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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

ビキニ事件 被ばく漁船員の証言③ 何の補償もなかった

2020-02-19 21:54:04 | 平和・憲法・歴史問題について
ビキニ事件 被ばく漁船員の証言③ 何の補償もなかった
藤田義行さん(82)
高知県室戸市に住む藤田義行さん(82)は1953年に中学を卒業し、15歳で第7大丸に「かしき」(料理担当)で乗船。夏はカツオ漁、冬は太平洋でマグロ漁に出ました。




ビキニ海域と第7大丸が操業した地点(『ビキニ核被災ノート』から)

“死の灰”を洗う
1年間「かしき」で働いた後、無線士の資格を取り、54年2月ごろ、ビキニ環礁に行きました。質のいいマグロが捕れたため、多くの漁船がマーシャル諸島を目指しました。
「ビキニ水爆実験をしているとは知りませんでした。連絡を受けた記憶もありません」
船の冷蔵技術が今のように発達していないため、食事は野菜が少なく、ご飯とマグロの刺し身や煮つけ、「ぶし」=生節のようなものが多く、「心臓や胃袋が好きな人もいて、内臓のおいしさを覚えると食べるようになった」と語ります。
室戸に戻ると、放射線計測機(ガイガーカウンター)で船も人も検査されました。
「おそらく、どこかの大学か病院かが自主的にデータを集めていたのではないか」
検査結果は告げられず、「死の灰=放射性降下物」を落とすために、船のマストにあがって洗っていました。
「当時、船主さんは乗組員に対して、“川で服をよく洗うように”と指示していたと聞いています」と妻の善子さんはいいます。


核実験いけない
吉岡加寿彦さん(82)


室戸市に住む吉岡加寿彦さん(82)は、中学を卒業し、無線士の免許を取得後、1953年に通信士助手としてマグロ船・第五誠幸丸に乗船しました。
米は船に対して配給が行われ、毎日マグロの刺し身を中心とした食事が出されました。マグロの胃袋に内臓を入れて、煙突部分につるしてくん製のようにして食べていました。
朝、約100キロメートルあるはえ縄を4~5時間かけて海に投げ入れ、2~3時間休憩した後10時間かけて縄を引き上げました。通信士だった吉岡さんも時には手伝っていました。
第五誠幸丸の記録では54年9月と10月にフィリピンの東の海域で漁を行っていました。
しかし、通信員だった吉岡さんは、水爆実験が行われたとき、海上保安庁から水爆実験の連絡はなかったと記憶しています。
10月8日と11月30日に大阪の市場にマグロを降ろしました。岸壁にはガイガーカウンターがありました。
それまでは焼津や東京に寄り、焼津では第五福竜丸を見ました。白衣を着た人がガイガーカウンターで測定していました。
第五福竜丸の無線長の久保山愛吉さん急死のニュースを知り、「僕らも、毎日マグロの刺し身を食べたのに、何もないのはおかしい」と乗組員と話していました。第五福竜丸に慰謝料が支払われたことについて、「私たちには何の補償もなかった」と語ります。
当時一緒にビキニ海域に行った漁師が、20代で亡くなったことを後で聞きました。
62年にアメリカがクリスマス島で行った核実験についての情報が無線で船に入り、無線長として、船頭に水爆実験があるから避けるようにと伝えたことを記憶しています。
吉岡さんは「核実験はしてはいけない。平和であってこそみんなが幸せに暮らすことができる」と語りました。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年2月18日付掲載


ビキニ水爆実験が行われた1953年から1年近く経っても、ビキニ環礁近くで操業するマグロ漁船になにも情報が提供されなかったとはひどいお話し。
マグロや漁船や船員の線量検査はするっていうのなら、最初から行かせないとすべきだたのでは。
さすがに1962年のクリスマス島の核実験は情報が伝わったとか。

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