旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

2011年3月《手造》シチリア~パレルモ

2022-08-14 16:16:04 | イタリア

朝いちばんで
●カプチン派のカタコンベへ。

16世紀以来八千体に及ぶミイラが並ぶ。男女はもちろん職業・社会階層・立場などによって分けられている。干からびた遺体になってまでその衣服を着て立ち尽くしている姿…。

今まで数々見てきたカタコンベの中でもここはかなり強烈な場所である。
しかし、グロテスクなものばかりではない。
二十世紀はじめに三歳で亡くなったロザリアちゃんは生けるが如く美しく保存されている。
何ゆえそのような美しいミイラがつくられる事になったのかは、また別の機会に。

●ノルマン王宮はアラブ時代から使われていた宮殿を大幅に改築・継ぎ足しているのが分かる…

実際には古代からの土台も地下に残っているそうな。
現在パレルモ市庁舎として使われて続けている。

二階にある黄金のモザイクがまばゆいパラティーナ礼拝堂はパレルモ観光のひとつのハイライトであろう。

ガイドブックでは1130年初代シチリア王に即位したルッジェーロがつくらせた12世紀のモザイクと説明されている。
が、実際に見てみると後世にかなりの手が入っている事がわかる。
調べてみると入り口のものは19世紀の完全新しいものだし、修復というのではなく15世紀のスペイン人支配の時代にも当時の王が自分の名前と紋章を入れたモザイクを残している。
他の部分でもあきらかに様式の違うデザインがたくさん織り込まれており、注意深くみていく必要がある。

この日は幸運にもルジェッロ王の部屋が見学できる日
※ノルマン王宮の見学の時の写真はこちらをごらんください

○Porta Nuova(新門)は、ノルマン王宮とつながっている。

これもまたひとつの時代の建造だと言い切れない。
もともとは1450年に建造され、屋根のわしの紋章入りマヨルカ焼きは1535年カール五世のアフリカ凱旋の記念につくらせた。

手を切り取られたサラセン人風の巨人が目立つ門入り口付近は1668年のデザイン。

●サンタ・マリア・デッラ・アンミッラリオ教会=通称マルトラーナ教会

後世マルトラーナ修道女会が入ったのでこの名前で呼ばれるが、もともとは12世紀の教会。ルッジェーロ二世の海軍提督だったジョルジョ・ダ・アンティオキアのによって建設された。
現在でもギリシャ正教の教会として機能しているとか?
ここの天井はパラティーナ礼拝堂と同様の完成度を持った金のモザイクで飾られている。


本堂の三分の二の部分までが12世紀のオリジナル。

床が12世紀の部分まで↑コズマティ様式となっている。

●パレルモ大聖堂は十二世紀からの建物

この時代のパレルモはアラビア文字を使うイスラム教徒も多く住んでいた国際都市だった。

↑入口の柱にこんなモノもある
※内部について2014年9月のブログでもう少し詳しく書きました

●プレトリア大噴水は十六世紀のフィレンツェから買い取られてきた


●クアトロ・カンティはバロック時代の四辻

四つの角を楕円形に切り取って

王や女神の像で装飾している。

●市場はどこも活気がある

どの野菜も巨大(^^)


ランチ!


おいしくないわけがない(^^)

午後は郊外のモンレアーレ聖堂へ
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2011年3月《手造》シチリア~前日のフライト変更とパレルモ到着まで

2022-08-12 21:25:09 | イタリア
東日本大震災から一週間も経たない3月17日。一般のパッケージツアーがほぼすべてキャンセルになったにもかかわらずこの《手造の旅》シチリアは催行出来た。
ひとえに、参加してくださった皆さんがついてきてくださったおかげです。
十年経ってさらに感慨深い。
当時のブログは写真が一枚しか載せられなかったので、文章はほぼそのままに・写真を加えて再録いたします。お蔵入りにしてしまうにはもったいない写真もたくさんありますので(^^)。

「明日ご利用の成田空港発ローマ行きの便が、関空発に変更になりました」
一瞬耳を疑った。出発前日の正午少し過ぎ、成田の放射能汚染を心配するアリタリア航空の乗務員の意志によって出発空港が突然変更されてしまったのである。

一般ツアーは振替はなく・すべてキャンセルになった。
が、我々は今回(旅行会社を通さず)アリタリアに直接予約をしていたおかげで「関空に来るなら乗れます」と電話してきてくれた。この幸運を生かそう。
《手造》はこういう危機をいつも乗り越えて催行してきたではないか、今回も必ず催行すると決意した。

首都圏の交通が混乱しているので、《手造》シチリア旅行参加の全員が成田空港周辺にホテルを予約している。今すぐ、全員に連絡をとらなければならい。 アリタリアからの電話を切ったその手で、参加メンバーへの電話をはじめた。

携帯電話を持っておられる方には比較的早く連絡がついた。
静岡で出発準備をされていたKさんは、逆方向の新幹線に乗ることになった。
富山から成田へ向けてすでに出発しておられたAさん二人は、越後湯沢で引き返して大阪へ向かう事になった。 トンネルの多さから留守電に伝言を残しておいたのを、虫の知らせか越後湯沢前に聞いてもらう事ができたそうな。

成田空港にスーツケースを送っておられたHさん二人は宅急便会社に電話。幸いスーツケースは空港に到着していたので、すぐに引きとることができた。東京まで戻って新幹線を利用。

連絡がつかないあと二組だが宿泊ホテルは分かっている。到着時に事情を伝言してもらえるように依頼。さらに、留守宅の電話にも念のためメッセージを残し、待とう。

二組のうちMさん二人は幸いすでにチェックインされていて、ホテルでゆっくり昼食中。そのあとすぐに関空へ向かっていただく事になった。

まだ連絡がつかないのは成田へ向かっている一組二人。大阪へ向かう最終新幹線に乗れる時間に連絡がつきますように。間に合わない時には小松ともども夜行バスを覚悟してもらおう。夜行バスは格安でなければまだ空きがあった。

次の問題は、関空でどこへ宿泊してもらうか? 皆さんが関空周辺に到着するまでに、適当な宿を確保しなくてはならない。交通混乱状態の首都圏ではないので六室ぐらいすぐに押さえられるだろうと思っていたが、ネットを調べていくと今日の予約はどこも満室になってきている。楽観できない状況だ。

静岡のKさんは、関空から一駅にあるワシントンホテルを自力で予約したという電話が入った。しかし、そんな風に行動できる方ばかりではない。残り5室、なんとか確保しなくては。 ワシントンホテルをネットで見てみるが、ほぼ満室。電話をしてもあと5部屋の余裕はとてもないとの回答。 
他の数件も名前の知れたところはいっぱいである。

サイトでいくつか物色して電話をする。ネットで空室があるだけでは行ってみるとラブホテルだったりするから、実際に話してみる必要がある。 そのうちに「関空温泉ガーデンパレス」というホテルの対応が良かった。 朝食込みツイン一室\11,800、天然温泉あり、ならば楽しめるのでは? あと8室あるというので、連絡のついた方から予約を入れていく。

午後三時すぎ。まだ成田のホテルに向かっているお二人のうちのSさんの留守宅・ご主人から電話が入った。成田への直行バスがないので今頃、羽田で乗り継いでおられるだろうとの事。四時過ぎにはホテルに到着して、小松の伝言をきいてびっくりされる事になろう。

午後四時、お二人のうちの一人Uさんがホテルへ到着。あわてて小松に電話をいただいた。すぐに成田でスーツケースをひきとっていただくようお願い。それから残るSさんと合流して東京駅へ向かってもらおう。

午後五時、Sさん本人がシャトルバスでホテルに到着。小松のメッセージを受けて、同じバスで成田空港へとんぼがえり。スーツケースを受け取って待ってたUさんと合流し、東京駅へ向かってJRに乗車。小松も東京駅へ向かう。 最終前の新幹線には間に合いそうだ。 ヨーロッパへの長い飛行機前の夜、夜行バスと温泉ホテルでは雲泥の差。

19時半、そろそろUさんとSさんが東京駅到着する時間、小松は新幹線入り口で待つ。 が、なかなか現れない。携帯が鳴って「すでに新幹線入り口」に居るという。どうやら別の入り口のようだ。合流するよりも別々でも同じ新幹線に乗車するのが上策。

19:50発の「のぞみ」に乗車。小松は2号車・自由席、お二人は15号車・指定席。あとからきいたら指定席の方が混んでいたそうである。

これで全員が関空へ向かっている。ほっとして「鰻弁当」でも食べたいなぁ、と思ったらのだが、今日はサンドイッチも含めすべての弁当が売切れ。買えたのは売れ残っていたお茶一本だけであった。

22:15新大阪駅到着。

この時間では関空へ行ってからホテルのシャトルバスを利用するのは不可能。地下鉄御堂筋線にて難波へ向かい、そこからタクシーを利用する事に決めた。
「関空温泉ホテル」からのアドバイスで、難波からは「5000円超えたら半額」というタクシーがあるとの事。
スーツケースを引きずって松坂屋の前出ると、屋根のランプに「5000円超えたら半額」とそのまま書かれたタクシーをすぐに見つけることができた。
時刻はすでに23時少し前。
「関空温泉ホテルガーデンパレス」と告げたが、運転手さんも知らない。 ホテルに電話して誘導してもらう。 高速を降りてからしばらく、暗い道の脇に小さな看板が出ていたのを見逃さなくてよかった。
高速代金を含めて二万を超えていたのだが、一万一千円程度ですんだ。

フロントでは、電話で何度も話したオーナーが笑顔で迎えてくれた。小さいながら清潔感のあるホテルで、ほんとうに(失礼)天然温泉なのだそうだ。 

先に到着されていた富山のAさんから「おかげで野宿しなくてすみました」のメモ。こういうひと言をもらうと、あわただしかった今日一日が報われる。人は誰かの役に立つことがいちばん嬉しいのである。 もう真夜中だからお休みであろう。明日の朝食の席でお会いしましょう。天然温泉も明日で良い、おやすみなさい。

**
翌朝、
アリタリア航空の出発時間は当初より二時間半遅れて14:00になっている。
偶然に宿泊する事になった「関空温泉ホテル」は、外国人向けにはGARDEN PALACEと称しているらしい。

あまり期待していなかったがじゅうぶん良い設備。
特に朝食は多彩な手造りの和食・おふくろの味といった風情。

温泉よりもこの朝食のためにもう一度泊まりたいほどおいしかった。

午前中ゆっくり天然温泉と思ったけれど、ホテルから空港へのバスは、午前中10:40発が最後ということで、それに乗ることになった。

関空へ到着したのは11:00過ぎ。
出発予定の14時まで三時間もあるから、さっとチェックインして余裕だと思っていたのだが、すでにカウンターには長蛇の列ができている。
これは飛行機一機分を優に超えている人数ではないかい?
放射能汚染を恐れたアリタリアの、ここ数日の欠航や大幅な遅れによって乗れなくなっている人たちも同じ列に並んでいるらしい。 三十分以上もカウンターを占領している一組もいる。そういう対応は普通のチェックインより当然時間がかかるのだから別の列にしてくれれば良いのに・・・。
一時間ほどたった頃、アリタリアもやっと気付いたらしく、列を二つにわけはじめた。

時計の長針はあっという間に二回転半。
我々がチェックインして搭乗券を受け取った時にはすでに出発時刻まで三十分もなくなっていた。

実際にゲートで搭乗案内がはじまったのは14:45。飛行機が離陸したのは15:30。二時間半遅れのフライトはさらに一時間半遅れで飛び立ったのである。


機内でほっとしていたのも束の間。
スクリーンのフライト案内を見ていると、ローマへの到着予定時刻は20:35となっている。

我々の乗継パレルモ行きの便は21:05発。入国に荷物検査を経て国内線のゲートへ向かうのだから、三十分ではまず間に合わないだろう。こりゃあ今晩はローマに一泊することになるのかしらん・・・。なんとなく皆さんにも覚悟していただくように雑談する。
**
ローマに到着してすぐに飛行機を出ると救いの神が待っていてくれた。
「PALERMO」と書いた紙を掲げたアリタリア航空のスタッフ。つまり、我々を乗せるまでパレルモ行きは待ってくれるという意志表示である。

到着時間も実際には20時を少しまわった程度で、一時間の時間がある。通常でも急げば間に合うだろう。

しかし・・・スーツケースは?自分で急いではくれないからなぁ。

心配しつつ乗り込んだパレルモ行きの飛行機。
時差には勝てなくて飛び立ったのも知らず眠りに落ちていた。

一時間ほどのフライト、気付くともうパレルモのオレンジ色の街の灯りが窓の外にみえはじめている。

22時過ぎ、ついにパレルモに到着!

パレルモの空港のターンテーブル前では、案の定アリタリア航空のスタッフがにこにこして待っていた。

相手が用件を話すまえに、こちらから「予想してました。多分、ですよね?」と言うと、「そうです。でも、あと四十分で次のローマからの便が着きますからお待ちになりませんか?皆さんの荷物が積み込まれたのは確認されていますので。」と言う。

四十分の後、

↑この写真の要に「RUSH(急ぎ)」タッグを付けられた我々十人分のスーツケースも無事にパレルモに到着した。

遅くまで待っていてくれた我々の専用車に乗りこむ。

あぁ、よくまぁ予定通りパレルモに到着できたものだ。

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2010ハルシュタット

2022-08-03 10:33:22 | オーストリア
10月初旬にハルシュタット湖のクルーズ船に乗った。

ザルツカンマーグートの「奥座敷」に位置し、湖面標高五百メートルほど。

湖畔の木々が湖面に映る

帰国後にこんな風に画いてくださった方があった

絵画は時に、写真よりも心象をよみがえらせてくれる。

↑湖畔と山の間に細長くつくられたハルシュタット村↓

「Hall」はケルト語で「塩」を意味すると言われている。ここは新石器時代から岩塩を採掘していた。


↑湖上から見えた急なケーブルカーが導いてくれている先に塩鉱の入口がある↑
人気の観光コースも用意されている。

↑村の入口ロータリーにあった石像は古代ケルト人の時代から岩塩を運び出していた労働者の姿↑
岩塩が入った重いカゴを背負っている。

細長い村を奥へ歩いている↑壁に灯りを手にする鉱夫とケルト模様の渦巻が画かれている↑

お土産にもこの渦巻がよく使われていた↑

↑いちばん大きな「ハウプト・プラッツ=中央広場」

老舗の宿レストランで昼食を

新鮮なマスが名物


上の道をあがっていくと教区教会に至る。

↑教会前のテラスは村と湖を見晴らせる



教会内部へ

二つの主祭壇があるのが珍しい。

↑右は鉱夫のための祭壇↑聖母マリアの左に塔を手にした聖バルバラ(鉱夫の守護聖人)が立っている↑
ミサの時も住民と鉱夫をしっかり区別していた。

村の住民のための墓は教会敷地にあるが、土地が足りないので十年経ったら掘りだして場所を開けるのが習慣だった。
掘りだされた骨はきれいに洗浄されて礼拝堂に納めてきた↓それがここ

1200もの頭蓋骨が並び、その多くの額には生前の名前や仕事が記されている。
希望すれば現在の住人でもここに納めてもらうことは可能で、最後にこのスタイルで埋葬された人は1983年に没し1995年に掘りだされてここに入ったと解説されていた。




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ザルツカンマーグート2009,2010ツヴェルファー・ホルンへのゴンドラとシャーフベルグへの登山列車

2022-08-01 05:31:50 | オーストリア
ザルツブルグ郊外の湖水地方=ザルツカンマーグート(「よく塩が出る」の意味)は楽に絶景が楽しめる場所(^.^)

ザルツブルグを出発して三十分ほど、ザンクト・ウォルフガング湖にさしかかるとすぐに、前方で道を横切るゴンドラが見えた。

ツヴェルファーホルン(1522m)山頂へ上がろう。
20世紀前半からスイス並みに登山設備が建設されたオーストリア。有名でなくてもびっくりするような景観に、楽に出会える。

1000メートルほどを十分ほどで上がれば気温もぐっと低くなる。

ハイキングルートになっている尾根道を少し歩いた。あぁ、もっと時間がほしかったなぁ…。

ザンクト・ウォルフガング湖が千メートル下に

顏をあげれば、対岸の山頂にもポツンと小屋が見える

地図を確かめると、映画「サウンド・オブ・ミュージック」で出てくる登山電車が至るシャーフ・ベルグだと分かった。ガイドブックで紹介される時には鋭角に突き出した印象的なカタチなのだが、見る方向によってまったくちがう表情をしている。
※後半でここへ行った2009年の写真を載せます

短い「登山」だったが、記憶に刻まれる時間になった。

ふたたびゴンドラに乗って下山し、小さなザンクト・ギルゲン村の中心へ↓

市庁舎前の↑子供のころのモーツァルトの像
ここはモーツァルトの祖父が働き、母の生まれ故郷で、姉のナンネルが嫁いだ村。
たとえモーツアルト自身は来たことがなくても「モーツァルトの村」として宣伝している。

↑湖畔のカフェでひと休み(^^)

↑ザンクト・ギルゲンはラテン語でSaint Aegidius
**

湖の対岸に見えたシャーフベルグの登山鉄道には2009年に乗った。

三つの湖が見渡せる山頂は19世紀前半から登山家に人気だった。

1893年8月1日に蒸気機関車で観光列車が運行された↑
↑これは当時のモノではなく百年後の1990年代に新造された蒸気機関車。

↑一時間に一本以上の頻度で運行されている。

アプト式のギアが噛む音と共にゆっくり高度をあげてゆく。
景色はどんどん広がりをまして

標高1783mの頂上近くの駅へ

五月初旬、まだ雪が残っていた

↑この鋭角に尖った山影がシャーフベルグたる所以

モンド・ゼー(月の湖)の三日月のようなカタチが見下ろせる↑さっきのザンクト・ウォルフガング湖とは逆側に位置する湖になる↑
あの湖畔にある教会では、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の結婚式シーンが撮影されたと、いつもガイドさんが話してくれていたっけ(^.^)

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