微熱と喘息のなかで仕事をこなす日々が続く。延べ6時間の会議中ずっとキーボードを叩き続けたり、書類や授業準備に明け暮れ連日徹夜を続けたり…気がつくとシンポジウムの前日になっており、この日も朝までかかってレジュメを仕上げ、1時間ちょっとだけ仮眠を取って会場の立教大学へ赴いたのだった(目覚めてレジュメの読み直しをしつつ、『諏訪市博物館紀要』の念校を確認して同博物館へメールしたりもした)。身体の調子は相変わらずでテンションは上がらなかったが(気管支拡張剤のシールもしっかり貼付)、まあ自業自得でやむをえない。
この日のシンポジウムは、「エコクリティシズムと日本文学研究」「もののけシンポ」に引き続き野田研一さんのコーディネート。本当に刺激的な体験をさせていただいて感謝してもしきれないほどだが、今回の舞台は異文化コミュニケーション研究科主催の講演会「環境と文学のあいだ8:交感論」で、環境哲学の河野哲也さんとのコラボレーションである。河野さんのご著書のうち、上に挙げたようなものは拝読していた。とくに、それらで開陳されているジェームズ・ギブソンの〈アフォーダンス〉の概念は非常に魅力的で、『環境と心性の文化史』でも触れたものの、表層的な理解に終わってうまく使いこなせていなかったため、いろいろ教えていただこうと楽しみにしていた。
14:00過ぎに野田さんの研究室に到着、しばし一次自然/二次自然の概念、「交感」なる言葉について意見交換しているうちに、長身の河野さんが颯爽と登場。肩には剣道の防具を担がれている。後から伺った話だが、何でも小学校1年生の頃からずっと剣道を続け、いま6段への昇段へ向けて稽古中でいらっしゃるという。ぼくも小学校時代に剣道をやっていたので(不真面目で中学へ上がるときに止めてしまったけれど)、まず思い切り親近感が湧いた。進行についてある程度の打ち合わせをして、早速会場へ。その間とりとめもない会話しかしていないのだが、何となく話がしやすい雰囲気でリラックスしてきた。しかし、微熱で頭がうまく回転しないので、とにかく自分の責任をしっかり果たさなければとプレッシャーも強まった。
このシンポのためにぼくが用意したのは、「〈人外〉のものと語り合う世界―東アジアにおける神霊との交渉・交感―」との報告。当初はよりシャーマニックな内容を考えていたが、やはり野田さんのお声掛かりなので動物の精霊へ焦点を絞った。具体的な内容は、春学期の特講を通じ4ヶ月間で考えてきた、異類/人間の交感=交換をめぐる神話の分析。最古の神話形式であるそれが、東アジア世界でどのように成立し展開してゆくのかを、歴史的に跡づけてゆく試みである。とくに、中国江南におけるトーテミズムの意義と、日本列島にトーテミズムが無くなってしまった理由の考察をメインに据えた。対象とする神話の核をなす「毛皮」については、もう少し社会的・経済的価値についても追究するつもりであったが、とても70分では語りきれないので、11/13の上智史学会大会での報告へ後回しにすることにした。あとは、野生(wilderness)、環境世界、二次的自然、身分け構造、言分け構造、ブリコラージュ、アフォーダンス、ハビトウスなどの粗っぽい概念整理。この点は、11/10刊行の『歴史評論』でも少し言及したが、異分野どうしが生産的に語り合うために、それぞれの射程の重複/非重複に関するきちんとした交通整理が必要と思う。テンションの低さが幸いしたのか、あまり脱線せず、5分超過で用意した内容すべてに触れることができた。聴きにきてくださった皆さんの関心に訴えられたかどうかはともかく、とりあえず責任を果たしてどっと疲れが出た。
続いては河野さんのご報告、「自然と野生:生態学的哲学の視点から」。まずはアフォーダンスの概念を簡易に説明され、心理作用を含む生物の行動は常に環境との関係において発現すること、心が身体や環境から独立して存在すると考えることは無意味であることが提示された。つまり、心も身体も環境との繋がりにおいてのみ定義されるわけで、適応とは当該環境に即した〈変身〉であり、かかる形態の創出/生態学的関係の創出こそが、想像力の第一の機能であるという。また〈交感〉は、こうしたコミュニケーション可能な2次的自然とのあいだには成立しえず、人間を拒絶するような野生との関係においてのみ成り立つ。ディスコミュニケーションの情況であればあるほど他者の存在は屹立してゆく。逆説的なことに、その意味で野生と等価に置かれるのは都市なのである…。
とにかく、知的刺激に満ちたお話だった。それぞれの発表終了後、まずはお互いに質疑応答。河野さんから日本文学における野生について質問されたので、古典的世界から現在に至る大雑把な流れをお話しし、さらに仏教における「野生」の位置付けはとの深い突っ込みをいただいたので、アジア化と易行化によって「野生」への視線は希薄化、本覚論の成立と普及が日本仏教的二次自然を確立し、野生とのアクセスを強固に疎外するのではないかとの展望を述べた。私の方からは、アフォーダンスや「環境に広がる心」における集合的記憶論の可能性などについて質問、これまでの議論は視覚に偏重していたので、記憶についてどのようなアプローチができるのか、唯脳論へどのようなアンチ・テーゼができるのかがポイントだとの回答をいただいた。集合的記憶論は「想起の契機が集合的に与えられるもの」だが、それを編成する共通のコードがどのように社会の網の目に保存されているのか、これまで曖昧な議論に止まっていたように思う。アフォーダンスにより社会的記憶、いや環境的記憶の概念が明確化されれば、ぼくらの環境文化史や心性史にも大きな収穫となる。幾つかの意見交換のあと、なんとなく、「ディスコミュニケーションな存在との交感と聞いて、『未知との遭遇』を想い出しましたが」と振ってみたら、「ぼくは『ソラリスの陽のもとに』のつもりでした」とのお答えが。おお、河野さんとはそういう人だったのか…!と、当初感じた「何となく話しやすい雰囲気」に合点がいった。
シンポジウム終了後の食事会では、あるわあるわ、河野さんには失礼かも知れないが、サブカル的なものに対する嗅覚の共通点が次々明らかになった。もちろん、60年代生まれの河野さんの方がコアでハイレベルなのだが、映画、マンガ、SF、音楽など、アンテナを張っていた分野がかなり重複していたことに嬉しくなった。河野さんがいちばん惚れている(「むせるぜぇ!」)アニメは『装甲騎兵ボトムズ』だそうで、ご著書にはそのセリフが散りばめられているのだという。まったく気づかなかった。不徳の致すところである。突っ込む機会を逸したが、野田さんに「先生がお若いときに御覧になっていたSFとかは、何かなかったのですか」と伺ったとき、横から「『謎の円盤UFO』とか」ときたのにも相当に熱くなった(なんて「分かっているんだ、この人は!」と)。野田さんといい、上田さんといい、そして今度の河野さんといい、立教大学はなんというコアな人々を抱えているのだ…と、肩に担いだ赤い防具袋を「シャア専用。通常の防具より3倍速い」と云って去ってゆく河野さんの後ろ姿を、半ば呆然としながら見送る私であった。
ちなみに、野田さん、河野さんとも、Perfumeのファンであることが判明、次はPerfumeのシンポジウムをやりましょうというとんでもない話になった。ぼくはファンというほどでもないのだが、お2人との繋がりは大事にしたいので参加させていただこう(ちなみに野田さんはあーちゃん派、河野さんとぼくはのっち派である)。
またこの日は、すでにネット上で邂逅している☆ The Reflective ☆ ☆ Practitioner ☆のやまもとYへいさんともお会いすることができた(やまもとさんの感想はこちら)。英米文学についてはまったく見通しが利かないので、ぜひ今後もご教導願いたいものである。
それにしても、1年を通じてこれほど楽しく知的興奮に溢れた出会い、経験をさせていただき、野田研一さんにはいくら感謝申し上げてもし足りないほどである。今年は、中村生雄さんら偉大な先達を失ったが、新たに進むべき道を照らしてくださる方々にお会いできた。この1年だけでも、自分の研究者人生は幸福なものだといえそうだ。あとは、この「負債」を返済すべく精進してゆくしかない。
この日のシンポジウムは、「エコクリティシズムと日本文学研究」「もののけシンポ」に引き続き野田研一さんのコーディネート。本当に刺激的な体験をさせていただいて感謝してもしきれないほどだが、今回の舞台は異文化コミュニケーション研究科主催の講演会「環境と文学のあいだ8:交感論」で、環境哲学の河野哲也さんとのコラボレーションである。河野さんのご著書のうち、上に挙げたようなものは拝読していた。とくに、それらで開陳されているジェームズ・ギブソンの〈アフォーダンス〉の概念は非常に魅力的で、『環境と心性の文化史』でも触れたものの、表層的な理解に終わってうまく使いこなせていなかったため、いろいろ教えていただこうと楽しみにしていた。
14:00過ぎに野田さんの研究室に到着、しばし一次自然/二次自然の概念、「交感」なる言葉について意見交換しているうちに、長身の河野さんが颯爽と登場。肩には剣道の防具を担がれている。後から伺った話だが、何でも小学校1年生の頃からずっと剣道を続け、いま6段への昇段へ向けて稽古中でいらっしゃるという。ぼくも小学校時代に剣道をやっていたので(不真面目で中学へ上がるときに止めてしまったけれど)、まず思い切り親近感が湧いた。進行についてある程度の打ち合わせをして、早速会場へ。その間とりとめもない会話しかしていないのだが、何となく話がしやすい雰囲気でリラックスしてきた。しかし、微熱で頭がうまく回転しないので、とにかく自分の責任をしっかり果たさなければとプレッシャーも強まった。
このシンポのためにぼくが用意したのは、「〈人外〉のものと語り合う世界―東アジアにおける神霊との交渉・交感―」との報告。当初はよりシャーマニックな内容を考えていたが、やはり野田さんのお声掛かりなので動物の精霊へ焦点を絞った。具体的な内容は、春学期の特講を通じ4ヶ月間で考えてきた、異類/人間の交感=交換をめぐる神話の分析。最古の神話形式であるそれが、東アジア世界でどのように成立し展開してゆくのかを、歴史的に跡づけてゆく試みである。とくに、中国江南におけるトーテミズムの意義と、日本列島にトーテミズムが無くなってしまった理由の考察をメインに据えた。対象とする神話の核をなす「毛皮」については、もう少し社会的・経済的価値についても追究するつもりであったが、とても70分では語りきれないので、11/13の上智史学会大会での報告へ後回しにすることにした。あとは、野生(wilderness)、環境世界、二次的自然、身分け構造、言分け構造、ブリコラージュ、アフォーダンス、ハビトウスなどの粗っぽい概念整理。この点は、11/10刊行の『歴史評論』でも少し言及したが、異分野どうしが生産的に語り合うために、それぞれの射程の重複/非重複に関するきちんとした交通整理が必要と思う。テンションの低さが幸いしたのか、あまり脱線せず、5分超過で用意した内容すべてに触れることができた。聴きにきてくださった皆さんの関心に訴えられたかどうかはともかく、とりあえず責任を果たしてどっと疲れが出た。
続いては河野さんのご報告、「自然と野生:生態学的哲学の視点から」。まずはアフォーダンスの概念を簡易に説明され、心理作用を含む生物の行動は常に環境との関係において発現すること、心が身体や環境から独立して存在すると考えることは無意味であることが提示された。つまり、心も身体も環境との繋がりにおいてのみ定義されるわけで、適応とは当該環境に即した〈変身〉であり、かかる形態の創出/生態学的関係の創出こそが、想像力の第一の機能であるという。また〈交感〉は、こうしたコミュニケーション可能な2次的自然とのあいだには成立しえず、人間を拒絶するような野生との関係においてのみ成り立つ。ディスコミュニケーションの情況であればあるほど他者の存在は屹立してゆく。逆説的なことに、その意味で野生と等価に置かれるのは都市なのである…。
とにかく、知的刺激に満ちたお話だった。それぞれの発表終了後、まずはお互いに質疑応答。河野さんから日本文学における野生について質問されたので、古典的世界から現在に至る大雑把な流れをお話しし、さらに仏教における「野生」の位置付けはとの深い突っ込みをいただいたので、アジア化と易行化によって「野生」への視線は希薄化、本覚論の成立と普及が日本仏教的二次自然を確立し、野生とのアクセスを強固に疎外するのではないかとの展望を述べた。私の方からは、アフォーダンスや「環境に広がる心」における集合的記憶論の可能性などについて質問、これまでの議論は視覚に偏重していたので、記憶についてどのようなアプローチができるのか、唯脳論へどのようなアンチ・テーゼができるのかがポイントだとの回答をいただいた。集合的記憶論は「想起の契機が集合的に与えられるもの」だが、それを編成する共通のコードがどのように社会の網の目に保存されているのか、これまで曖昧な議論に止まっていたように思う。アフォーダンスにより社会的記憶、いや環境的記憶の概念が明確化されれば、ぼくらの環境文化史や心性史にも大きな収穫となる。幾つかの意見交換のあと、なんとなく、「ディスコミュニケーションな存在との交感と聞いて、『未知との遭遇』を想い出しましたが」と振ってみたら、「ぼくは『ソラリスの陽のもとに』のつもりでした」とのお答えが。おお、河野さんとはそういう人だったのか…!と、当初感じた「何となく話しやすい雰囲気」に合点がいった。
シンポジウム終了後の食事会では、あるわあるわ、河野さんには失礼かも知れないが、サブカル的なものに対する嗅覚の共通点が次々明らかになった。もちろん、60年代生まれの河野さんの方がコアでハイレベルなのだが、映画、マンガ、SF、音楽など、アンテナを張っていた分野がかなり重複していたことに嬉しくなった。河野さんがいちばん惚れている(「むせるぜぇ!」)アニメは『装甲騎兵ボトムズ』だそうで、ご著書にはそのセリフが散りばめられているのだという。まったく気づかなかった。不徳の致すところである。突っ込む機会を逸したが、野田さんに「先生がお若いときに御覧になっていたSFとかは、何かなかったのですか」と伺ったとき、横から「『謎の円盤UFO』とか」ときたのにも相当に熱くなった(なんて「分かっているんだ、この人は!」と)。野田さんといい、上田さんといい、そして今度の河野さんといい、立教大学はなんというコアな人々を抱えているのだ…と、肩に担いだ赤い防具袋を「シャア専用。通常の防具より3倍速い」と云って去ってゆく河野さんの後ろ姿を、半ば呆然としながら見送る私であった。
ちなみに、野田さん、河野さんとも、Perfumeのファンであることが判明、次はPerfumeのシンポジウムをやりましょうというとんでもない話になった。ぼくはファンというほどでもないのだが、お2人との繋がりは大事にしたいので参加させていただこう(ちなみに野田さんはあーちゃん派、河野さんとぼくはのっち派である)。
またこの日は、すでにネット上で邂逅している☆ The Reflective ☆ ☆ Practitioner ☆のやまもとYへいさんともお会いすることができた(やまもとさんの感想はこちら)。英米文学についてはまったく見通しが利かないので、ぜひ今後もご教導願いたいものである。
それにしても、1年を通じてこれほど楽しく知的興奮に溢れた出会い、経験をさせていただき、野田研一さんにはいくら感謝申し上げてもし足りないほどである。今年は、中村生雄さんら偉大な先達を失ったが、新たに進むべき道を照らしてくださる方々にお会いできた。この1年だけでも、自分の研究者人生は幸福なものだといえそうだ。あとは、この「負債」を返済すべく精進してゆくしかない。
唯一こころ残りは、シャアが3倍のスピードで立ち去っていくところに立ち会えなかったことですが、また颯爽と現れてくださるでしょう(笑)
お誉めに与り恐縮です。若手の研究者の方はいろいろと我慢ならないことも多いでしょうが(ぼくも30代前半の頃は、パネリストに呼ばれるシンポで大体非難の対象になっていました)、いつか、思う存分羽を伸ばせる日がやって来ると思いますよ。
そのときまで、めげずにがんばりましょう。ぼくも精進します(最近、かなり考察が粗雑になっているので…)。
>もろさん
卒論指導、大変になってきましたね。
そういえば、もろさんもレム好きでしたねえ。
ところで、ボトムズの新作ではキリコは父親になっているらしいですよ。