今本を書いていて「感動ある人生を」を書きながら、長年生きていて
今更ながら「ハット」気がついた。感動とはどちらかというと、受動的な
ものだということを……人それぞれ価値観の差があるかも知れな
いが、「歓喜」は自分の魂そのものに、ダイレクトに感じるものだと思う。
感覚的なわたしは、人一倍感じることが多いが、でも過去に沢山あった
感動的な「サクセス体験」の中で、「歓喜」は滅多にないことに気が付いた。
それを数字に当てはめると、明確ではないが、多分十分の二位かも知れない。
その三つが何と外国だった。
インドリシケシの「ヨーガニケタンアシュラム」での瞑想体験、体が震える
ような喜びは、感動をはるかに超えた歓喜だった。
また二〇〇八年北京で開催された「第五回世界心理治療学会」で、学会のミスで
わたしの発表が最終日になった。そのため同行したS大教授と、通訳してくれるはず
だった友人の大学教授が帰国し、一人で心細く生まれて初めて海外に延泊した。
次の日にロシア、ドイツ、ウクライナ、などの白人の中で、質問にはあまり答えら
れなかったが、英語で滞りなく「プレゼンテーション」が終わった。
通いなれた会場からホテルまでは約5・6分かかるが、歩道橋の上を踊りたくなるような
達成感で歩いたのは、まさしく感動ではなく歓喜だった。
あの「歓喜」は、わたしの体の中の「全細胞へのエネルギーのチャージ」
そのもので、それらの思い出は、わたしが今まだ燃えて生きているための
起爆剤かもしれない。そんな経験を持つわたしは、やっぱり恵まれた幸せな
人生なのだろう。
今更ながら「ハット」気がついた。感動とはどちらかというと、受動的な
ものだということを……人それぞれ価値観の差があるかも知れな
いが、「歓喜」は自分の魂そのものに、ダイレクトに感じるものだと思う。
感覚的なわたしは、人一倍感じることが多いが、でも過去に沢山あった
感動的な「サクセス体験」の中で、「歓喜」は滅多にないことに気が付いた。
それを数字に当てはめると、明確ではないが、多分十分の二位かも知れない。
その三つが何と外国だった。
インドリシケシの「ヨーガニケタンアシュラム」での瞑想体験、体が震える
ような喜びは、感動をはるかに超えた歓喜だった。
また二〇〇八年北京で開催された「第五回世界心理治療学会」で、学会のミスで
わたしの発表が最終日になった。そのため同行したS大教授と、通訳してくれるはず
だった友人の大学教授が帰国し、一人で心細く生まれて初めて海外に延泊した。
次の日にロシア、ドイツ、ウクライナ、などの白人の中で、質問にはあまり答えら
れなかったが、英語で滞りなく「プレゼンテーション」が終わった。
通いなれた会場からホテルまでは約5・6分かかるが、歩道橋の上を踊りたくなるような
達成感で歩いたのは、まさしく感動ではなく歓喜だった。
あの「歓喜」は、わたしの体の中の「全細胞へのエネルギーのチャージ」
そのもので、それらの思い出は、わたしが今まだ燃えて生きているための
起爆剤かもしれない。そんな経験を持つわたしは、やっぱり恵まれた幸せな
人生なのだろう。