きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

ビキニ事件 被ばく漁船員の証言① 検査結果知らされず

2020-02-16 07:17:41 | 平和・憲法・歴史問題について
ビキニ事件 被ばく漁船員の証言① 検査結果知らされず
高知 久保尚(ひさし)さん(83)

1954年の3月1日、太平洋・ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験のために被災した、いわゆる「ビキニ事件」。第五福竜丸だけでなく、記録にあるだけでも、のべ992隻のマグロ船が被災しました。
しかし、被ばくしたことも知らず、マグロ漁をしていた漁師たちは、広島・長崎の被爆者と同じように高齢化しています。「3・1ビキニデー」を前に、マグロ船に乗った元漁師5人の思いを紹介します。




高知県に住む久保尚(ひさし)さん(83)は、1951年に中学を卒業して、15歳で第二幸成丸にかしき(料理担当)として働き始め、ビキニ事件があった時期にその近くで操業していた第二幸成丸に乗っていました。
夏はカツオ漁、冬はマグロ漁に出ました。
マグロ漁では毎日、魚を食べました。サメが食べて傷ついたマグロは商品にならないため、さばいて、刺し身や煮付けにしていました。お米を炊く以外には真水は使わず、歯磨きも海水でした。
風呂おけはありましたが、真水が貴重だったため、海水を使って体を洗い、雨が降ると、モノゲンせっけんを持って甲板で体を洗いました。

第五福竜丸の東
資料によると、第二幸成丸は、漁の移動の途中で、第五福竜丸とすれちがい、ビキニ環礁の東側で漁をしていることがわかります。
ビキニ水爆実験が行われた1954年の3月、一緒に船に乗っていた甲板員の桑野浩さんは「黒い雨や灰を見た」と証言していたといいます。
船についた灰(放射性降下物)は海水で洗い流しました。
普段はかっぱのズボンだけ履き、鉢巻きをして、甲板員ははえ縄をおろしたり、上げたりしていました。
水爆実験が行われた直後、雨が降ると放射能に汚染された雨や海水から身を守るために「かっぱを着ろ。帽子をかぶれ」と言われていたと語ります。
この時捕れたマグロは東京の築地へおろしました。白衣を着た人たちが放射線測定器(ガイガーカウンター)で乗組員も船も魚も検査していきました。
「放射線量の高いマグロについては、沖で捨てるように指示され捨てた」と語ります。
第五福竜丸の久保山愛吉さんが亡くなったニュースに、「自分たちもあの海域に行った。自分たちも被ばくしているけれど、ガイガーカウンターでの検査結果を知らせてもらえなかった。本当に恐ろしかった」と振り返ります。



第二幸成丸の航路図=『ビキニ核被災ノート』から

補償もないまま
その後、60歳までの35年間、いろんな船に乗りました。60代に歯が抜け落ち、健診では胃酸過多と診断されたことや、胃のポリープを内視鏡で切除したこともありました。
「アメリカは、日本政府と200万ドルの賠償金で政治決着したと聞きました。でも私たちは受け取っていません。私たちも被ばくしています。精神的にも大きなダメージを受けました。経済的な賠償を国はするべきではないか」と語りました。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年2月14日付掲載


ビキニ環礁での水爆実験による被ばくは第五福竜丸が有名ですが、そのほかの多くのマグロ漁船が被ばくしています。
真水が貴重なため、海水や雨水を使ったことによる被ばくのリスク。
賠償金も末端の船員までは渡らなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする