【1951年、主演高峰秀子と助監督松山善三の出会い】
終戦間もない1951年3月21日、〝日本初の総天然色映画〟と銘打ったカラー映画「カルメン故郷に帰る」が公開された。松竹映画30周年を記念した1時間26分のコメディー調の娯楽映画。監督は木下恵介で、高峰秀子が主演を務め、ほぼ全編が浅間山麓の大自然の中で撮影された。国内初とあって万一に備えモノクロ映画も用意されたが、無事に完成しカラフルな映像が人気を集めた。これを記念して公開日の3月21日は「カラー映画の日」になっている。
高峰の役は都会でストリッパーをするリリィ・カルメン役。カルメンは同僚の踊り子を連れて浅間山麓の村に里帰りし、母校の小学校の校長先生をはじめ村人たちに村出身の〝芸術家〟として歓迎される。しかし素朴な村の佇まいにそぐわないカルメンたちの立ち居振る舞いが大騒動を引き起こすことに――。浅間山の山頂からは絶えず白い噴煙。当時の火山活動の活発な様子を表しており、大自然の雄大さに彩りを添えていた。久しぶりにDVDを借りてきて観賞したが、高峰秀子の溌剌とした歌と踊り、脇を固める笠智衆・佐野周二・望月優子らの名演技を改めて堪能できた。
この映画に一人の若い男性が助監督6人の中に名を連ねる。後に高峰秀子と結ばれる松山善三だ。高峰より一つ年下。「カルメン」の撮影時、木下監督が逗留先の旅館で高峰と打ち合わせしていると、襖の向こうから「先生お客様がお見えになりました」と声が掛かる。男性は廊下で手をついていた。高峰は礼儀正しい人との印象を持ち、監督に「あの人、だあれ?」と聞く。それが松山だった。助監督といっても名ばかりで、ロケ地の浅間草原では牛を追うなど雑務に振り回されていた。以来、高峰と松山は徐々に親しくなっていく。
1953年秋、木下監督の「二十四の瞳」の撮影は小豆島で佳境に入っていた。松山は引き続き木下組の下で助監督を務めていた。ある日、松山は意を決し木下に「高峰秀子さんと付き合わせてください」と話す。この言葉に木下は驚き「身の程をわきまえなさい!」と諭したという。それはそうだろう、映画1本の出演料が100万円の大スターに対し月給1万円余の助監督。だが木下は後日「松山君が秀ちゃんと付き合ってみたいですって。人物は僕が保証します」と高峰に伝える。その経緯は高峰が半生を綴った著書『わたしの渡世人生』や、後に松山家の養女となる斎藤明美の『高峰秀子の流儀』『最後の日本人』などにも詳しい。
挙式は1955年3月26日。高峰は結婚した時、松山にこう言ったという。「私はいま、人気スターとやらで映画会社がたくさんの出演料をくれていますが、くれるお金はありがたくいただいて、二人でドンドン使っちゃいましょう。でも、女優商売なんてしょせんは浮草稼業。やがて私が単なるお婆さんになったときは、あなたが働いて私を養ってください」。結婚から6年目、松山は自身の脚本による「名もなく貧しく美しく」で監督デビューを果たす。主演は高峰秀子と小林桂樹。その後も「典子は、今」「人間の條件」「人間の証明」「恍惚の人」など数多くの脚本を手掛けた。広島の原爆を題材とする「一本の鉛筆」(歌美空ひばり)の作詞者としても知られる。