【初の国宝指定を受けた貴重な木簡類を特別展示】
奈良文化財研究所平城宮跡資料館(奈良市)で秋期特別展「地下の正倉院展」が始まった。2007年に始まったこの特別展も今年で11年目を迎え、考古ファンにとって待ち遠しい秋の恒例催事としてすっかり定着した。今年は平城宮跡出土木簡が国宝に指定されたことを受け、「平城宮第1号木簡」など貴重な実物を中心に95-点(一部レプリカ)が3期に分けて展示される。会期は11月26日まで。(写真㊨は20日開かれた研究員によるギャラリートークの一場面)
平城宮跡から初めて木簡が見つかったのは半世紀以上前の1961年1月24日。以来、井戸や溝、ごみ捨て土坑などから大量の木簡が出土した。これまでに大膳職推定地や造酒司などから出土した木簡計4件2875点が重要文化財に指定されていたが、新たに309件を加えた3184点が今年3月、国の文化審議会から「平城宮出土木簡」として一括して国宝に指定するよう答申があった。そして9月15日付官報告示で晴れて国宝となった。約1300年前にごみとして捨てられた木簡が国の宝として文化財的価値を認められた意義は大きい。
最初に発見された木簡(上の写真㊧=部分)は全体的に腐食が著しく読みづらいが、書き出し部分が残画から「謹啓 請…」と判読できるため何らかの依頼文とみられる。見つけた二十代の若手調査員は木片に字が書かれていることに仰天し、大慌てで水を張ったバケツに入れ自転車で報告に向かったという。ただ名誉ある「第1号」の番号を与えられたのはこの木簡ではなく、後に大膳職と推定される同じ場所から出土した39点の木簡の中の一つ。
その第1号木簡(上の写真㊥=部分)は表に「寺請 小豆一斗 醤一…」、裏に「右四種物竹波命婦御所」などと書かれ、ある寺が4種の食材を請求したもの。竹波命婦(つくばのみょうぶ)は常陸国出身の采女で、孝謙天皇の側近だった女官とみられる。一緒に出土した木簡の年紀から、冒頭の「寺」は孝謙上皇が淳仁天皇と対立した時期に仮住まいしていた法華寺ではないかと推測されている。上の写真㊨の木簡(部分)は長さが65cmで、過所(パスポート)として用いられたとみられる。表の書き出しに「関々司前解…」(各関所のお役人に申し上げます)とあり、裏面に人名や地名が記されている。それにしても大きすぎ。当時の旅人は本当にこんなものを持ち歩いていたのだろうか。
平城宮跡からは平安時代のものとみられる木簡も出土している。上の写真㊧の木簡(部分)は一度放棄された井戸の枠板を組み直し再建した井戸から見つかった。井戸が再建されたのは同時に出土した土器類などから、平安遷都後、平城上皇が嵯峨天皇との抗争に敗れ平城の旧都に戻って西宮を営んだためとみられる。木簡に記された「津守貞成」は9世紀前半に活躍した人物とみられる。木簡には「御厘殿」(みくしげどの)とも書かれているが、これは天皇の装束の裁縫などを担当する部署。奈文研では「政変に敗れた平城太上天皇に対しても天皇に準じた体制がある程度組織されていたことや、平城宮西宮が宮殿として一定の機能を維持していたことを示す史料といえるかもしれない」としている。ほかに「奈良王」など王名を記した木簡や「請飯」と書かれ支給する人数を列挙した木簡、大甕に結び付けられた付け札なども展示されている。