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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

「赤旗」創刊93周年で考える① 政党機関紙こそ日本のジャーナリズムの原点

2021-01-29 08:07:04 | 赤旗記事特集
「赤旗」創刊93周年で考える① 政党機関紙こそ日本のジャーナリズムの原点
藤田 健(編集局次長)

「しんぶん赤旗」は、2月1日で創刊93周年を迎えます。いま、日曜版の「桜を見る会」スクープのJCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞受賞を契機に、大きな社会的注目を集めています。昨年は日刊紙が日本学術会議の会員任命拒否問題でスクープ。年初には内閣官房機密費の報道が話題を呼びました。
メディアへの登場は昨年11月以降、「毎日」「朝日」「沖縄タイムス」はじめ10社を超え、ラジオ番組出演や月刊誌での日曜版編集長と「週刊文春」編集局長との対談も企画されました。



安倍政権の「桜を見る会」私物化を報じる「しんぶん赤旗」日曜版

「赤旗」スクープ
その注目のほとんどは、なぜ大手メディアではなく、政党機関紙である「赤旗」がスクープできたのかという角度から、自省と自戒をこめてとりあげたものです。ただ、一部には「政党機関紙の活動とジャーナリズムは相いれるのか」と疑問を呈する向きもありました。
こうした疑問が出るのは、「中立公正」あるいは「客観報道」を旨とし、政治的には「不偏不党」を看板とする、いまの商業新聞のあり方がジャーナリズムの普遍的姿と映っているからではないか。
私は30年ほど前、昭和天皇死去後の異常な天皇礼賛報道を批判するなかで、明治期からの新聞を読み、「天皇報道の120年」という長期連載(1989年6月13日付から91年3月7日付まで92回)を同僚と2人で担当したことがあります。そこで知ったのは、日本の新聞の原点は、政党機関紙あるいは「政論新聞」(政治を論じる新聞)だったということでした。
日本で最初の日刊紙は、明治3年(1871年)に発行された「横浜毎日新聞」。その後発刊された新聞の多くは現在のブランケット判くらいの大きさで論説主体の「大(おお)新聞」と呼ばれました。これに対して、タブロイド判くらいの大きさで、警察ネタや花柳界の話題などいわゆる「3面記事」を中心にした新聞を「小(こ)新聞」と呼びました。代表格が東京で発行された「読売新聞」(1874年)と、大阪で創刊された「朝日新聞」(1879年)です。
「大新聞」は、自由民権運動とともに隆盛を誇りましたが、明治政府の度重なる弾圧で下火になります。とくに、1883年(明治16年)の新聞紙条例の改悪では、東京だけで13もの新聞社が閉鎖され、地方でも多くの新聞がつぶれたといわれます(板垣退助監修『自由党史』)。



毎日新聞夕刊「特集ワイド」(昨年11月30日付)

伝統を引き継ぐ
しかし、「政論新聞」の伝統は、ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論を翻訳・紹介した中江兆民らが論陣を張った「東洋自由新聞」、日露戦争に際して幸徳秋水や内村鑑三らが非戦論を展開した「万(よろず)朝報」、あるいは共産党宣言を日本で最初に掲載した「平民新聞」につながっていきます。「赤旗」(当時は「せっき」と呼びました)は、こうした「政論新聞」の伝統を正当に引き継ぎ生まれました。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年1月28日付掲載


日本で最初に発行された日刊新聞。現在のブランケット判くらいの大きさで論説主体の「大(おお)新聞」と呼ばれた。これに対して、タブロイド判くらいの大きさで、警察ネタや花柳界の話題などいわゆる「3面記事」を中心にした新聞を「小(こ)新聞」と呼ばれた。
新聞条例などの施行で、既存の「大新聞」が下火になるなかで、ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論を翻訳・紹介した中江兆民らが論陣を張った「東洋自由新聞」、日露戦争に際して幸徳秋水や内村鑑三らが非戦論を展開した「万(よろず)朝報」、あるいは共産党宣言を日本で最初に掲載した「平民新聞」につながっていきます。「赤旗」(当時は「せっき」と呼びました)は、こうした「政論新聞」の伝統を正当に引き継ぎ生まれました。


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