾さんの案が勝ち取ったと報じられた。

現地でガイドさんがちらっと話していた「夢物語」が現実になる?
※ヤフーニュースにリンクします
1220年にチンギス・ハーンが決めたモンゴルの首都カラコルムは
800年を経て復活するのだろうか。

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エルデニゾー寺院訪問2024

2024-09-10 22:23:59 | モンゴル
エルデニゾー寺院はモンゴルの草原に突然あらわれる。
108の仏塔に囲まれた一辺およそ400mの四角。

中はどんなに立派なのかと門を入ると…


拍子抜けするぐらい何もない↓

↑16世紀の寺が三つ屋根をならべているだけだ。↓

20世紀初頭の姿が写真に残されている↓

↑1872年には62の寺が500の伽藍をかまえ↑1500人を超える僧がくらしていた。
1930年代、社会主義時代の破壊と殺戮がいかにすさまじいものだったのか…。

ここは13世紀モンゴル帝国の首都・カラコルムの遺構といわれるが、この言い方は正確ではない。
都市カラコルムにエルデニゾー寺院は影もカタチもなかった。
正確には、カラコルムが明によって破壊しつくされた残骸を再利用して建築した寺がエルデニゾーなのである。

ハネムーンの記念撮影をする後ろに見える緑色の屋根瓦

これらが16世紀そのままだとは言わないが、13世紀カラコルムにも同じ緑の釉薬が使われていた。
緑色が残る瓦の残骸は今でもそこここにちらばっている。

カラコルム博物館に展示されている瓦とそっくり。

13世紀から同じ手法で大量生産されてきた瓦やレンガなのではないか。

↑何気ない敷石にも再利用されている↓

自分の足で立ってはじめて見えてくるモノがある。

↑博物館に展示されていた、三又槍の印が刻まれたレンガは↓寺の壁に今もみつかる。

まだまだたくさん塗りこめられているにちがいないのだ。

2004‐5年にかけての再構築(解体してつくりなおした?)で20種類もの印が見つかった↓

13世紀モンゴルの部族ごとの印だと考えられている。

**
明によって破壊されたカラコルムの廃墟。
そこに最初に寺を建設したのはAbtai Sain Khanという人物。
↓彼が住んだゲルの跡とされる場所↓

彼はチンギス・ハーンの27代の末裔。
チベットの高僧ソナム・ギャツォに深く帰依し、モンゴルに呼び寄せた。
はじめて「ダライ(海のように「知恵のある」)・ラマ(僧)」という名前で呼んだ。
※ダライ・ラマ三世とされ、一世と二世は遡ってその称号で呼ばれることとなった

↑中央の寺院が1586年にAbtai Sain Khanによって建設された↑

↑ひときわ立派な像が着座しているが、これが16世紀のオリジナルかはわからない。

向かって右側の壁には釈迦の前世の物語↑

↑回廊は日本の寺院建築とそっくり。

↑向かって左の寺院はAbtai Sain Khanの息子Erkhi Mergen Khanが建設させた。

↑内部の壁画は19世紀ごろのもの?

↑タンカにザナバザルの姿があった。Abtai Sain Khanのひ孫にあたる。※ザナバザルに関してはこちらに書きました
モンゴルの国父・ザナバザルの祖先が建てた寺なのだ。

1937‐8年の大破壊。500もあった寺院建築はたった15しか残らなかった。

1970年代には寺ではなく「博物館」として保全が図られるようになった。

宗教の場所として復活したのは1990年の民主化以降のこと。

↑18世紀に建設されたチベット式寺院ラプラン・ゾーでは
20人ほどの僧が熱心に読経していた。

草原に放置された巨大な鍋に

1500人もの僧が暮らしていた名残を感じる。


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ノマド(遊牧民)ショーとホーミー

2024-09-06 22:46:46 | モンゴル

↑馬、ヤク、ラクダ↓

自転車に乗るように自然体なモンゴル人。
動物たちは本来人間を乗せたくなんかない※ラクダが突然ストライキする動画を載せました

巨大な角と長い毛のヤク↑
人間は冬このぐらい着ないと死んじゃうけどヤクはへいき。

解体したゲルを引っ張らせて。

今も季節ごとに移動しているノマド(遊牧民)

彼らの暮らしを知ることができるデモンストレーションだった。

遊牧民は来客を歓迎する。

馬乳酒やスーテー茶(ヤクのミルクからつくる)をふるまう。

天日干しの固いチーズも。とにかくいただきましょう。
食は時に、言葉よりも心をかよわせてくれる。

ベリーを練りこんだ紫色のチーズ?もあった

嗅ぎたばこを嗅がせあうのは男の挨拶。

強烈スパイシー!鼻の奥がいたくなる。

民族楽器で本格的な演奏してくれた。
★ホーミーを生で聴けた※動画にリンクします人間の喉が同時に二つの音程を出せるなんておどろきです。

モンゴル人のソウルフード「羊の茹で肉」↓これは焼いてもいる?

骨付きでどーんと

穀物を入れたスープも羊風味

肉の中でモンゴル人にとっていちばんのごちそうは羊の尻尾部分↓

↑クセのない脂肪でできている。

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