く~にゃん雑記帳

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<大阪スポーツマンクラブ> 玉置会長講演「田中のボストンマラソン制覇」

2015年10月31日 | スポーツ

【昭和26年に19歳日大生、日本の陸上界を活気づけた快挙!】

 大阪市西区の大阪スポーツマンクラブ会議室(靭テニスセンター地下)で29日、「田中のボストンマラソン制覇」をテーマに同クラブ会長玉置通夫氏の講演があった。同クラブと大阪自由大学共催の連続講座「戦後70年とスポーツ」の一環。若干19歳の大学生、田中茂樹が第55回ボストンマラソンを制したのは戦後まもない1951年(昭和26年)4月19日のこと。日本の陸上界はその快挙に沸き、田中は現地の黒人社会からも大歓迎を受けたという。

   

   当時の毎日新聞社会面(昭和26年4月21日付)は「田中堂々優勝す」と3段見出しで大きく扱い、ゴールする田中の写真も添えている。「〝原爆の子〟十九歳の田中茂樹選手は好調に快走、群がる強豪を一しゅうしてゴールに飛び込み、2時間27分45秒で優勝し、ダイヤ入りのメダルを獲得、栄冠は太平洋を渡ってアジヤに輝いた」。マラソン大会として最も古い歴史を持つボストンで欧米人以外が優勝したのは初めて。同じ紙面のアタマ記事は「マ元帥の記録映画 六月に日本でも公開」だった。

 敗戦で日本は世界の水泳や陸上などの競技連盟から除名されており、48年のロンドン五輪出場も阻まれていた。敗戦から6年目。51年のボストンマラソンは日本の陸上界が戦後初めて海外に送り込んだ国際舞台だった。派遣したのは田中茂樹をはじめ小林舜治、内川義高、拝郷弘美の4人。日本人選手は全く下馬評にも上がってなかったが、ふたを開けると田中が終盤の心臓破りの丘でスパートして2位の米国人に3分以上の大差をつけて優勝。さらに小林5位、内川8位、拝郷9位と4人全員が入賞(10位まで)を果たした。

 「これまで日本勢は誰も参加したことがなく未知の大会だったが、敢然と挑んだ日本大学1年生の田中が金的を射止めたのだから、大きな話題とならないはずがなかった」。田中は広島県比婆郡敷信村(現庄原市)の出身。高校までの砂利道4キロを毎日走って登校していた田中は中国駅伝で大活躍。ボストン出場はスカウトされて日大に進学した直後のことだった。

 田中は14歳のとき、遠くで大きな光を見たという。それは広島に投下された原爆とみられる。その広島出身の田中の優勝をボストンの地元新聞は「アトムボーイが快挙」の見出しで大きく報じた。田中自身、レース後「原爆を落としたアメリカ人に負けてたまるか、という気持ちで走った」と話したそうだ。地元の黒人たちからも「(自分たちを差別する)白人をやっつけてくれて、こんなに胸のすくことはない」と大歓待を受けた。

 田中は一躍、翌年に迫ったヘルシンキ五輪の有力候補に躍り出る。しかし、練習中に足を痛めて選に漏れ、その後は目立った活躍がないまま第一線を退き日本陸連理事などを務めた。現在もご健在で、後進の指導を続けているという。「選手としては不遇に終わったが、田中のボストンでの力走に刺激されて、日本のマラソン界が活気づいたのは間違いない」。ヘルシンキ五輪ではメダルを逃したものの、翌1953年のボストンマラソンを山田敬蔵が、55年のボストンも浜村秀雄が制して、日本は世界のマラソン界の強豪国としての地歩を固めた。

 連続講座「戦後70年とスポーツ」の今後の日程とテーマは以下の通り。11月5日「佐伯通達と柳川事件」、12日「モスクワ五輪ボイコット」、19日「江川事件」。いずれも午後2時~3時半、大阪スポーツマンクラブ会議室で。受講料各1000円。

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