ビキニ事件 被ばく漁船員の証言④ 「核の傘」からの離脱を
小笠原勝さん(85)
室戸市に住む小笠原勝さん(85)は、1934年生まれ。18歳でカツオ船に2年乗ったあと、命がけだが収入がいいというマグロ船・第五海福丸に3年乗りました。その後50歳まで働きました。
船の機関士になるのが夢でした。マグロ船で1年学ばなければ試験を受けられなかったこともあり、機関士見習いとして54年、第五海福丸に乗りました。
1954年3月1日、これから操業に向かうビキニ環礁で、水爆実験があったとは知りませんでした。
サンマをえさに、はえ縄を80キロ~100キロメートルおろしては、3時間ほど休憩して巻き上げる作業を交代で行いました。洗濯をするような体力も時間もありません。交代で機関室で仕事をし、ときには甲板に出て網を引き揚げる作業もしました。
船に風呂はなく、エンジンを冷やす冷却水を利用した温かい海水で体を洗うのが楽しみでした。サメにかじられ商品にならないマグロを毎日食べました。
ミッドウェーあたりで黒マグロ、その後ビキニ環礁あたりでメバチマグロを釣ろうとしました。第五福竜丸と同じコースです。
4月に東京の築地市場でマグロをおろしたと記録にあります。
第五海福丸の航行図(『ビキニ核被災ノート』から)
放射能を測定
政府の人かどうか分かりませんでしたが、白衣を着た4~5人が放射線測定器(ガイガーカウンター)をもって乗組員と船を検査しました。「洗濯をしていない着ていたものを出してくれ」と言って船に上がり、軍手や帽子など線量の高いと思われるものを中心に検査していきました。
「帽子や軍手は、放射線がまじった海水に毎日さらされていたので、ガイガーカウンターの値が高かったことを覚えている」と語ります。
船長が白衣の人に「頬のキズがおかしい」と訴えましたが、その後どうなったのかは分かりません。
船はマグロをおろしてから、次の漁に向けて海上で船内も含めて洗いました。室戸の港に戻ると、「放射線を含む死の灰」や放射線量が高かった船のマストを洗うように指示され、マストに登って洗いました。
その航海では、小遣い程度の配当しかありませんでした。
その後、マグロ船をおり、機関士の試験に合格し、商船に乗り、国内の港を巡りました。盲腸や痔(じ)、鼠経(そけい)ヘルニア(脱腸)の手術を受け、50歳の時に商船もおりました。
心臓病を発症
神戸で働いていた時に心臓病(WPW症候群)を発症し、突然心臓が激しく打ち始め、苦しくなる状態を約10年にわたり患いました。どの病気も、水爆実験との因果関係はわかりませんが、小笠原さんはいいます。
「原発も含めて、人間が制御できないものはない方がいい。一度暴れ出したら大変なことになる。ビキニ海域で一緒に乗って漁をしていた人は若くして亡くなった人も多いと聞いています。アメリカとの関係があるにしても、日本政府はもうそろそろ、“核の傘”から逃れてアメリカにモノを言ってもいいのではないかと思います」(おわり)この連載は、加來恵子が担当しました。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年2月19日付掲載
小笠原さんはマグロ漁船に長い期間乗らず、ほとんど商船だったけど、やはり被ばくしていたのですね。
「原発も含めて、人間が制御できないものはない方がいい。アメリカとの関係があるにしても、日本政府はもうそろそろ、“核の傘”から逃れてアメリカにモノを言ってもいいのでは」
確かにそれが実感でしょうね。
小笠原勝さん(85)
室戸市に住む小笠原勝さん(85)は、1934年生まれ。18歳でカツオ船に2年乗ったあと、命がけだが収入がいいというマグロ船・第五海福丸に3年乗りました。その後50歳まで働きました。
船の機関士になるのが夢でした。マグロ船で1年学ばなければ試験を受けられなかったこともあり、機関士見習いとして54年、第五海福丸に乗りました。
1954年3月1日、これから操業に向かうビキニ環礁で、水爆実験があったとは知りませんでした。
サンマをえさに、はえ縄を80キロ~100キロメートルおろしては、3時間ほど休憩して巻き上げる作業を交代で行いました。洗濯をするような体力も時間もありません。交代で機関室で仕事をし、ときには甲板に出て網を引き揚げる作業もしました。
船に風呂はなく、エンジンを冷やす冷却水を利用した温かい海水で体を洗うのが楽しみでした。サメにかじられ商品にならないマグロを毎日食べました。
ミッドウェーあたりで黒マグロ、その後ビキニ環礁あたりでメバチマグロを釣ろうとしました。第五福竜丸と同じコースです。
4月に東京の築地市場でマグロをおろしたと記録にあります。
第五海福丸の航行図(『ビキニ核被災ノート』から)
放射能を測定
政府の人かどうか分かりませんでしたが、白衣を着た4~5人が放射線測定器(ガイガーカウンター)をもって乗組員と船を検査しました。「洗濯をしていない着ていたものを出してくれ」と言って船に上がり、軍手や帽子など線量の高いと思われるものを中心に検査していきました。
「帽子や軍手は、放射線がまじった海水に毎日さらされていたので、ガイガーカウンターの値が高かったことを覚えている」と語ります。
船長が白衣の人に「頬のキズがおかしい」と訴えましたが、その後どうなったのかは分かりません。
船はマグロをおろしてから、次の漁に向けて海上で船内も含めて洗いました。室戸の港に戻ると、「放射線を含む死の灰」や放射線量が高かった船のマストを洗うように指示され、マストに登って洗いました。
その航海では、小遣い程度の配当しかありませんでした。
その後、マグロ船をおり、機関士の試験に合格し、商船に乗り、国内の港を巡りました。盲腸や痔(じ)、鼠経(そけい)ヘルニア(脱腸)の手術を受け、50歳の時に商船もおりました。
心臓病を発症
神戸で働いていた時に心臓病(WPW症候群)を発症し、突然心臓が激しく打ち始め、苦しくなる状態を約10年にわたり患いました。どの病気も、水爆実験との因果関係はわかりませんが、小笠原さんはいいます。
「原発も含めて、人間が制御できないものはない方がいい。一度暴れ出したら大変なことになる。ビキニ海域で一緒に乗って漁をしていた人は若くして亡くなった人も多いと聞いています。アメリカとの関係があるにしても、日本政府はもうそろそろ、“核の傘”から逃れてアメリカにモノを言ってもいいのではないかと思います」(おわり)この連載は、加來恵子が担当しました。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年2月19日付掲載
小笠原さんはマグロ漁船に長い期間乗らず、ほとんど商船だったけど、やはり被ばくしていたのですね。
「原発も含めて、人間が制御できないものはない方がいい。アメリカとの関係があるにしても、日本政府はもうそろそろ、“核の傘”から逃れてアメリカにモノを言ってもいいのでは」
確かにそれが実感でしょうね。