大河ドラマ『功名が辻』が始まりました。戦国ものには本当に飽きているのですが、私は竹中半兵衛が割合に好きなのと、興味を持って観られそうなキャストだったので楽しみにしていました。
結果はどうでしょう。確かに主役の2人は頑張っていましたね(といっても、仲間由紀恵は本格的には出てきていません)。上川隆也は『大地の子』以来のファンですが、いつも同じ演技ながら、役になりきっていて安心して観ていられます。武田鉄也の脇役もいい味が出ています。しかし、織田信長の舘ひろし、松平信康の西田敏行、木下藤吉郎の柄本明、お市の大地真央、ねねの浅野ゆう子は年とりすぎです。おまけに舘ひろしは声に伸びがなく、大音声があげられない。面白いと思った配役でしたが、蓋を開けてみれば花がない。
物語は、司馬遼太郎の原作があるせいで仕方ないのでしょうが、桶狭間の描き方が古すぎました。藤本正行氏の研究以来、桶狭間が今川義元上洛途上の尾張攻略でも、信長による起死回生の奇襲戦でもなく、平凡な隣国武将どうしの国境線拡大争いに過ぎなかったことは明らかであるのに……。脚本にも演出にも斬新な切り口はなく、今後の展開に期待するしかありません。大石静さん、がんばってください。
新番組期待度ナンバーワンというフジテレビの『西遊記』も、やはり満足のいく出来ではありませんでした。
孫悟空に、「キレやすいが孤独でさびしがりやな現代の若者像」を重ね、「仲間との絆を自覚してゆくなかで成長させる」物語にしてしまってもいいのですが、原作ファンとしては不満が募ります。神仙になる修行を積んで雲に乗る技を会得し、冥界を訪問して不老不死を手に入れ、竜宮から最強の武器如意棒を奪い、天上界で大暴れして天帝の大軍にひとりで立ち向かう「斉天大聖」の英雄ぶりは、中国民衆の希望や憧憬、豊かな想像力が構築したもの。日本で作る『西遊記』は、どうもそれを矮小化し、等身大の人間として描いてしまう傾向があります。「斉天大聖」の意味が分かっているのでしょうか。
今作はその典型で、ちっぽけな石牢に閉じ込められて500年も身動きとれず(原作では封印された巨大な岩山の下敷きになっている)、姑息な人間の企みを見破る智慧も洞察力もなく(原作では悟空が最も洞察力に富み、そのギャップのために玄奘や他の弟子たちとの間に誤解が生じる)、牛魔王との戦いでは檻に入って出られない始末。だいたい牛魔王も、かつて悟空に負けて義兄弟の契りを結んだはずなんですよね。ついには、公明正大な〈こころ〉論を語って見栄をきるに至る。思わず硬直してしまいました。人倫、道徳を超越するのが英雄でしょ。
こうした孫悟空の描き方には、前述した『里見八犬伝』と同じ問題があるように思われます。つまり、究極的な異文化を理解しようとするモチーフの欠如、ひいては他者について深く考える想像力の枯渇ですね。完全無欠の孫悟空が、足手まといの人間玄奘に師事して天竺へ向かうのはなぜなのか。それ自体が菩薩としての修行であり実践でもあるわけですが、それは苦しみと迷いに沈む人間の愚かさ、哀しさ、そして愛おしさについて〈了解〉してゆく旅でもあるのです。その結果、悟空は、真に人間を救済しうる存在へと昇華してゆく。今回の『西遊記』は、悟空の学ぶ人間を「素晴らしいもの」と正当化している時点で、まず仏教的ベクトルから遠ざかってしまっている。さらに日本テレビ版からの伝統か、玄奘と悟空の疑似恋愛、八戒や悟浄との仲間意識に押し込めて矮小化してしまっているのです。残念でなりません。この傾向は、現代日本の心性のあり方とも結びついていると思いますね。
これまでドラマ化された『西遊記』のなかで、原作の味わいがあったのはやはり中国版だけでしたね。もういちど観たい。DVD買おうかなあ。悟空と『封神演義』の神々が戦いを繰り広げるという壮大な『東遊記』も映像化してほしいですね。
結果はどうでしょう。確かに主役の2人は頑張っていましたね(といっても、仲間由紀恵は本格的には出てきていません)。上川隆也は『大地の子』以来のファンですが、いつも同じ演技ながら、役になりきっていて安心して観ていられます。武田鉄也の脇役もいい味が出ています。しかし、織田信長の舘ひろし、松平信康の西田敏行、木下藤吉郎の柄本明、お市の大地真央、ねねの浅野ゆう子は年とりすぎです。おまけに舘ひろしは声に伸びがなく、大音声があげられない。面白いと思った配役でしたが、蓋を開けてみれば花がない。
物語は、司馬遼太郎の原作があるせいで仕方ないのでしょうが、桶狭間の描き方が古すぎました。藤本正行氏の研究以来、桶狭間が今川義元上洛途上の尾張攻略でも、信長による起死回生の奇襲戦でもなく、平凡な隣国武将どうしの国境線拡大争いに過ぎなかったことは明らかであるのに……。脚本にも演出にも斬新な切り口はなく、今後の展開に期待するしかありません。大石静さん、がんばってください。
新番組期待度ナンバーワンというフジテレビの『西遊記』も、やはり満足のいく出来ではありませんでした。
孫悟空に、「キレやすいが孤独でさびしがりやな現代の若者像」を重ね、「仲間との絆を自覚してゆくなかで成長させる」物語にしてしまってもいいのですが、原作ファンとしては不満が募ります。神仙になる修行を積んで雲に乗る技を会得し、冥界を訪問して不老不死を手に入れ、竜宮から最強の武器如意棒を奪い、天上界で大暴れして天帝の大軍にひとりで立ち向かう「斉天大聖」の英雄ぶりは、中国民衆の希望や憧憬、豊かな想像力が構築したもの。日本で作る『西遊記』は、どうもそれを矮小化し、等身大の人間として描いてしまう傾向があります。「斉天大聖」の意味が分かっているのでしょうか。
今作はその典型で、ちっぽけな石牢に閉じ込められて500年も身動きとれず(原作では封印された巨大な岩山の下敷きになっている)、姑息な人間の企みを見破る智慧も洞察力もなく(原作では悟空が最も洞察力に富み、そのギャップのために玄奘や他の弟子たちとの間に誤解が生じる)、牛魔王との戦いでは檻に入って出られない始末。だいたい牛魔王も、かつて悟空に負けて義兄弟の契りを結んだはずなんですよね。ついには、公明正大な〈こころ〉論を語って見栄をきるに至る。思わず硬直してしまいました。人倫、道徳を超越するのが英雄でしょ。
こうした孫悟空の描き方には、前述した『里見八犬伝』と同じ問題があるように思われます。つまり、究極的な異文化を理解しようとするモチーフの欠如、ひいては他者について深く考える想像力の枯渇ですね。完全無欠の孫悟空が、足手まといの人間玄奘に師事して天竺へ向かうのはなぜなのか。それ自体が菩薩としての修行であり実践でもあるわけですが、それは苦しみと迷いに沈む人間の愚かさ、哀しさ、そして愛おしさについて〈了解〉してゆく旅でもあるのです。その結果、悟空は、真に人間を救済しうる存在へと昇華してゆく。今回の『西遊記』は、悟空の学ぶ人間を「素晴らしいもの」と正当化している時点で、まず仏教的ベクトルから遠ざかってしまっている。さらに日本テレビ版からの伝統か、玄奘と悟空の疑似恋愛、八戒や悟浄との仲間意識に押し込めて矮小化してしまっているのです。残念でなりません。この傾向は、現代日本の心性のあり方とも結びついていると思いますね。
これまでドラマ化された『西遊記』のなかで、原作の味わいがあったのはやはり中国版だけでしたね。もういちど観たい。DVD買おうかなあ。悟空と『封神演義』の神々が戦いを繰り広げるという壮大な『東遊記』も映像化してほしいですね。
ところで、北條さんの読み方に首肯しつつも、敢えて別の方向から『西遊記』について論じてみました。