く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<中国・インドのパワー> 「〝粗放な発展〟は世界規模の環境悪化を招く」!

2013年05月16日 | メモ

【京大公開講座で中西寛教授「日本は〝スマートな成長〟の支援を」】

 「アジアにおけるインド・中国のパワー」を統一テーマにした京都大学公開講座(全3回)の最終回が15日開かれ、中西寛・法学研究科教授が「中国、インドの『復活』とその政治的影響―文明的大国と21世紀の国際政治」と題して講演した。その中で中西教授は「中国・インドは世界人口の4割を占める。両国が〝粗放な発展〟をすれば世界規模の環境悪化をもたらし、資源などの国際的な囲い込み政策は紛争の原因ともなる。だが〝スマートな成長〟を実現すれば世界が救われる」などと話した。

 中国は2050年、米国を抜いて世界最大の経済大国になり、インドも米国に迫るとの予想がある。中西教授は「両国の経済成長は西側世界が作った開放的な自由貿易体制を利用して実現された。その根底には大戦争のない平和な国際環境があった」とし、今後の発展はこの国際システムの維持と、秩序の安定という国内的条件の2つにかかっていると指摘する。ただ、その前に〝中進国の罠(わな)〟の問題も立ち塞がる。

 中国・インドは今後、世界秩序に対しどんな役割を果たしていくのか。中西教授は「リーダーか、サポーターか、それともスポイラー(邪魔者・非協力者)、またはチャレンジャー(既存秩序への挑戦者)になるのか。中国の場合、4つの選択肢のうちどれになるのか微妙な立場にある」という。例えば途上国援助。中国の方法は援助・貿易・投資・人の〝四位一体〟といわれ、「従来の西側の援助を混乱させる」との指摘も出始めた。

 気候変動問題も大きな課題。中国は世界最大の二酸化炭素排出国。中国やインドを枠組みの中に取り込むことが不可欠だが、温室効果ガスの抑制基準を巡る議論は遅々として進んでいない。地球全体の食糧・水・資源・エネルギー問題の行方も懸念される。中西教授は「未耕作地の利用や淡水化、環境保全努力などに世界が適切に対処できれば破局を回避できるだろう。中国・インドの今後30~40年の動向が全体を左右する」とみる。

 軍事的台頭も世界秩序に大きな波紋を投げかける。中国は今や米国に次ぐ世界第2位の軍事大国。「海洋強国」を目指し、「屈辱の近代史」に対するコンプレックスもあって急速な兵力近代化を進めてきた。一方、インドは自主独立・非同盟路線を取るが、世界最大の武器輸入国でもある(2位中国、3位パキスタン)。中印間にはカシミールやチベット問題も横たわる。

 中西教授は偉大な民族の復興を標榜する中国について「現代版の中華思想になりかねず、今の対外政策はやや危険。世界の食糧や資源をコントロールし粗放に費やすことは中国にも世界にとっても大きなマイナス」と懸念する。国内では、中国は格差拡大や少数民族問題、国有企業の比重の増大と共産党腐敗問題など、インドもインフラ整備の遅れ、大衆教育の不足、宗教対立とテロ、男女差別、パキスタン関係など多くの問題を抱える。

 中西教授は最後に「古く中国などから学んできた知恵を今度は日本がお返しする時が来た。日本はアジア太平洋秩序の要(かなめ)として、中国・インドの量から質へのスマートな経済成長を支援し、国際秩序のリーダー・サポーターとしての役割を共有していくことが大切」と話した。具体的な支援の例として、中国には環境保全技術や社会保障制度、インドにはインフラ整備や教育などを挙げた。

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<BOOK> 「辞世の歌」(松村雄二著、笠間書院発行)

2013年05月15日 | BOOK

【我死なば焼くな埋めるな野にすてて飢えたる犬の腹をこやせよ】

 2011年春から2年がかりで出版された「コレクション日本歌人選」全60冊のうちの1冊。このコレクションは柿本人麻呂から寺山修司まで代表的歌人の秀歌を集めたもので、大半は1人を1冊で取り上げ40~50首を掲載している。ただ、この「辞世の歌」や「源平の武将歌人」「戦国武将の歌」「アイヌ神謡ユーカラ」などでは1つのテーマごとに多くの歌人の作品を厳選して紹介している。

   

 著者は1943年生まれで現在、国文学研究資料館名誉教授。著書に「百人一首 定家とカルタの文学史」など。「辞世の歌」では室町時代の太田道灌から三島由紀夫まで44人の歌を取り上げ、それぞれについて見開き2ページにわたり解説している。加えて巻末では番外編として90人の辞世を、遺偈(ゆいげ=禅僧の辞世の詩)、和歌、俳句の順に列記した。

 本書で取り上げた人物は千利休、石川五右衛門、貝原益軒、尾形光琳、十返舎一九、乃木希典、山川登美子と多彩。末尾の解説「辞世―言葉の虚と実」によると、辞世という言葉は南北朝の「太平記」(第2巻)の中で日野資朝と俊基が鎌倉へ護送される途中に詠んだ「辞世の頌(じゅ)」が初出例ではないかという。

 『我死なば焼くな埋めるな野にすてて飢えたる犬の腹をこやせよ』。これは浮世絵「東海道五十三次」で有名な歌川広重の遺書冒頭歌。『宗鑑はどちへと人の問ふならばちと用ありてあの世へと云へ』。こちらは室町時代の連歌師山崎宗鑑。「東海道中膝栗毛」の十返舎一九は『この世をばどりゃお暇(いとま)と線香の煙とともにはい左様なら』。いずれも死を前にしながらも軽妙な辞世が笑いさえ誘う。

 著者は辞世を分類すると、①この世は所詮、夢・幻または無であると達観したパターン②先立った同士や戦友に後から逝くと励ます③洒落や諧謔の中で死を何でもないことととらえる④死に対し特別な構えを見せず従容として受け入れる⑤初志を果たし得なかった無念さを込める⑥生前の信念をストレートに表現する――などに分かれるという。これにあてはめると、山崎宗鑑や十返舎一九は③の典型か。

 ②は禅僧や戦国武将に多い。豊臣秀吉の『露と落ち露と消えにしわが身かな浪速の事も夢のまた夢』もその1つ。戦国武将でも関が原で石田三成方につき自決に追い込まれた大谷吉継の『契あらば六つの衢(ちまた)に待てしばしおくれ先立つ違ひありとも』は②のパターンだろう。『待てしばし勲残して逝きし戦友(とも)後な慕ひて我も行きなん』。陸軍大将山下奉文はフィリピンの絞首台で兵士たちにこう呼びかけた。

 『をみなにてまたも来む世ぞ生まれまし花もなつかし月もなつかし』。与謝野晶子と共に「明星」の歌人として活躍した山川登美子は腎臓病を患い若くして薄幸の生涯を閉じた。同じくがんのため夭折した歌人中城ふみ子は『灯を消してしのびやかに隣にくるものを快楽(けらく)の如くに今は狎(な)らしつ』。「隣にくる」死の影に今や「快楽」のように馴れ親しんでいるというところに、なおさら悲痛な思いを禁じえない。

 その他、印象に残ったものを列記――石川五右衛門『石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽きまじ』、大石内蔵助良雄『あらたのし思ひは晴るる身は棄つる浮世の月にかかる雲なし』、林子平『家もなく妻なく子なく版木なく金もなければ死にたくもなし』、仮名垣魯文『快く寝たらそのまま置炬燵いけし炭団(たどん)の灰となるまで』、西郷千重子(会津藩国家老西郷頼母の妻)『なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節もありとこそ聞け』

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<バラ(薔薇)> 〝花の女王〟色・形、変化に富む豪華な花姿から

2013年05月14日 | 花の四季

【次々に新品種、世界でおよそ2万種とも】

 バラほど古くから広く愛され栽培されてきた植物は他にないだろう。美しい花容や多彩な色、芳香から「花の女王」と呼ばれる。北半球の温帯から亜熱帯にかけて百数十種が分布し、日本にはそのうち約15種が自生する。19世紀初頭からこれらの野生種をもとに盛んに品種改良が繰り返されてきた。今では世界におよそ2万品種があるといわれる。(下の写真=ピエール・ドゥ・ロンサール)

 バラの名は棘(とげ)のある草の総称「茨(いばら)」が転訛したもの。漢字「薔薇」の音読みから「そうび」「しょうび」ともいわれる。古くは「うまら」「うはら」とも呼ばれた。日本原産のバラにはノイバラ(野茨)、テリハ(照葉)ノイバラ、タカネ(高嶺)バラ、サンショウ(山椒)バラ、ツクシ(筑紫)イバラ、オオフジ(大富士)イバラ、ヤブ(藪)イバラなどがある。このうちノイバラやテリハノイバラは接ぎ木の台木としてよく使われる。

 「綺麗な花には棘がある」「薔薇に棘あり」。だが、棘のないバラもある。中国原産のモッコウ(木香)バラ。花の色は白と黄の2種類で、江戸時代には渡来し栽培されていた。中国原産では他に四季咲き性のコウシン(庚申)バラやナニワイバラ(難波茨)などがある。ナニワイバラの名は大阪の商人が輸入したことにちなむ。西洋バラは日本のノイバラやテリハノイバラ、中国のコウシンバラ、アジア西部~ヨーロッパ原産のダマスクバラなどをもとに、交配を繰り返す中で生まれた。コウシンバラは「長春花」の別名を持ち、四季咲き性のバラはほぼ全て、このバラの性質を受け継いでいるといわれる。

 

(㊧アンクル・ウォーター、㊨ジャクリーヌ・デュプレ) 

 西洋バラは1867年に発表された新品種「ラ・フランス」を境に、それ以前の品種を「オールドローズ」、それ以降を「モダンローズ」と呼ぶ。オールドローズは花姿が優雅で香りが豊か。対してモダンローズは四季咲き性が多く、色の変化に富む。モダンローズはさらに大輪の「ハイブリッド・ティー系」、中輪の「フロリバンダ系」などに分かれる。「ラ・フランス」はハイブリッド・ティー系の第1号というわけだ。つるバラは「クライミングローズ」と呼ばれ、日本のノイバラなどをもとに作られた。

 ローマ皇帝ネロは暴君として有名だが、バラの愛好家としても知られる。バラに巨万の富を注ぎ、宴の広間にはバラを敷き詰め、天井から花びらが降り注ぐ演出などもした。クレオパトラは毎日バラの香水風呂に入浴し、ナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌもバラをこよなく愛した。日本では政治家の吉田茂や鳩山一郎。吉田は日本バラの会会長を務め、バラづくりを趣味とした。鳩山は「ピース(平和)」という品種が特にお気に入りで、私邸(現鳩山会館)の庭に大量に植えさせた。

 

 

(上段㊧つるピース、㊨つるブルームーン、下段㊧荒城の月、㊨テディ・ベア)

 バラは多くの詩歌にも取り上げられた。ゲーテの詩「野ばら」にはシューベルトやウェルナーら多くの作曲家によってメロディーが付けられた。その数、150曲以上ともいわれる。「ラビアン・ローズ」はフランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフの代表曲。日本では「バラ色の人生」(岩谷時子作詞)の題名で越路吹雪の持ち歌の1つになった。このほかにもバラをテーマにした歌は多い。「百万本のバラ」(加藤登紀子)、「バラが咲いた」(マイク真木)、「君は薔薇より美しい」(布施明)……。

 英国では15世紀、王位継承を巡って「バラ戦争」が繰り広げられた。赤バラをシンボルに掲げるランカスター家と白バラのヨーク家の戦いは、ランカスター家のヘンリー・チュードルがヘンリー7世となり、ヨーク家のエリザベスを妻に迎えることで決着する。以来、バラは王室の紋章となり国花にもなった。国花と定めた国は英国のほかポルトガル、ルーマニア、ブルガリアなどヨーロッパに多いが、イラン、イラク、サウジアラビアなど中東諸国にも目立つ。

 国内では茨城県がその地名にちなんで約50年前にバラを県花に選んだ。市の花になっている自治体は大阪府の茨木、豊中、寝屋川、岸和田、松原の各市、横浜市、広島県福山市、愛知県西尾市、静岡県島田、富士両市、千葉県市川市、群馬県前橋市など。バラの盛期を迎え、これから各地でバラまつりが開かれる。「バラの香か今行き過ぎし人の香か」(星野立子)。

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<帝塚山大付属博物館>「瓦の来た道」展…発祥の地中国の瓦の歴史をたどる24点

2013年05月13日 | 考古・歴史

【「本邦初公開」! 約3000年前の西周時代の瓦も】

 日本最初の瓦葺き建物は6世紀後半に造営された飛鳥寺(奈良県明日香村)。588年に百済から招かれた瓦博士4人が瓦づくりに携わった。では瓦はそもそもいつごろ誕生したのだろうか。帝塚山大学付属博物館(奈良市)でいま「瓦の来た道―中国瓦の歴史」展(6月1日まで)が開かれている。同大学は国内有数の古代瓦の収集・研究拠点。今回の特別展ではアジアの瓦発祥の地、中国の各時代を代表する特徴的な瓦24点を紹介している。

 

 日本の瓦の歴史は1400年余だが、中国では約3000年前の西周時代(紀元前1023年頃~同770年)に瓦の本格的な使用が始まったといわれる。展示品の中にその西周時代の瓦の破片が4点。企画した清水昭博・人文学部准教授(考古学研究所長・付属博物館長)によると「多分本邦初公開」。その1つの平瓦の凸面(外側)には瓦を成形するときに付いた縄目の跡がくっきり残る(上の写真㊧)。瓦が屋根からずれ落ちないように、凹面(内側)に固定のための突起が付いているのもこの時代の特徴という(写真㊨)。

 

 その後、春秋時代に入ると瓦は各地に広がり、戦国時代には樹木文や双獣文など各国で個性的な文様の瓦が作られた(上の写真㊧=樹木双獣文半瓦当)。秦、漢の時代には丸瓦の先端に円形の粘土板を貼り付けた軒丸瓦が多用されるようになる。南北朝時代(紀元439~589)には日本の古代瓦に一般的な蓮華文の瓦が普及し、素弁形式の南朝の瓦が朝鮮半島を通して飛鳥時代、日本に伝わった。この時代には獣面文も採用されたが、南朝のその文様は舌を出すなど表情がやや滑稽に見えるものも目立つ(写真㊨=獣面文軒丸瓦)

  

 唐の時代は複弁蓮華文が主流になるが、唐の滅亡とともに蓮華文は衰退し、宋に入ると代わって鬼面や龍、牡丹などの文様が流行した。北方民族が建国した遼、金、西夏、元の文様は鬼面文が中心。遼の時代には「滴水瓦」と呼ぶ中央下部が尖った軒平瓦も出現した。滴水瓦は日本では安土桃山時代、城郭を中心に採用された。明、清の時代になると、龍など動物文が主流となり、黄釉瓦や緑釉瓦、白磁製の瓦など色鮮やかな瓦が登場した(写真㊧=黄釉龍文軒丸瓦、㊨=緑釉宝相華唐草文軒平瓦)。「黄色は皇帝の色で、5本指の龍は皇帝の象徴。その瓦は宮廷内の皇帝の存在をアピールするものでもあった」(清水准教授)。

 中国で本格的に瓦が作られ始め、その技術が日本に伝わるまでには1600年の時差がある。清水准教授は「長い年月をかけ改良された瓦の技術が渡ってきた。だが、その技術の全てが日本にやってきたわけではないし、受け入れる側にも選択の余地もあった。そこには日本と中国・朝鮮半島、中国と朝鮮半島の政治的、社会的関係が介在していた」と話す。この中国編に続いて朝鮮半島編、日本編も構想中で、3回シリーズとして瓦がたどった悠久の道を紹介していきたいという。

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<狩野山楽・山雪展>「京狩野」初代~2代目の大回顧展も今日で見納め

2013年05月12日 | 美術

【米国とアイルランドからの里帰り4点を含む83点】

 京都国立博物館で3月末から開かれていた「狩野山楽・山雪展」も今日12日が最終日。桃山から江戸時代への波乱の過渡期に、狩野永徳の画風を受け継いだ「京狩野」初代山楽(1559~1635)と、山楽の婿養子で2代目の山雪(1590~1651)。展示作は海外からの里帰り4点、初公開6点を含む全83点(うち重要文化財13点)で、2人の生涯と画業をたどる初の大回顧展といわれた展覧会もこれで見納めとなる。

 

 徳川幕府の成立に伴い狩野本家筋は江戸に拠点を移し「江戸狩野」として幕府の御用絵師となる。一方、永徳の門人筋は京にとどまり「京狩野」に。初代山楽は永徳没後、豊臣家の画事を引き受けたことが災いし、豊臣残党狩りの標的となった。だが、非凡な画才が認められ徳川2代将軍秀忠らの尽力で命をつないだ。

 「江戸狩野」の瀟洒淡白な画風に対し、「京狩野」は濃厚で力強い画風が特徴。山楽の代表作の1つ「龍虎図屏風」(妙心寺蔵、上の写真)も金地に、口を大きく開いて威嚇する虎がリアルに描かれている。そのうなり声が画面から響いてくるようだ。雄の左には豹。当時、虎のメスは豹と思われていた。

 山楽の「聖徳太子絵伝」(四天王寺蔵)は秀吉の命で制作されたが大坂冬の陣で焼失、徳川秀忠による再建に伴い再び描いたが、今度は江戸後期の大火に遭う。幸い焼失は免れたが、水でかすんだ痕跡などが痛々しい。「朝顔図襖」と「梅花遊禽襖」(ともに天球院蔵)は山楽73歳、山雪42歳の時の師弟共作。「朝顔図襖」(下の写真㊤)は大きな襖4面につるを伸ばした白や青の朝顔が涼やかに描かれている。

 

 山雪の里帰り4作品の1つ「老梅図襖」(米メトロポリタン美術館蔵、上の写真㊦)は太く黒い幹がまるで龍のようにうねる。明治初めまで京都・妙心寺塔頭、天祥院の襖絵だったもので、初里帰りの「群仙図襖」(米ミネアポリス美術館蔵)と表裏の画面。海を渡り離れ離れになっていた襖絵が50年ぶりに故郷京都で対面した。

 アイルランドから里帰りした「長恨歌図巻」(チェスター・ビーティー・ライブラリィ蔵)は中国・白楽天の長編叙事詩「長恨歌」を基に玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋物語を色鮮やかに絵画化した。この巻物、どんな経緯で遠くアイルランドまで行ったのだろうか。その向かいには宮廷で横笛を手にした玄宗皇帝と舞う楊貴妃を描いた山雪の「明星貴妃図屏風」(京都国立博物館蔵)も展示されていた。

   

 山雪が描いた龍・虎は山楽のそれに比べ表情が柔らかい。山楽の「龍虎図屏風」の龍図(写真㊧部分)は目を見開いてにらみつけ迫力たっぷりだが、山雪の「龍虎図」(佐賀県立博物館蔵、写真㊨部分)は上目遣いでどこか気が弱そうにも見える。山雪の作品にはこのほかにも温かくユーモラスなものも。美術展初出品の「武家相撲絵巻」(相撲博物館蔵)からは力士の躍動感が伝わってくる。「松梟竹鶏図」(根津美術館蔵)や「猿猴図」(東京国立博物館蔵)はフクロウや手長猿が愛くるしい表情で描かれている。

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<バリの観光文化> バロンダンス「観光客との関わりの中で生み出された!」

2013年05月11日 | メモ

【大阪自由大学・民博連続講座で吉田ゆか子研究員】

 「キャンパスポート大阪」(大阪駅前第2ビル内)で10日、大阪自由大学の講座が開かれ、国立民族学博物館の吉田ゆか子研究員(写真)が「さかさまからみる観光」と題して講演した。「〝斜界学〟のススメ」を統一テーマとする民博連続講座(全5回)の第2弾。吉田研究員はインドネシア・バリ島の宗教儀礼や芸能を取り上げ、大量に押し寄せる観光客が現地の文化や社会にどのような影響を与えているのか、観光客との出会いを現地の人々がどうとらえているのかを紹介した。

  

 冒頭、今バリで流行しているという男性歌手のポップスを映像で流した。タイトルは「つり銭がもらえない」。観光ガイドのつらさとともに、現地の人から見た観光客の印象が盛り込まれている。「日本人はアートショップに連れて行っても買い物せずにすぐ出てくる。中国人は大声でしゃべってうるさい……」。日本人はお辞儀ばかりするというくだりもあるという。観光客も現地の人たちからじっと観察されているというわけだ。

 バリ州の人口は約325万人。そこに年間283万人(2011年)もの観光客がやって来る。吉田研究員は「バリの文化は観光客との接触の中で生み出され、練り上げられてきた側面もある」と指摘する。例えば仮面舞踊劇の「トペン」。主に祭礼で演じられる奉納芸だが、観光客を模した道化役のジョークは人気が高い。道化はガムランの伴奏者のバチを取り上げては「いくら?」、ダンサーの冠を指差しては「それも買うよ」。何でも買おうとする西洋の拝金主義を揶揄する。

 バリ観光の見どころは「文化的・芸術的・宗教的な人々の営み」だが、問題は何をどこまで見せるか、商業化はどこまで許されるのか。そこで舞踊を神聖なワリ、儀礼のブバリ、世俗のバリ・バリハンの3つに大別した。ワリとブバリは儀礼以外での上演を禁じ、バリ・バリハンは観光客向けの上演もOKとした。

 観光客との関わりの中で生み出されたものを〝観光文化〟と呼ぶが、吉田研究員はその代表例としてバロンダンスを挙げる。善の象徴・聖獣バロンと悪の象徴・魔女ランダの果てしない戦いを描く。これを外国人にも分かりやすいようにアレンジし上演時間も短くした。その結果、上演演目として定着し、毎日6~8カ所で午前中を中心に公演が行われるようになった。国内観光客の増加にもつながっている。ただ「乱立気味で観光客の奪い合いになっている」という。

 インドネシアは世界有数のイスラム大国。その中にあってバリ州は人口の約85%をヒンドゥー教徒が占める。2002年と05年にはイスラム過激派の犯行とみられる爆弾テロ事件が相次ぎ、一時観光客数も停滞した。そのため観光業への過度な依存を問題視する声もある。吉田研究員はこのほかバリ観光の抱える問題点として環境汚染、島外からの移民労働者の増加、農村部の過疎化――などを挙げる。そんな中、外からの悪影響を排除し、バリの伝統保持を訴える「アジェッグ・バリ運動」も起きている。

 バリは政治・宗教面で少数派であるとともに、経済面でも首都ジャカルタへの依存度が高い。観光収入の大半も島外に流出しているという。吉田研究員は「様々な課題に直面しているが、バリの人々にとって文化は〝残された領域〟。宗教の合理化、生活の近代化は今後も進むが、一方で観光収入は儀礼、それに付随する芸能の活性化につながっている」と結んだ。

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<コデマリ(小手鞠)> バラ科シモツケ属 「スズカケ」「団子花」の異名も

2013年05月10日 | 花の四季

【中国から渡来、「オオデマリ」は類縁じゃない!】

 細くしなる枝に小さな花の塊をたくさん付けるコデマリ。「小手鞠」の名はその花姿による。漢字では「小粉団」とも書く。古くは「スズカケ(鈴掛)」とも呼ばれた。小さな鈴を枝に掛けているように見えるからだろうか。「ダンゴバナ(団子花)」の異名もある。清楚で品もあることから、古くから花材や茶花として用いられてきた。

 原産地は中国中部だが、日本にやって来た時期ははっきりしない。ただ、1681年に出版された我が国最初の園芸書「花壇綱目」(水野元勝著)に「小手鞠」として、少し前の俳諧辞典「毛吹草(けふきぐさ)」(松江重頼編)には「すずかけの花」として紹介されている。さらに1713年出版の「俳諧・滑稽雑談」には「和名鈴掛、また小手鞠とも云う」と出てくる。このため遅くとも江戸時代初期までに渡来していたのは間違いない。

 バラ科シモツケ属。4~5月、前年伸びた枝の上に白い花15~20輪が集まって直径3cmほどの花を付ける。同じ仲間にシモツケやユキヤナギ、イワガサ、シジミバナなど。花が大きくてよく似たものにオオデマリ(大手鞠)があるが、こちらはスイカズラ科で、コデマリとは全く別の植物。オオデマリは日本の中部以西から台湾、中国にかけて自生する。別称「テマリバナ」。

 「小でまりの花に風いで来りけり」。俳人久保田万太郎(1889~1963年)は生涯に8100句余を作ったといわれるが、これが最後の句になった。63年5月6日、梅原龍三郎画伯邸で会食中、食べたものが喉に詰まり誤嚥による窒息で不慮の死を遂げた。享年73。没後「こでまり抄」のタイトルで久保田万太郎句集が出版された。

  

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<インドのパワーの源> 「〝多様性のつながり〟こそ活況の基礎」

2013年05月09日 | メモ

【京大公開講座で田辺明生教授】

 「アジアにおけるインド・中国のパワー」をテーマにした京都大学の春季公開講座(全3回)の第2回講義が8日、百周年時計台記念館で行われ、アジア・アフリカ地域研究研究科の田辺明生教授が「現代インドのダイナミズム―多様性社会の挑戦」と題し講演した。田辺氏は「〝多様性のつながり〟こそがインド活況の基礎。多様な社会集団がそれぞれの固有性を認め合うことが、民主化の進展と市場経済の拡大につながっている」と話し、「グローバル世界はこのインドの経験から学ぶことも多いのではないか」と指摘した。

 インドは1991年の経済自由化以降、年平均6%を超える発展を遂げてきた。この間、多党化と分権化が進み、低カースト民や貧困層、女性などが積極的に政治に関与。地方自治制度の改革などで指定カーストには〝留保枠〟として人口比に応じて、女性については3分の1の議席と役職が与えられるようになった。インドの経済規模は2060年に米国を抜いて世界第2位になる、とのOECD(経済協力開発機構)の将来推計もある。

 インド経済といえばIT産業を連想しがち。だが、大きく伸びて経済を支えているのは「大資本やエリートによる輸出中心の分野より、むしろ内需の拡大に伴う物資の流通や小売り、諸サービスを提供する業種」。インド社会の大きな特徴は多言語(260)・多宗教社会であること。公用語だけでも22に上る。「多様な社会集団が教育・就業・消費などを通じて市場経済に積極的に参加するようになって経済が活性化してきた」。

 カースト制度については「農民以外の様々なカーストは共同体に支えられながら特殊な知識や技能の継承と発展に従事し、インド社会に特徴的な文化的多様性が保持・発展されてきた側面もある」と指摘する。格差や不平等の解消は大きな課題だが、「克服への試みとして民衆の社会参加が進み、それが変化を促す大きな活力になりつつある」。田辺氏は1990年代以前を〝国家エリート主導型開発体制〟、現在進行中の体制を多元的社会集団による〝開発民主制〟と呼ぶ。

 インドにとって「教育水準の向上」は今後の大きな課題。識字率は着実に上がってきたというものの2011年現在で74.4%。なお人口の4分の1以上が非識字者というわけだ。大学就学率は18%足らず。教育程度にも依然大きな格差がある。その結果、所得水準にも大きな格差が生まれている。田辺氏は「教育とともに、エネルギーや交通などのインフラ整備も重要」と課題を挙げる。

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<アンビリバボー>「ギョ! 何これ?」…ギンリョウソウ(銀竜草)の花だった

2013年05月08日 | アンビリバボー

【奈良県馬見丘陵公園の雑木林の中にひっそりと】

 7日午後、奈良県馬見丘陵公園(広陵町・河合町)内を歩いていると、雑木林の中に透き通るような白い小さなものが林立していた。高さ7~8cmのものが10本ほど。近づいて見ると、その形はタツノオトシゴのようにもヤギかウマの顔のようにも見えた。目にするのは初めて。そばに「ギンリョウソウ」と書いた小さな立て札があった。

 

 この植物が生えていたのは「アジサイの小径」内。「毒蛇に注意」と書いた立て看板を横目に小径を進むと、奥に今が盛りと薄紫色の花をいっぱい付けたツツジが見えた。そのツツジに向かって坂道を少し登っていくと、小径から少し入ったツツジの手前の枯葉の間から顔を出していた。雌しべだろうか、筒状の先端から丸く青っぽいものが少し顔を出していた。立て札は誤って踏んだり抜き取ったりしないように、注意喚起の意味も込めて急遽設けたのだろう。

  

 帰宅後、早速調べた。漢字では「銀竜草」。薄暗い中での真っ白な立ち姿から「ユウレイタケ(幽霊茸)」の異名も。ギンリョウソウは「腐生植物」の代表格の1つという。植物に一般的な光合成をする能力がない代わりに、必要な養分は地中の菌類からもらう。全体が真っ白なのは葉緑体を持たないためだった。採取して植木鉢で栽培しようとしても、その特殊な生態からまず不可能という。地上に顔を出すのは花が咲く時だけ。その奇妙で神秘的な姿を見ることができてラッキーだった。

 

 公園では桜もハナミズキも終わり、バラやアジサイ、花ショウブなどはまだこれから。園内は〝端境期〟のような状態だが、通称「なんじゃもんじゃ」と呼ばれるヒトツバタゴはちょうど満開だった。モクセイ科の落葉高木で絶滅危惧種に指定されている。花びらはユニークなプロペラ形。遠くから見ると木全体が純白で、まるで雪が降り積もったようだった。(「ヒトツバタゴ」は昨年5月8日付のブログでも取り上げています)

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<大和文華館> 「人物画名品展―肖像画、風俗画、美人画」

2013年05月07日 | 美術

【国宝「婦女遊楽図屏風」、目を引く豪華な衣装】

 大和文華館(奈良市)で開催中の「人物画名品展―肖像画、風俗画、美人画」(12日まで)で、久しぶりに公開された国宝『婦女遊楽図屏風』が改めて注目を集めている。遊女や童女をほぼ等身大で描いた江戸前期の作品だが、豪華な衣装やその斬新な文様がひときわ目を引く。当時の風俗を知るうえでも貴重な一点。この企画展では鎌倉時代から近代に至る人物を描いた作品47点が展示されているが、『病草紙断簡』など笑いを誘うユーモラスな作品も含まれている。

  

 『婦女遊楽図屏風』は九州・平戸藩の松浦家に伝えられたことから通称「松浦屏風」と呼ばれる。江戸時代の風俗画としては彦根藩の井伊家に伝えられた国宝「彦根屏風」とともに有名な作品だ。右隻に10人、左隻(上の写真)に8人の計18人。ふくよかな丸顔が多い。三味線を弾いたり、カルタ遊びに興じたり、黒髪を梳いたり……。遊女たちのごく日常の風景がそのまま描かれている。

 この作品は国宝に指定されているものの、作者も制作年代もはっきりしない。江戸前期の宝永年間のほか桃山時代の慶長年間という説もある。衣装は小紋のほか菊や扇、ウサギなど多彩な柄が刺繍や金箔で施されており、まるで流行衣装のファッションショー。このため小袖模様を描く画工職の手による作品ではないかと一時いわれた。だが、小袖や打掛の描写に誤りがあるとして、この説は今では否定されている。

 隣に一回り小さい作品『輪舞図屏風』(江戸前期)があった。その構図の大胆なこと。金地に大きな真ん丸。その輪は60人余の婦女子が手をつないでできている。色とりどりの着物に細帯姿で、その多くは腰の辺りまで伸びた垂れ髪。よく見ると輪の内側、上の方にしゃがみこんだ女の子が1人いる。「♪かーごめ、かごめ」と遊んでいるのだろうか。

 

 入り口正面に飾られた平安後期の『病草紙断簡』(写真㊧)は鍼(はり)治療の様子を描いたもの。太った患者が枕を抱えて痛みをこらえ、治療をする鍼師の向かいで僧が世話を焼き、後方からは童女が覗き込む。4者4様の表情が笑いを誘う。『僧正偏昭落馬図』(写真㊨=部分)は江戸中期に活躍した英(はなぶさ)一蝶の作品。偏昭は六歌仙の1人で、「古今和歌集」に収められた偏昭自身の和歌「名にめでて折れるばかりぞ女郎花 われ落ちにきと人に語るな」を絵画化した。オミナエシに見とれて落馬し、前のめりに倒れこんだ偏昭の姿や表情におかしみが漂う。

 『燕子花図下絵屏風』(1934年)は京舞妓を得意とした土田麦僊の作品。カキツバタに見入る2人の舞妓が描かれている。『燕子花図』は帝展出品作だが、惜しくも空襲で焼失し、この下絵しか残っていないという。このほか室町時代の『一休宗純像』や『雪舟像』、桃山時代の『婦人像』(重要文化財)や『伝淀殿像』、江戸中期の尾形光琳作『中村内蔵助像』(重要文化財)、明治~大正の富岡鉄斎作『渡辺崋山獄中図』なども展示されている。

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<松伯美術館> 特別展「松園を魅了した麗しき女性美~装いへのこだわり」

2013年05月06日 | 美術

【作品に描かれた髷のカツラや化粧道具なども展示】

 凛とした気品にあふれる美人画を描き続け、女性初の文化勲章を受章した上村松園(1875~1949年)。松園は驚くほどきめ細やかに着物や帯、髷(まげ)、簪(かんざし)などを描いた。松伯美術館(奈良市)で開催中の特別展「松園を魅了した麗しき女性美~装いへのこだわり」(12日まで)は主に髷に焦点を当て、作品に描かれた髪型のカツラや化粧道具なども展示している。

  

 松園は様々な髪型の女性を描いた。少女を表す「桃割」、未婚女性の「娘島田」、既婚の「丸髷」……。二曲一隻の屏風『娘』(上の写真)は左の女性が江戸中後期の「天神髷」、右は島田髷の1種「結綿(ゆいわた)」で、いずれも20歳ぐらいまでの女性の髪型という。そばには「結綿」のカツラの実物。このカツラは田村資料館(京都府宇治田原町)の所蔵品で、読書中の姉妹3人を描いた『美人観本図』、親子2人がホタル狩りをする『新蛍』などの前にも、作品に描かれた髪型と同じカツラが展示されている。

 屏風『人形つかい』(下の写真=一部)は少し開いた襖の間から若い女性が覗き込む構図。この髪型は江戸後期に流行した「つぶし島田」で、結い上げた黒髪に赤い水引が映える。『化粧』は風呂上がりの女性が鏡の前で化粧水を手に取る瞬間、『化粧の図』は首筋に塗った白粉の仕上がり具合を合わせ鏡で確認する様が描かれている。作品のそばにはお歯黒の道具「耳盥(みみだらい)」や鏡箱、化粧道具なども展示されている。これらは京都府立総合資料館蔵。

  

 下絵20点も展示中。その中に母親が亡くなった年に描いた『青眉』の下絵があった。母仲子は女手一つで松園ら娘2人を育て上げた。『青眉』は母を追慕した作品といわれる。青眉は子どもができ母になった印として眉を剃り落とした昔の風習。松園は著書「青眉抄」にこう記した。「私は青眉を想うたびに母の眉をおもい出す。母の眉は人一倍あおあおとし瑞々しかった。……私が描いた絵の青眉の女の眉は全部これ母の青眉であると言ってよい。青眉の中には私の美しい夢が宿っている」。

 松園は美人についてもこう書き残している。「桃山(時代)には桃山の特長があり、元禄には元禄の美しさがあると思います。強いて言えば現代の風俗が一番芸術味に乏しいと思います。尠(すくな)くも私は現代のハイカラ姿が一番嫌いです」(「青眉抄その後」)。では、松園の目になぜ非芸術的に見えたのだろうか。「それは女自身が自分の性質なり姿顔形なりに、しっくりふさわしいものがどれだというしっかりした考えがなくて、ただ猫の目のように遷(うつ)り変わる流行ばかりを追うからだと思います」。松園没後60年余。松園が現代女性の服装や髪の形・色などを見たら、びっくり仰天して絶句するかもしれない。 

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<バレー黒鷲旗>女子準決勝の対戦はNEC―JT、久光製薬―東レに

2013年05月05日 | スポーツ

【日立・上尾プレミア上位勢相手に善戦、岡山4強ならず】

 黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会は4日準々決勝が行われ、女子は久光製薬・東レ・NEC・JTが5日の準決勝進出を決めた。準々決勝ではNECと東レがチャレンジリーグ勢の日立(来季プレミアリーグ昇格)と上尾に手こずる一方で、久光の充実ぶりが目を引いた。プレミアリーグ3位だった岡山は大会3連覇を目指すJTの勢いに圧倒されストレート負け。準決勝の対戦はNEC―JT、久光―東レ。JTがNECを破って3連覇への望みをつなぐのか、久光製薬が全日本選手権、プレミアリーグ制覇に続いて3冠へさらに前進するのか。

【NEC―日立】 日立が序盤、準々決勝に勝ち上がってきた勢いをそのまま見せた。第1セットが始まるやドリス、江畑幸子の活躍で連続9得点。終盤3点差まで追い上げられたが、そのまま逃げ切り25―20でセットを先取した。第2セット以降はNECに先行される展開が続き21―25、21―25、19―25で3セットを連取された。プレミア上位チームの壁の厚さとともに手ごたえも感じたのではないだろうか。中でも江畑は第3セットにバックアタックで3連続得点するなど活躍が光った。NECはイエリズや内田暁子、大野果奈らの強烈スパイクなどで第2セット以降、1枚上の総合力を見せつけた。今大会限りで引退する杉山祥子(写真㊨)も要所で移動攻撃などを決めた。

 

【JT―岡山】 岡山はプレミア・レギュラーラウンドでJTに4戦3勝1敗と分がいい。だが、ふたを開けると戦前の予想は開始早々に裏切られた。スパイクミスなどで連続6点を先取されると、その後もサーブレシーブの乱れなどで第1セットを15―25で落とした。JTは吉澤智恵や大友愛(写真㊧)を中心に強烈なスパイクやフェイント、ブロックなどで岡山を翻弄、レシーブも粘り強かった。岡山は福田舞の活躍などで第2セットには一時2点差をあけ、第3セットでも4点差に広げる場面があったが、いずれもその直後に連続得点を許し21―25、19―25でストレートの完敗。出身者が多い大阪国際滝井高校の生徒たちの必死の応援も届かなかった(写真㊨=試合後、応援団に挨拶する岡山のメンバー)。JTの3連覇に挑む勝利への執念が岡山を上回った。今季限りで引退する大友愛に有終の美を飾らせたいとの思いもにじむ試合だった。

   

【久光製薬―パイオニア】 久光のベテラン勢と若い力が躍動しパイオニアを圧倒した。開始早々、平井香菜子や新鍋理沙、プレミアリーグMVPの長岡望悠らが次々と豪快なスパイクを決める。岩坂名奈らの連続3ブロックポイントなどもあって第1セットを25―16で取ると、第2セットは25―18、第3セットは25―15でストレート勝ち。最後に強烈スパイクを決めたのは石田瑞穂だった。攻撃陣をうまくコントロールしたセッター古藤千鶴の活躍も光った。パイオニアは久光の速攻やフェイントなど多彩な攻撃に翻弄される一方、スパイクはことごとく久光の分厚いブロック陣に阻まれた。ブロックを避けようとしてスパイクが長すぎアウトになったり、逆に短くてネットにかかったりする場面も目立った。(写真㊨は勝利を喜ぶ久光の選手たち)

 

【東レ―上尾】 セットカウント3―1で東レが逆転勝ちしたが、手に汗握る見ごたえのある熱戦だった。第1セット、東レが先行するたびに上尾が追いつく。終盤、逆に上尾が2点差をつけて逆転すると東レはタイム。その後ジュースとなり上尾が28―26で先にセットを奪った。主将庄司夕起や吉村幸穂がスパイクやブロックを決め、粘り強く拾いまくるつなぎのバレーがセット先取につながった。2セット目も中盤まで点の取り合い。だが、東レは迫田さおりや宮田由佳里の速攻やバックアタックなどで引き離し25―23。第3セットに入ると荒木絵里香の移動攻撃なども決まり終盤に連続得点して25―20。第4セットは東レが地力を発揮し、小平花織のスパイクなども決まって25―16で3セット連取した。

 

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<平城京天平祭> 華麗な奈良朝絵巻 歴代天皇や貴族の大行列!

2013年05月04日 | 祭り

【東院庭園では天平装束で優雅な宴を再現】

 陽春の3日、奈良市で「平城京天平祭」(5日まで)が開幕した。この日の最大の見どころは天平衣装をまとった約450人の大行列。歴代の天皇や貴族、女官たちが約1時間かけて華やかに練り歩き、第一次大極殿前の広場では「平城遷都之詔」の儀式が行われた。往時の庭園を復元した東院庭園では「よみがえる古都の宴」と称して天皇・皇后らの優雅な宴の様子を再現していた。

 

 天平行列は午前11時に朝堂院跡を出発した。伎楽隊や文武百官に続いて、元明天皇が侍従や命婦(身分の高い女性)らを従えて進む(上の写真)。色とりどりの女性衣装は大仏開眼会の資料を参考にしたもの。この後、元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の各天皇の列が続く。聖武天皇(下の写真㊧)の直後には唯一天皇以外の光明皇后(下の写真㊨)グループの列が続いた。改めて奈良時代には女帝が多かったこと(7代中3人4代)や皇后が活躍したことが思い起こされる。

 

 

 正午すぎ、全員が大極殿前に整列した。その光景はまさに壮観そのもの。1300年前がだぶって見えるようだった。大極殿の大きさにも改めて驚かされた。大極殿上の元明天皇らの姿が遠く小さくかすんで見える。天皇に代わって少納言から遷都の詔が読み上げられた。

 「方(まさ)に今、平城の地、四禽図(しきんと)に叶い、三山鎮を作(な)す。亀筮(きぜい)並びに従う。宣(よろ)しく都邑(とゆう)を建つべし」(平城は東西南北の守護神に守られ、三方山々に囲まれた縁起の良い土地である。さあ共にいい都づくりをしよう)。続いて参列者全員で3回「宣しく都邑を建つべし」と唱和、祝いの伎楽が演奏された。

 

 平城宮の東にある東院庭園では往時の宴の様子が再現された。天皇・皇后が池に張り出した舞台で繰り広げられる歌や琵琶の演奏を楽しんだ。記録によると称徳天皇はこの近くに「東院玉殿」を建て宴会や儀式を催したという。この庭園は1967年に遺跡が見つかり1990年代後半に復元したもの。貴重な古代庭園として2010年には国の特別名勝に指定されている。

 

 会場の一角「食べる、賑わう、楽しむエリア」東市・西市には約50店が出店、終日多くの市民や観光客でごった返していた。4日には諏訪流の鷹匠による鷹狩りの実演や、徳島阿波踊り、韓国ナムサダン伝統舞踊なども参加する「ゆかり風流行列」、5日には子どもたちの稚児行列「天平こども行列」などが行われる。

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<フジ(藤)> 高貴な色と香 日本特産ノダフジとヤマフジの2系統

2013年05月03日 | 花の四季

【旺盛な生命力、推定樹齢1200年ものも】

 生命力が旺盛なフジは長寿植物として知られる。埼玉県春日部市の「牛島の藤」は弘法大師お手植えともいわれ、樹齢は推定1200年。藤棚の面積は約700㎡にも及び、フジでは唯一「特別天然記念物」に指定されている。この他にも樹齢数百年の長寿フジが各地に。宮城県川崎町の「滝前不動の藤」、静岡県磐田市の「熊野の長藤」、福岡県八女市の「黒木の藤」……。これらも国の「天然記念物」だ。

 国内に自生するのはノダフジ系とヤマフジ系の2系統。ノダフジは古くからフジの名所だった大阪市福島区野田の地名に由来する。花穂(かすい)が長く、基部から先端にかけて順に咲く。長さが1~2mにもなる「九尺」という品種もある。一方、ヤマフジは花穂が短く、ほぼ同時に開花する。ツルの巻き方も対象的。ノダフジが右巻き(時計回り)に木に絡まって登るのに対しヤマフジは左巻き。国内産フジの近縁種に中国原産のシナフジや北米のアメリカフジなど。中国系の「麝香藤」は香りが一段とかぐわしい。

 フジは古くから愛され庭木として植えられた。万葉集では27種が詠まれている。フジの花が波打つように美しく揺れ動く様が「藤波」と表現されている。藤原氏ゆかりの奈良の興福寺と春日大社の紋は藤紋。京都の西本願寺、東本願寺も藤が寺紋になっている。家紋としても人気が高い。藤原氏傍流の佐藤・武藤・近藤・後藤・斎藤・加藤氏など「藤」姓が藤紋を好んで用いた。そのバリエーションは「下り藤」「上り藤」「藤巴」などを中心に約150種にも上る。清少納言も枕草子で「藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし」とフジを称えた。

   

 

(上段左上から時計回りに「九尺①」「岡山一歳②」「麝香藤③」「八重黒龍」①)=品種名の後の数字は①ノダフジ系②ヤマフジ系③中国系

 フジの蔓(つる)といえば、林業関係者にとっては杉や桧に巻き付いて絞め殺すやっかいもの。「山のギャング」と恐れられている。だが、その蔓も古く縄文時代から編んでかごなどに加工され、繊維から糸を紡ぎ織って布にもなった。京都・丹後地方では「丹後藤織り保存会」を中心に「藤布(ふじふ)」づくりが行われている。蔓が見事に姿を変え帯や財布、ハンドバッグなどに。その伝統技術が認められ、2010年には国の重要無形民俗文化財に指定された。

 フジの名所の多くがこのゴールデンウイークを挟んでフジまつりを開いている。静岡県磐田市「熊野(ゆや)の長藤まつり」(5日まで)、岡山県倉敷市「阿知の藤まつり」(同)、東京・亀戸天神(6日まで)、愛知県江南市の曼荼羅寺公園(同)、福岡県八女市「大藤祭り」(同)、群馬県藤岡市・ふじの咲く丘(12日まで)……。約100種と「種類では日本一」という岡山県和気町の「清麻呂の里藤まつり」もちょうど今開催中。京都府の天然記念物に指定されている福知山市の「才ノ神の藤まつり」は12日に開かれる。「藤の花今をさかりと咲きつれど 船いそがれて見返りもせず」(坂本龍馬)※一説には土佐藩出身の志士・吉村虎太郎作とも。

  

 

 

(上段左上から時計回りに「昭和紅②」「黒龍藤①」「緋ちりめん②」「春日砂ずり①」「新紅①」「白甲比丹=しろかぴたん②」)     

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<奈良・氷室神社> 厳かに「献氷祭」 今夏の順調な天候と氷業界の隆盛を祈願!

2013年05月02日 | 祭り

【古式ゆかしく優美な舞楽を奉納】

 奈良市の氷室神社で1日、恒例の「献氷祭」が行われた。奈良時代、氷室に貯蔵した氷を朝廷に献上する「献氷の勅祭」が行われていたことに由来する。平安遷都後はこの祭りも廃されていたが、100年余り前の1912年(明治45年)に復興した。全国から氷の製造・販売業者らが集まって今年の夏の順調な天候と商売繁盛を祈願し、雅な舞楽が奉納された。

  

 式典は午前11時に始まった。参道両側には氷柱、神前には昇り龍の大きな彫刻。2011年まではタイやコイを封じ込めた氷柱が奉納されていたが、職人の引退で昨年から龍の彫刻に替わったという。その龍の出来映えも見事だが、〝花氷〟が見られないのは少し残念な気もする。舞楽殿(拝殿)の脇には冷凍氷業界物故者を慰霊する祭壇が設けられ、海の幸や山の幸が供えられていた。

 

 雅楽が奏される中、本殿の扉が開かれ神饌をお供えする献餞や献氷の儀、宮司の祝詞奏上などが粛々と行われた。続いて勇壮な神主舞の奉納や物故者慰霊祭、功労者への感謝状贈呈。この後、大宮守人宮司は「このお祭りは氷の出来具合でその年の天候を占うと同時に国家の安泰を願うために始まった」と、挨拶の中で祭りの起こりなどについて話されていた。

 午後2時からは南都晃耀会と南都流舞楽伝承会の会員によって舞楽が奉納された。最初はお祓いの舞「振鉾(えんぶ)」。色鮮やかな装束を身に着けた舞人が鉾を打ち振りながら舞台の邪気を払う。続いて4人舞の「賀殿(かてん)」と「登天楽」、女性2人による童舞(わらわまい)「抜頭(ばとう)」、1人による「納曽利(なそり)」が次々と披露された。

 

 このうち「賀殿」は遣唐使が平安時代に琵琶の楽譜によって習い伝えた曲に舞の振り付けが行われたという。テンポが速くリズミカルな演目で、4人が舞台狭しと舞った。「抜頭」は天平年間に林邑国(今のベトナム方面)の僧によって伝えられ、752年の東大寺大仏開眼供養でも演じられたそうだ。猛獣に親を噛み殺された子どもが、猛獣を探し出して退治し喜び勇んで帰っていく様を表しているという。「納曽利」は本来2人舞だが、この日は龍の仮面を着けた舞人1人で舞われた。

 

 この間、約1時間20分。神様も優雅な舞をご堪能されたに違いない。参拝者にとっても古式ゆかしい舞楽を間近に鑑賞するいい機会になった。この後は「長慶子(ちょうけいし)」という雅楽が奏される中、参拝者ほぼ全員で撤餞(てっせん)のお手伝い。長い列を作って神前に供えられた海の幸・山の幸を1つ1つ手渡しで引き下げ、手伝った人たちには「かち氷」という半生菓子が配られた。参道ではカキ氷なども無料で振る舞われていた。

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