第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはユダヤ人虐殺という言語道断かつ卑劣な手段を講じた。ただユダヤ人であるといだけで、殺されたユダヤ人は600万人。ユダヤ人殲滅を掲げるナチスから逃れる難民はあとをたたなかった。
1940年、リトアニアのカナウス日本領事館に日本へのビザをもとめ、ユダヤ人が大挙して押し寄せ、当時領事代理だった杉原千畝は人道的見地からユダヤ人を他国へ逃がすために、日本通過を許可するビザを発給した(「命のビザ」)。杉原の英断で、シベリア鉄道を使って日本(敦賀を経由し、神戸、東京、横浜など)にきたユダヤ人は6000人に及んだ。
ここまでの話はよく知られている。しかし、その後、ユダヤ難民はどうなったのか。杉原が発給したビザは日本滞在を10日間ほどであったが、ビザの延長もままならない時に、難民はどのような状況に追い込まれていたのか。この疑問は著者がこの本を書いた動機でもあり、本書では難民の窮地を救った日本人、小辻節三(1899-1973)の偉業が追跡されている。
小辻は難民の窓口となり日本政府、ときの外務大臣松岡洋右と交渉し、ビザの延長を実現し、神戸にきたユダヤ人難民のリーダーであり、後にイスラエルの宗教大臣となったゾラフ・バルハフィクの献身的努力も得て、難民の窮地を救った(これにより、ほとんどの難民はアメリカ、カナダ、上海などのそれぞれの目的国へ)。
本書では、その小辻の偉業の内容、その人生(小辻は京都の賀茂神社の神官の家に生まれた)、妻美彌子との札幌での出会いと生活(ヘブライ語を学ぶためにアメリカへ留学)、ヘブライ語との出会い、家族を紹介している。
関連して知られざる事実がいくつかを知りえた。ひとつは1933年、日産コンツェルンの創始者である鮎川義介が構想した「ドイツ系ユダヤ人5万人の満洲移住計画(通称、河豚政策)」(5万人のユダヤ人を受け入れることで、アメリカのユダヤ資本を満洲に誘致し、満州を発展させるという計画、それによってアメリカとの戦争を回避できるという意図)が存在したこと。またヘブライ語ができる小辻が懇望されて満鉄で仕事をすることになり、その過程で松岡洋右(当時、満鉄総裁)との交渉があったこと、日本にユダヤ人は少なからずいたがナチスのユダヤ人政策に同調しない日本政府に業を煮やし、ドイツからマイジンガーが来日し、暗躍していたこと、などである。
さらにユダヤ教に改宗した小辻が眠っているイスラエルに飛んで取材した著者の経験とその内容が書き込まれ、とくに難民として神戸にきてミール神学校職員の校長になったシュモレビッツの娘との、また小辻の親友だったレーゲンズブルガーとの出会いの場面、タド・ヴァシェム(ホロコースト歴史博物館)訪問、小辻節三の墓参の場面は感動的だ。
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