仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

冥報記+仏教文化研究会例会:「神霊の訪れ方」

2006-11-26 14:00:00 | 議論の豹韜
「神霊の訪れ方―『周氏冥通記』の世界―」というタイトルで、報告を終了しました。
内容的には、7月に首都大のオープン・ユニバーシティで話した『周氏冥通記』を、前回の藤本誠氏による『冥報記』中巻14話のレポートと絡めた史料紹介です。この説話、主人公の〓(目+圭)仁〓(艸/人+青)なる人物が見鬼について修行したり、冥界臨胡国の長史成景と交遊関係を持ったり、泰山の主簿となった同郷人を通じて冥界の召命を受け病死しそうになったりと、志怪小説や道教的世界との交流が顕著な内容。これを読み解くうえで、『冥通記』の独特な成書過程や神霊の訪れ方、交信の仕方の描写はいい参考になるのです。とくに、撰者である茅山道教の大成者・陶弘景は、仏の夢告で与えられた称号〈勝力菩薩〉を名乗り、〓(貿+邑)県(浙江省)の阿育王塔に詣でて五大戒を授かったという経歴の持ち主。『冥通記』にも、神仙となる人物は永劫の過去世より転生しつつ浄化を進めてきているなど、仏教からの影響と思われる考え方が散見します。六朝は道教/仏教が競合しつつ相互交流をはかった時代で、隋唐仏教の繁栄はその集大成であるともいえるでしょう。近ごろ閉塞気味の神仏習合研究を一歩先へ進めるためにも、中国における仏教と道教、その他民俗信仰との交渉の具体相を見据えてゆく必要があります。以前、堕牛譚で扱った六畜が喋るという現象、路上に神霊が出現するという常套表現、『冥報記』にも『冥通記』にもみえる寿命を告げる鬼神、さらに「餓鬼」といった言葉なども、すでに戦国末期の睡虎地秦簡(仏教以前)にみることができます。これらを単純に仏教文化、道教文化と捉えるのは誤りなわけで、日本とは異なるシンクレティズムのあり方を長期スパンで考察してゆかねばならないでしょう。

報告終了後、四谷駅2階のBECKで、内藤亮氏・石津輝真氏としばし歓談。Y社から、とんがった神仏習合の本を安い値段で出そうと盛り上がりました。実現するでしょうか? したらしたで、また仕事がひとつ増えてしまいますが…(ありがたいなあ)。
帰りの電車のなかでは『下山事件』の続き。松本善明・いわさきちひろ夫妻が何者かの監視・尾行を受けた末、家政婦の女性が拉致・監禁のうえに病院で変死、直後にその主治医も事故死するという異常な情況。それらはすべて、未解決なまま忘却されようとしている。あったことすら知られていない節もある。怖ろしいことです。
…サスペンス映画もどきという形容を人はよく使うけれど、一九四九年に端を発するこの時期において、日本はまさしくその状態にあったということなのか。冷血な男たちは闇に跋扈し、様々な謀略が積み重ねられ、警察や検察は組織的な隠蔽や工作に耽り、冤罪はくりかえされ、そして、不都合な命は、あっさりと消される。何の価値もないかのように。何のためらいもないかのように。…でも人は、あまりに近距離なものには焦点を合わせづらい。だからこそ過去を忘れてはいけない。だからこそ何度も何度も目を擦りながら、僕らは過ぎ去ってきた遠くを、凝視し続けなくてはならない。(p.153.)
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 悪習:読書ペースが追いつかない | TOP | 地元講演:「栄区のなかの平... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 議論の豹韜