さて、昨日ももろもろの会議のあとに永田町へ出発。湿度が異常に高く、街灯のまわりの空気も、まるでもやがかかったかのように煙っている。赤坂へ降りてゆくと、不快で息苦しく、まるで海の底へ沈んでゆくかのようだ。陽気のせいか、歩道を侵蝕してくる蔦植物と必死に戦う、酔った外国人青年とすれ違う。大丈夫か?
昨日の投稿に盟友の工藤健一さんが、「”わけのわからないもの”を排除する、というのは、確かに近代の権力のあり方の特徴とは思いますが、日本の場合、その中枢に、”わけのわからないもの”を抱え込み、さらに、極めてエモーショナルな概念を強引に構築してきたのではないのかとも思ってしまいます。最たるものは”天皇”であり、”国体”ですよね」とのコメントをくださった。仰るとおりである。
何回か前のポストでも触れたと思うのだが、王権の孕む不気味さについては、水の噴き出す深淵を常に抱え込むものとして、論文に書いたことがある。古墳時代の湧水点祭祀から、水の王宮、阿修羅窟、桃源郷、洞天福地と来て、ロラン・バルトのいう皇居にまで繋げてゆく発想だったが(いま考えると、少しラブクラフト染みていた)、しかしぼくは皇居という空間そのものには、あまり不気味さを感じない。恐らく、水を濠という、人間にとってコントロール可能なものへ骨抜きにし、幽閉した空間に囲まれているからであろう。それでも、闇の多かった江戸時代には境界領域として認識されえたのだが、いまはもうそうした喚起力を失いつつある。王宮の持っていた空間的気味の悪さは、「象徴天皇制」という、これはもうそれ自体に底の知れない深淵を持つコトバに、とって代わられてしまったかにみえる。ゴジラが皇居を踏み潰せなかったのは、コトバに絡め取られてしまったからだ。
〈国体〉も同様の不気味さを発揮してきたが、近代のそれについては、その形成過程を跡づけることで自分なりに相対化することができた。解体する言説を構築しえたので、もうさほど恐ろしくはないといったところか。それでも、上智大学靖国神社参拝拒否事件などのことを考えると(現在に至る上智の「政治的鈍さ」を、決定づけた出来事のように思える)、当時の人々が感じた皮膚感覚の恐怖は共有しなければと思う。その3年後の1935年、岡田内閣が国体明徴声明を2度にわたって発し、文部大臣の諮問機関として設置された教学刷新評議会が、「天壌無窮の神勅」に基づく天皇の永遠統治を国体化する声明「教学刷新ニ関する答申」を打ち出すに至る。あの時代を繰り返してはならない。
しかし、何度も議事堂周辺を歩き回っていると、やはり細かいところが気になってくる。例えば下の写真は、国会図書館に隣接する北西隅の部分だが、一部のみ妙なカーブを描いている。続く写真、坂を下ってゆく北東隅の方はまっすぐになっており、対応する南西隅にも、このようなカーブは存在しない。地図をみると、246へ合流しようとする道路が緩やかな曲線を描いているので、交通力学的な配慮があるのかもしれないが、果たして、交通路に規制されたものか地形に規制されたものか。古地図を遡って考えてみたいところである。ちなみに繰り返すようだが、議事堂自体は南北軸を20度ほど西へずらした立ち方をしているので、地形に規制されていることは明らかであり、地図をみているとちょっと気持ちが悪くなる(このあたりは、ぼくが南北軸の徹底した古代を研究しているためだろう)。周辺の高低差も規則性がなく(前回の視点からすると、自然の反駁といえるだろうか)、何だかひどく軟らかい地面に立っているようで不安になる。今度、GPSを持ち込んで計測してみるか。
ちなみにこの日も、求道者の存在は確認できず。活動時間帯が変わったのか、身体の調子を崩しているのか、それとも心が折れてしまったのか。気になる。
昨日の投稿に盟友の工藤健一さんが、「”わけのわからないもの”を排除する、というのは、確かに近代の権力のあり方の特徴とは思いますが、日本の場合、その中枢に、”わけのわからないもの”を抱え込み、さらに、極めてエモーショナルな概念を強引に構築してきたのではないのかとも思ってしまいます。最たるものは”天皇”であり、”国体”ですよね」とのコメントをくださった。仰るとおりである。
何回か前のポストでも触れたと思うのだが、王権の孕む不気味さについては、水の噴き出す深淵を常に抱え込むものとして、論文に書いたことがある。古墳時代の湧水点祭祀から、水の王宮、阿修羅窟、桃源郷、洞天福地と来て、ロラン・バルトのいう皇居にまで繋げてゆく発想だったが(いま考えると、少しラブクラフト染みていた)、しかしぼくは皇居という空間そのものには、あまり不気味さを感じない。恐らく、水を濠という、人間にとってコントロール可能なものへ骨抜きにし、幽閉した空間に囲まれているからであろう。それでも、闇の多かった江戸時代には境界領域として認識されえたのだが、いまはもうそうした喚起力を失いつつある。王宮の持っていた空間的気味の悪さは、「象徴天皇制」という、これはもうそれ自体に底の知れない深淵を持つコトバに、とって代わられてしまったかにみえる。ゴジラが皇居を踏み潰せなかったのは、コトバに絡め取られてしまったからだ。
〈国体〉も同様の不気味さを発揮してきたが、近代のそれについては、その形成過程を跡づけることで自分なりに相対化することができた。解体する言説を構築しえたので、もうさほど恐ろしくはないといったところか。それでも、上智大学靖国神社参拝拒否事件などのことを考えると(現在に至る上智の「政治的鈍さ」を、決定づけた出来事のように思える)、当時の人々が感じた皮膚感覚の恐怖は共有しなければと思う。その3年後の1935年、岡田内閣が国体明徴声明を2度にわたって発し、文部大臣の諮問機関として設置された教学刷新評議会が、「天壌無窮の神勅」に基づく天皇の永遠統治を国体化する声明「教学刷新ニ関する答申」を打ち出すに至る。あの時代を繰り返してはならない。
しかし、何度も議事堂周辺を歩き回っていると、やはり細かいところが気になってくる。例えば下の写真は、国会図書館に隣接する北西隅の部分だが、一部のみ妙なカーブを描いている。続く写真、坂を下ってゆく北東隅の方はまっすぐになっており、対応する南西隅にも、このようなカーブは存在しない。地図をみると、246へ合流しようとする道路が緩やかな曲線を描いているので、交通力学的な配慮があるのかもしれないが、果たして、交通路に規制されたものか地形に規制されたものか。古地図を遡って考えてみたいところである。ちなみに繰り返すようだが、議事堂自体は南北軸を20度ほど西へずらした立ち方をしているので、地形に規制されていることは明らかであり、地図をみているとちょっと気持ちが悪くなる(このあたりは、ぼくが南北軸の徹底した古代を研究しているためだろう)。周辺の高低差も規則性がなく(前回の視点からすると、自然の反駁といえるだろうか)、何だかひどく軟らかい地面に立っているようで不安になる。今度、GPSを持ち込んで計測してみるか。
ちなみにこの日も、求道者の存在は確認できず。活動時間帯が変わったのか、身体の調子を崩しているのか、それとも心が折れてしまったのか。気になる。