旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ラヴェンナを歩く

2018-04-09 23:57:28 | イタリア
ラヴェンナは一日いっぱい歩いても見きれない・興味深い見学場所がたくさんある。初期キリスト教のモザイク群はもちろんだが、それだけではない。
●「テオドリクス廟」は、他の場所では見られない六世紀の墳墓↓

★こちらにて以前書いたものを読んでいただけます
テオドリクスは八歳でコンスタンチノープルに人質として預けられそこで成人する。いちばん多感な時期を国際都市で成長した彼は、言語・学問・文化、幅広い教養と柔軟性を持った人物だった。テオドリクスが残した限られたモノからでも、そう感じさせてくれるのだ。
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朝一番で定番へ。
●ガラ・プラチディア廟は五世紀のもの↓

彼女の父も、兄も、息子も、ローマ皇帝だった。


●サン・ヴィターレ聖堂

ここはラヴェンナの軟弱な地盤のせいで長い間水につかっていた↓柱にその水面の線が残っている↓


床の一角にさらに下の古い時代のモザイク画見つかった場所↓

ここがサン・ヴィターレが殉教した場所だと信じられている。
そこにはまっていたモザイク画↓

1911年に泥の下から見つかった↓


床ばかりみないで(^.^)主祭壇上の輝くモザイク↓

※こちらに以前書いたものがあります ★大司教博物館所蔵のマクシミアヌス司教の象牙の椅子も載せております
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サン・ヴィターレから少し離れたところにあるラヴェンナの大聖堂は1733年にとりこわされ建てなおされた。
が、すぐ横にある●ネオン洗礼堂は五世紀の姿を留めている。いろいろな資料を読んでいるとラヴェンナに残るすべてのモザイク画の中でいちばん評価が高いようだ。小松自身何度もみているうちにその表現力が沁みてきた↓

こういった工芸技術を味わうには、全体を俯瞰するだけでは不十分。解説を聴いてから、少し時間をかけて細部に迫る必要がある

↓左の人物の陽に焼けた肌、右の人物との対比。右の人物の布で冠を持つ手↓

この礼拝堂にかぎったことではないが、建設当初より二メートル以上も沈んでいるので、昔の人々が見たよりも間近で見ることができる

●ケネディ広場↓

正面の建物は「退役軍人センター」。ムッソリーニの時代に建てられた。ここにあった古い教会をとりこわしたことが、地面に描かれた石の線で示されている↑
広場になった当初は「マーケット広場」だったのだが、ケネディ暗殺の報をうけて改名された。

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ダンテの横顔↓これは落書きではなく、ブラジル出身のコブラというアーティストの作品↓

ラヴェンナはダンテの墓があるのだ。

※●ダンテの墓にまつわるお話をこちらに書きました

●フランチェスコ教会
ダンテの葬儀が行われた当時にちかいかたちで見ることができる↓

ダンテの時代よりも地盤沈下しているのはもちろん。九~十一世紀ごろと言われる床は↓こんな風に水没。主祭壇下に見ることができる↓

ここを菩提寺にしていたポレンタ家の墓碑↓

※ヴェネチアによって放逐されたポレンタ家の話をこちらに書きました
横の礼拝堂から視線を感じた↓この人物は?

アウシュヴィッツで身代わりの死を選んだコルベ神父だった。フランチェスコ会に属していたのでここに蝋人形が置かれているのだそうだ。

お昼はこんなワンデッシュランチ↓
↓オレッキエッティ(耳たぶ型パスタ)アドリア海の魚、かぼちゃ、きのこ、タイムをつかって

↓アスパラガス、トマト、マッシュポテト、焼いたイカ


●サンタ・アポリナーレ・ヌオーヴァ
テオドリクス王の宮殿の一部としてあった教会だと考えられている。

六世紀からのモザイク画にはテオドリクス自身のすがたもあったかも↓

※このページはじめのテオドリクスについてのリンクからご覧ください
後陣アプスにもかつてはモザイク画があったと考えられているが、地盤が不均等に沈下したためか、倒壊してバロック風の装飾に替えられている↓

床の部分を見ると手前に丸く線が見える。そこまでがかつての後陣アプスだった

****近くの現代モザイク工房を訪ねる

↓これが金色のモザイク片(テッセラ)の元になる↓


●アリアニ礼拝堂↓

今回はじめて自動販売機の入場券






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