【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

「求道と放恣」の空間 池袋モンパルナス

2009-02-15 12:31:21 | ノンフィクション/ルポルタージュ

宇佐美承『池袋モンパルナス』集英社、1990年

            池袋モンパルナス(二)

 昭和の初期から戦中にかけて、池袋に一風変わった絵描きや芸術家が生きていた地域がありました。そこには「すずめヶ丘」「つつじヶ丘」「桜ケ丘パルテノン」「ひかりケ丘」「みどりヶ丘」といったアトリエの村があったのです。飲み屋、喫茶店、ミルクホール、玉突屋など種々の店がひしめいていました。喫茶店ではセルパン、コティ、酒場では梯梧、錦、おもろ、バー・カフェではブルネリア、処女林など。

 軍国主義の道をひたすら歩もうとしていた日本とは無関係に(あるいは無関係を装って)、画家たちはアトリエで絵を描き、飽いては酒を飲んで、この界隈を徘徊していました。よく知られた画家としては、熊谷守一、松本竣介、靉光、麻生三郎、寺田政明、井上長三郎、長谷川利行、丸木位里、俊、らがいました。

 他にも、福沢一郎、吉原義彦、古沢岩美、長沢節、鳥居敏文、矢部友衛など数えきれません。

 ここを「池袋モンパルナス」と名付けたのは、夭折した詩人小熊秀雄であると言われています。

 「みんな貧乏で、酒好きで女好きで喧嘩っぱやく、絵を描くことのほかにはまるでデタラメだった。考えることといえば、いい絵を描くことだけだった。あげくに軍人や右翼など自称愛国者に脅され、行儀のいい人からは顰蹙を買っていた。だけどわしらが住む界隈は別天地で、一度住めば抜けだせなかった。そこはうす汚れていたが、だれもがフランスに恋こがれていて、”池袋モンパルナス”などと称して酔っていた」。これはかつてここに住んでいた絵描きの言ですが、この言を聞いて著者は池袋モンパルナスのことを書こうと思いたったといいます(p.508)。

 しかし、この別天地も戦争とは無縁でありえず、あるものは従軍画家として戦地に赴き、あるものは徴兵され、またあるものは時の権力にひきたてられ、投獄されました。

 敗戦の年の4月の空襲で、ミッションスクールの立教大学と「桜ケ丘パルテノン」などのアトリエ村をのこして大半が焼けおちてしまいました。画家たちはいつしかここを離れ、戦後は一時、広大な闇市と化しましたが、さらにその後、副都心開発の手が入り、かつての面影は消えうせてしまったのです。

 著者は入念な資料調査、聞きとり調査をベースに、この夢のような「求道と放恣」の世界に蠢いてた人間の群れを暖かい目ですくい上げ、紙上に再現させました。著者が渾身を込めて書きあげた珠玉のノンフィクションです。

  時々行く、沖縄風居酒屋「おもろ」が2回出てきました(p.343、p.373)←今度、いつか本ブログで紹介します。

 本文だけで511ページの大著です。3週間ほどかかって、愉しみながら読みました。


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