階段をあがりきった門から五十メートルほどのところに三重塔が見えた。
視界に入ってくる瞬間の印象を考え尽くしているのが日本の塔。
※今年1月に訪れた近くの安楽寺の国宝三重塔が木立の向こうにみえてくるところ、こちらに写真を載せました
※青木村・大宝寺の国宝三重塔の見せ方もごらんください
さらに十メートルほどの高さの階段の上にあることで
ぐっと大きく感じられる。
前山寺の三重塔は未完成だが、完成品に劣ってはいない。
むしろ欄干や手すりを付けたらこのスッキリさは失われてしまっただろう。
塔のある位置から本堂
分厚い茅葺屋根↑書かれている文字は「本?」
実は火除けのための「水」
中にトラちゃんおりました(^^)
*
8月21日、09:17上田駅到着して下見スタート。
上田城ではなく上田藩主の屋敷跡入口へ。
真田氏・仙石氏・松平氏の時代を通して、藩政はここで行われていたのだそうだ。
↑屋根に松平時代の桐の紋章↑
現在の上田高等学校の正門は18世紀末のモノがそのまま使われている。
濠の一部が当時の面影をよく残している。
**
塩田平で最も由緒ある生島足島(いくしまたるしま)大社を訪れる↑「式内社」とは、10世紀の律令執行細目である延喜式にその名前がある、ということ。
池の中に社殿がある↑不思議なかたち↑
仮説だが、雨量が日本で二番目に少ないこのあたり「塩田平」で、自然に湧き出した池のある数少ない場所だったのではないかしらん。神は自然そのもの。
橋を渡って「神島」に入る。
祀られているのは生島神と足島神という二柱。「生きる」「足るを知る」神。
皇室が祀っている二十三神にも名前があるそうな。
神話時代、科野国造(しなのくにのみやつこ)が中央からこの地方に入った時に祀ったのがはじまりかもしれない。「科野」は「信濃」の語源?
神島の社殿にあるご神体は何か?
我々が中を開けてみることはできないけれど、中は真っ暗闇で何も置かれていないと解説してある本があった。
ご神体はこの地面=土地そのもの、という考え方なのだそうだ。
↑夏至の日には参道からまっすぐに朝日が射してくるように設計されている↑
古墳時代から続くような発想はこの場所の起源を表している気がする。
生島足島大社のすぐ北50メートルに諏訪社がある
諏訪神は秋から春にかけてこの下宮神社に渡られて、生島神と足島神に食事を捧げる。
その際に「お籠り」する=つまり料理する場所が↑上宮社殿のとなりに併設されている「御籠殿」。↑
諏訪社ゆかりということで↑上宮社殿の四隅にも御柱が立てられている↓
こちらは車で運ばれてくるのでニュースにはとりあげられませんが(^^)
下宮・諏訪社殿の右となりに「歌舞伎舞台」↑がある↓
建物は明治元年に建設されたホンモノの歌舞伎舞台だったが、後年に小学校や集会場となり使われていなかった。
回り舞台とせり上がりは昭和61年に復元されたものだが往時をよく感じさせてくれる↓
↑床板に↑回る切れ込みとせり上がり二つ↑
床下にももぐらせてくれる
回り舞台の真下↓
↓せり上がり
「年に一度でも上演すればよいのに」と思うけれど、
昨年12月に小豆島の「農村歌舞伎」舞台を訪れて知ったが、歌舞伎上演はかんたんには出来ない。
人もお金も装置も伝えていくのがたいへん。
※小豆島の農村歌舞伎を訪問した時のブログにリンクします
↑歌舞伎ステージは↑信玄の起請文コピーがずらりと展示されている↓
武田信玄は塩田平に進出した折、地元の豪族たちを生島足島神社に集め、忠誠を約束する血判入りの起請文二百通以上を提出させた。
※上田市の文化財ページにリンクします
神社のとなりに長福寺がある↓
ここに収蔵されている「菩薩立像」は奈良時代のもので、写真で見るととても端正。
もともと小布施にあったが、大塚工芸の創業者・大塚稔氏が「夢殿」を建ててここに安置した。
↑おお、奈良の夢殿そっくり(^^)
本物の二分の一スケールなのだそうだ。
中の観音立像さま、いちどお目にかかる機会があれば幸いです<(_ _)>
視界に入ってくる瞬間の印象を考え尽くしているのが日本の塔。
※今年1月に訪れた近くの安楽寺の国宝三重塔が木立の向こうにみえてくるところ、こちらに写真を載せました
※青木村・大宝寺の国宝三重塔の見せ方もごらんください
さらに十メートルほどの高さの階段の上にあることで
ぐっと大きく感じられる。
前山寺の三重塔は未完成だが、完成品に劣ってはいない。
むしろ欄干や手すりを付けたらこのスッキリさは失われてしまっただろう。
塔のある位置から本堂
分厚い茅葺屋根↑書かれている文字は「本?」
実は火除けのための「水」
中にトラちゃんおりました(^^)
*
8月21日、09:17上田駅到着して下見スタート。
上田城ではなく上田藩主の屋敷跡入口へ。
真田氏・仙石氏・松平氏の時代を通して、藩政はここで行われていたのだそうだ。
↑屋根に松平時代の桐の紋章↑
現在の上田高等学校の正門は18世紀末のモノがそのまま使われている。
濠の一部が当時の面影をよく残している。
**
塩田平で最も由緒ある生島足島(いくしまたるしま)大社を訪れる↑「式内社」とは、10世紀の律令執行細目である延喜式にその名前がある、ということ。
池の中に社殿がある↑不思議なかたち↑
仮説だが、雨量が日本で二番目に少ないこのあたり「塩田平」で、自然に湧き出した池のある数少ない場所だったのではないかしらん。神は自然そのもの。
橋を渡って「神島」に入る。
祀られているのは生島神と足島神という二柱。「生きる」「足るを知る」神。
皇室が祀っている二十三神にも名前があるそうな。
神話時代、科野国造(しなのくにのみやつこ)が中央からこの地方に入った時に祀ったのがはじまりかもしれない。「科野」は「信濃」の語源?
神島の社殿にあるご神体は何か?
我々が中を開けてみることはできないけれど、中は真っ暗闇で何も置かれていないと解説してある本があった。
ご神体はこの地面=土地そのもの、という考え方なのだそうだ。
↑夏至の日には参道からまっすぐに朝日が射してくるように設計されている↑
古墳時代から続くような発想はこの場所の起源を表している気がする。
生島足島大社のすぐ北50メートルに諏訪社がある
諏訪神は秋から春にかけてこの下宮神社に渡られて、生島神と足島神に食事を捧げる。
その際に「お籠り」する=つまり料理する場所が↑上宮社殿のとなりに併設されている「御籠殿」。↑
諏訪社ゆかりということで↑上宮社殿の四隅にも御柱が立てられている↓
こちらは車で運ばれてくるのでニュースにはとりあげられませんが(^^)
下宮・諏訪社殿の右となりに「歌舞伎舞台」↑がある↓
建物は明治元年に建設されたホンモノの歌舞伎舞台だったが、後年に小学校や集会場となり使われていなかった。
回り舞台とせり上がりは昭和61年に復元されたものだが往時をよく感じさせてくれる↓
↑床板に↑回る切れ込みとせり上がり二つ↑
床下にももぐらせてくれる
回り舞台の真下↓
↓せり上がり
「年に一度でも上演すればよいのに」と思うけれど、
昨年12月に小豆島の「農村歌舞伎」舞台を訪れて知ったが、歌舞伎上演はかんたんには出来ない。
人もお金も装置も伝えていくのがたいへん。
※小豆島の農村歌舞伎を訪問した時のブログにリンクします
↑歌舞伎ステージは↑信玄の起請文コピーがずらりと展示されている↓
武田信玄は塩田平に進出した折、地元の豪族たちを生島足島神社に集め、忠誠を約束する血判入りの起請文二百通以上を提出させた。
※上田市の文化財ページにリンクします
神社のとなりに長福寺がある↓
ここに収蔵されている「菩薩立像」は奈良時代のもので、写真で見るととても端正。
もともと小布施にあったが、大塚工芸の創業者・大塚稔氏が「夢殿」を建ててここに安置した。
↑おお、奈良の夢殿そっくり(^^)
本物の二分の一スケールなのだそうだ。
中の観音立像さま、いちどお目にかかる機会があれば幸いです<(_ _)>