小林昇『山までの街』八朔社、2002年
![山までの街 / 小林昇/著](https://img.7andy.jp/bks/images/i2/31057842.JPG)
「山までの街」とは福島市のことです。
東大経済学部を1939年に卒業後,東京海上に就職するもなじめず,招かれて福島高商(後の福島大学)の教員となり,そこでの15年を回顧して書かれた書物です。
著者はフリードリッヒ・リスト研究のわが国の第一人者ですが,その研究はこの福島でのテキスト・クリティークから始まりました。リストの母国であるドイツでも評価の低かった「農地制度論」を精読し,その経済学説上の意義を世に知らしめた功績は大きいものがあります。
召集後の著者の「戦地」(とくにヴェトナム)経験の記述がありますが,そのような経験が全くないわたしにとって想像を絶するものでした。
福島大学経済学部で、著者の同僚であった熊谷尚夫,大石嘉一郎,富塚良三については,わたしも名前を知っていますが,彼らの「人と学問」がよく書けていて,親近感がもてました。
著者は1955年から立教大学経済学部に移ります(82年退職)。
文学的力量を感じさせる文章,多くの自作短歌のレベルは素人のそれではないですね。
「山までの街」とは福島市のことです。
東大経済学部を1939年に卒業後,東京海上に就職するもなじめず,招かれて福島高商(後の福島大学)の教員となり,そこでの15年を回顧して書かれた書物です。
著者はフリードリッヒ・リスト研究のわが国の第一人者ですが,その研究はこの福島でのテキスト・クリティークから始まりました。リストの母国であるドイツでも評価の低かった「農地制度論」を精読し,その経済学説上の意義を世に知らしめた功績は大きいものがあります。
召集後の著者の「戦地」(とくにヴェトナム)経験の記述がありますが,そのような経験が全くないわたしにとって想像を絶するものでした。
福島大学経済学部で、著者の同僚であった熊谷尚夫,大石嘉一郎,富塚良三については,わたしも名前を知っていますが,彼らの「人と学問」がよく書けていて,親近感がもてました。
著者は1955年から立教大学経済学部に移ります(82年退職)。
文学的力量を感じさせる文章,多くの自作短歌のレベルは素人のそれではないですね。
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