【中大兄皇子と中臣鎌足が出会った〝槻の樹の広場〟の一角】
奈良県明日香村にある飛鳥時代の「飛鳥寺西方遺跡」で、高床式の建物があったとみられる大きな柱の穴跡や東西に延びる石組みの溝などが見つかり、2月26日明日香村教育委員会文化財課による現地説明会が開かれた。同遺跡は飛鳥寺旧境内の西側にあり、発掘場所は日本書紀に出てくる〝槻の樹(つきのき)の広場〟の一角とみられる。ここは大化の改新前に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蹴鞠を通じて出会い、壬申の乱(672年)の舞台にもなった。また蝦夷(えみし)や隼人(はやと)など辺境の人々を招いて饗宴を開いたともいわれる。(写真の後方左奥がわが国初の本格的な仏教寺院の飛鳥寺)
同遺跡の発掘は10年計画で2016年度が9年目。今回の発掘地域は飛鳥寺西門跡から南西へ約120mの遺跡南西端部分で、東西47.5m・南北10mの範囲を調査した。5年前に発掘した東側からは石組み溝や木樋暗渠(もくひあんきょ)、砂利敷などが確認されたが、今回も南北と東西に延びる2本の石組み溝が見つかった。南北の溝(下の写真㊧)は幅1.15m、深さ約40cm。側石は2段積みで底石はなかったが、東西の溝(写真㊨)からは底石だけが確認された。東西溝の長さは5年前の調査と合わせ約75mにわたることが判明した。
東西溝の西端は調査区域の中央付近で北側に向けて折れ曲がっているように見える。大きな柱の穴跡9個が見つかったのはそのすぐ西側。建物跡は黄色いテープでかたどられていた。穴跡は直径約1.2m、深さ約90cmで、抜き取り穴には黄色の山土が充填されていた。穴跡の平面配置は東西3間、南北2間ほどだが、調査担当者は「穴跡は(調査区域外の)南側にも延びて、建物は3間×3間の正方形の高床式だったと推測される。飛鳥京や甘樫の丘など周辺一帯を望む物見櫓のような建物だったのではないか」と話していた。一部考古学者の中には辺境の人々や外国の使節を招いて宴を催した施設の可能性を指摘する声も出ている。
今回の調査区域からは土師器、須恵器、黒色土器、緑釉陶器、瓦なども出土した。一連の発掘調査は飛鳥時代の重要な舞台となった〝槻の樹の広場〟の規模や構造を明らかにすることが目的。最終年度に当たる2017年度は今回の北側、飛鳥寺西側での発掘を予定している。これまでに3棟分の建物跡が確認されたことから、砂利敷き空間と考えられてきた飛鳥寺西の広場にも建物が数棟立っていた可能性が出てきた。担当者は「ぜひ槻(つき=ケヤキ)の木の根っこを見つけたい」と今後の発掘調査に期待を寄せていた。