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く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「2020年 新聞は生き残れるか」

2014年03月13日 | BOOK

【長谷川幸洋著、講談社発行】

 新聞の長期低落傾向が続いている。国内発行部数は2000年の5370万部が2012年には4778万部に。10年ちょっとで10%以上も減少した。インターネットの存在感が高まる中、紙媒体の新聞は将来どうなるのだろうか。著者の長谷川氏は現在、東京新聞・中日新聞論説副主幹。本書は新聞を愛するが故の自戒の書といえよう。

    

 「ジャーナリズムのデフレ敗戦」「新聞を出し抜くネット・ジャーナリズム」「ジャーナリストが生き残るためにすべきこと」など8つの章と「特別収録 大鹿靖明インタビュー」で構成する。大鹿氏は朝日新聞記者で、著書に「メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故」(講談社ノンフィクション賞受賞)などがある。

 タイトルの「2020年」は2回目の東京五輪開催の年。東京開催は昨年9月8日に決定し、テレビは発表の瞬間や「お・も・て・な・し」の場面を繰り返し放映した。ところが翌日、新聞は休刊日で朝刊がなかった(読売新聞は特別号外を宅配)。感動をもう一度と新聞受けをのぞいて肩透かしを食った読者も多いことだろう。休刊日は販売店の慰労が目的で、読者とは無関係のいわば内輪の事情による。

 著者は「東京五輪が決まっても、新聞を発行しないで平気でいられる新聞は『読者のことを考えている』と本気で言えるのか」と問題提議。さらに、読者が休刊日で「新聞がなくても困らない」と実感したとすれば、「この体験はこれから2020年の東京五輪に向けて、じわじわと深い影響を与えるのではないか」と危惧し、「新聞大激動」の幕開けを告げるものとまで言い切る。

 著者は各章の中で、官僚に取り入ってネタという餌をもらう〝ポチ記者〟を生む経済ジャーナリズムの構造的な問題や、記者クラブでの発表に頼り生データに当たらない記者の体質、情報の二次加工が不得意なマスメディアなどの問題点も指摘する。

 2012年「週刊ポスト」が復興予算の流用問題を報じた。女性のフリーランス記者が霞が関の省庁が公表している予算の「各目明細書」をネットで読み込むことが特報のきっかけになった。著者が取材中、その記者から逆に問い返されたという言葉が印象的だ。「私が不思議に思っているのは、記者クラブにいる記者さんたちはみんな、私よりももっと多くの情報を持って……復興予算の流用だって知っていたかもしれない。それなのに、どうして報じられなかったのでしょうか」。

 そう言えば、この復興予算流用問題以外にも佐村河内守氏の作曲者別人問題など、最近は週刊誌や月刊誌が書いた特ダネを新聞やテレビが後追いするケースが増えている。理化学研究所の「STAP細胞」論文不正疑惑も、最初に指摘したのは論文検証サイトで、それがブログやツイッターで広がって表面化した。長く再販制度や記者クラブなどで守られてきたオールドメディアの新聞にとって、低落傾向に歯止めを掛けるのはなかなか容易ではない。      

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<BOOK> 「日本人はなぜ特攻を選んだのか」

2014年03月04日 | BOOK

【黄文雄著、徳間書店発行】

 著者は1938年台湾生まれ。64年に来日し早稲田大学卒業、明治大学大学院修士課程修了。著書に「中国の没落」「日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか」「世界から絶賛される日本人」など。〝台湾独立派〟を自任する黄氏は戒厳令が敷かれた台湾に長年帰国できず、90年代初めに29年ぶりに帰国を許されたという。

    

 その台湾生まれの著者が今回、日本の〝特攻〟をテーマに選んだのはなぜ? 著者は死をもって国に殉じた特攻隊員の精神を「数百年にわたり西欧列強の植民地として屈従していたアジア各国の民族意識を高め、終戦後にアジア各国が独立する道を切り拓いた」と評価する。なのに当の日本では「戦前の日本をすべて否定する自虐史観が猖獗(しょうけつ)を極めてきた」(いずれも「はじめに」から)。そんな忸怩たる思いが執筆に駆り立てたようだ。

 4章構成。第1章「世界から尊敬される特攻隊」では特攻の歴史を振り返りながら戦後の内外の評価を紹介する。特攻は日本軍が劣勢に立たされていた1944年10月のフィリピン・レイテ沖海戦が始まり。敷島・大和・朝日・山桜の4隊から成る神風特攻隊が編成された。各隊の名称は本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」から取られた。

 以来、飛行機による特攻のほか潜水艇や人間魚雷による水中特攻、戦車による陸上特攻などが終戦まで敢行され、多くの若者が国のために散っていった。特攻による戦死者は一説に海軍、陸軍合わせて5800人余。一方、特攻によって撃破・撃沈した連合軍の艦艇は278隻(322隻説も)で、米軍の死者は1万2000人以上に及んだという。

 日本が降伏文書に調印した米戦艦ミズーリ号も終戦4カ月前、喜界島沖で特攻によって艦尾に突入された。だが特攻機の爆弾が炸裂せず一部火災だけで済んだ。艦長は甲板に焼け焦げて横たわるゼロ戦操縦士を水葬に付すことを指示する。海兵の間に不満の声が沸き起こるや、艦長は「このパイロットも諸君と同じく国のために命を投げ出して戦ったのだ。敵兵も死んだら敵ではない」と艦内放送で呼び掛けた。特攻隊員は翌日、弔砲と全員敬礼の中で手厚く水葬に付された。

 第2章「特攻隊の真実」では隊員の遺書や辞世の句、特攻隊の創設を提案した大西瀧治郎中将の苦悩、「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさん、最後の特攻などを紹介する。最後の特攻は1945年8月19日。日本の降伏後、満州に進駐してきたソ連の戦車隊に特攻11機が体当たり攻撃を行った。そのうち2機には女性(隊員の妻と旅館の女中)が同乗していた。『妻と飛んだ特攻兵』の著者豊田正義氏は「残されて辱めを受けるくらいなら、敵軍に特攻して果てたいという彼女たちの切実な訴えが、隊員たちの心を動かしたのだろう」と記す。

 第3章「それでも日本人は特攻を選んだ」では、生きて帰れない〝十死零生〟の特攻には「日本人の死生観、武士道などの伝統が大きくかかわっている」と分析。第4章「アジアを解放した特攻精神」では戦後〝共生同死〟を誓ってインドネシア独立運動に参加した数千人の日本兵、インドやビルマの反英独立運動を支援した日本軍などを紹介する。

 著者は「おわりに」をこう結んでいる。「戦後の『人命至上主義』から特攻を『犬死』『馬鹿げた行為』と批判することはたやすい。だがそれは、命を捨てて国のために戦った戦士を貶める行為であるばかりではなく、大和魂や武士道までも否定し、ひいては日本人の否定にもつながる愚かな行為なのである」

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<BOOK> 「薬と文学 病める感受性のゆくえ」

2014年02月28日 | BOOK

【千葉正昭著、社会評論社発行】

 著者は1952年宮城県生まれ。高校教諭を18年、仙台高専で助教授・教授を12年務めた。著書に「記憶の風景―久保田万太郎の小説」や「技術立国ニッポンの文学」(共著)など。「薬と文学」なかなかユニークなテーマだが、執筆理由も変わっている。あとがきに①数年前から降圧剤をのむようになった②次男が薬剤師を志していた③薬学や医学研究者も参加した読書会を通じて薬が身近な存在になった――などを挙げる。

   

 著者は読書会で文学研究がどう現代生活に関わりや意義を持つか質問され、返答に窮したことがあったという。そこで「文学についての研究や批評が、現代生活と無縁ではないことを説明するため、その切り口の一つに<薬>を使って説明したい欲求を覚えた」。本書誕生の背景には実はこの欲求があったからだろう。ただ医薬系は門外漢。出版までに6年の歳月を要した。

 本書では有吉佐和子の「華岡青洲の妻」や泉鏡花の「外科室」、松本清張の「点と線」、奥田英朗の「オーナー」など文学作品12点を取り上げた。作品中に登場する麻酔薬やモルヒネ、青酸カリ、抗がん剤、パニック障害などについて多くの専門書に当たり医師や研究者にも取材を重ねて、それぞれの作品の中で重要な役割を果たす薬や病気について掘り下げた。

 「華岡青洲の妻」では青洲が薬草を調合した薬湯をのんで妻加恵が失明する。この薬湯はのちに「通仙散」と呼ばれたもの。筆者は失明について「一つは薬理成分の副作用であり、もう一つは現代社会に当てはめれば治験の問題につながるかもしれない」と記す。猫や犬への麻酔薬の実験は成功していたものの、「青洲自身、人体実験での重篤な副作用までは予知し得なかったといってよい」。

 「点と線」では作品が発表された昭和30年代前半に青酸カリなど毒物・薬物を使った事件が多発し、生産ソーダなど工業品の生産高も飛躍的に増加していたという時代背景に切り込む。リリー・フランキーの「東京タワー」は主人公のボクとがんと闘うオカンの物語。作品中に何度も「ぐるぐるぐるぐる」という擬態語が登場する。「慰めも、希望も、安易に語れないとき、ボクは擬態語の空間に逃げ込む」。ミュージシャン福山雅治がこの物語に共鳴し帯に推薦文を寄せたことも、著者は「この感覚的・感性的な擬態語の多用と無縁ではなかったのではないか」とみる。

 奥田英朗の「オーナー」は発行部数日本一の新聞社の会長でプロ野球チームのオーナーが主人公。たびたびパニック障害に襲われ医師から抗不安薬を処方される。このパニック障害は働き盛りに多く、放置し慢性化するとうつ病に移行することも多い。主人公はその根本的な原因は役職に執着する心ではないかと気づき、第一線から退くことによって快方に向かう。

 12本目として取り上げるのは小説以外では唯一の林宏司脚本「感染爆発」。2008年にNHKテレビで放映されたもので、パンデミック(インフルエンザの世界的大流行)をもたらすウイルスの恐怖を描いた。著者はカミュの「ペスト」と比較しながら、「個人が描き出す社会への関わり方と同時に、ウイルスの恐怖と戦う医療人たちの桎梏と葛藤とを重ね、更に政治がどこまで危機的感染症の防疫に対処出来るかなどを語って興味深い」と記す。「ウイルスもしぶといが、人間も案外しぶといもんだ」。ドラマ最終章での医師の呟きが印象深い。

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<BOOK> 写真集「世界でいちばん美しい城、荘厳なる教会」

2014年02月20日 | BOOK

【「世界の写真家たちによる美の記録」エムディエヌコーポレーション発行】

 B5判のオールカラー。表表紙を「眠れる森の美女」の城のモデルとなったノイシュヴァンシュタイン城(ドイツ)、裏表紙をヨーロッパ随一の装飾と讃えられる「ヴィースの巡礼教会」(同)が飾る。これらを含め21カ所の城と15カ所の教会を紹介している。

   

 ノイシュヴァンシュアイン城は「騎士道世界への強い憧れを持つルードヴィヒ2世が自身の美意識を満たすためにのみ建てた」という。雪景色のほかアルプスを背に黄葉に囲まれそそり立つ姿も美しい。そのルードヴィヒ2世が生まれたニンフェンブルク城(ドイツ)は20㌶にも及ぶ広大な庭園を持つ。フレデリクスボー城(デンマーク)は湖に浮かぶ小島に建てられた宮殿。今は国立歴史博物館として利用されている。

 ドロモランド城(アイルランド)はネオゴシック様式で、現在はボノやジョン・トラボルタら有名人も滞在する高級ホテルに。アイリーン・ドナン城(英国)はスコットランドで最も美しい古城といわれる。レマン湖畔にあるシヨン城(スイス)は詩人バイロンが「シヨンの囚人」などで歌い上げた。ホーエンヴェルフェン城(オーストリア)は映画「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」のシーンで背景に使われた。

 このほかに取り上げたヨーロッパの城は八角形のカステル・デル・モンテ(イタリア)、オペラの殿堂になっているオラヴィ城(フィンランド)、11世紀以来増築を繰り返してきたホーエンザルツブルク城(ドイツ)など。ヨーロッパ以外ではチベットのポタラ宮とシリアのクラック・デ・シュヴァリエの2つを紹介している。大きな虹が架かるポタラ宮は実に神々しい。

 教会ではミラノのドゥオーモ(イタリア)、モン・サン・ミシェル城郭修道院(フランス)、ザンクト・ガレン修道院(スイス)、セゴビア大聖堂(スペイン)、アザム教会(ドイツ)、血の上の救世主教会(ロシア)、リラ修道院(ブルガリア)、ブレッド島の聖マリア教会(スロベニア)などを取り上げている。

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<BOOK> 「勇気をくれる、インドのことわざ」

2014年02月14日 | BOOK

【帝羽ニルマラ純子著、共栄書房発行】

 副題に「幸せをつかむタミル語、ことばの魔法」。著者は法政大学卒業後、日本国籍を取得。その後、13年間にわたって日本企業の海外ビジネス展開、外資系企業の日本市場への参入の橋渡し役として活動し、現在はインドビジネスアドバイザーとして活躍している。

   

 タミル語は22のインド公用語の1つで世界で最も古い歴史を持ち、南インドと北スリランカで使われている。本書では3万以上あるといわれるタミル語のことわざのうち、現在もよく使われている160を選び「学び」「人間関係」「戦略」「愛」など9つの項目に分けて紹介している。各ことわざにはタミル語とローマ字表記、片仮名での発音と日本語の意味を併記している。

 本書執筆の理由の1つとして著者は「カレー、数学、ボリウッド映画など日本人が抱くステレオタイプ的なインドのイメージを残念に思ったこと」を挙げる。「インド人は古代より伝わるスピリチュアルな考え方、成句や哲学的感情、知性などの知恵を重んじていることを忘れてほしくない」。以下に示唆に富むことわざの一部を列挙(カッコ内はその意味)。

与えられた食料と知恵は二日と持たない

五歳で頭を下げない人は五十歳でも頭を下げない

敵からとったココナツを寄付する(その場しのぎの解決方法を選択すると、物事は解決しないばかりか、結果的に事態が複雑になる)

平和のために汗をかけば、戦争で血を流すことはない

賢い猫は魚に目もくれず、タマリンドを食べてみせる(タマリンドはサヤ状の果物。魂胆を隠して何事もないようなふりをする人のことを指す)

おしゃべりは友と敵をつくる

冗談は敵をつくらないが、しばしば友を失う

砂糖を借りに行ったら塩を貸してくれと言われる(誰かに助けを求めたら、その人から逆に助けを求められる。悪い状況がさらに悪くなる)

雨に濡れる羊を狼が哀れむ(悪意を持っている人はあなたを心配しているようなふりをする。どんな思惑を持っているか分からない)

虎がいない町では猫が王(どこかに本当の実力者がいるのに、自分が最高であると思ってはいけない)

静かな川にはワニがいないと考えるなかれ(表面の下に危険が潜む)

五と三があれば無学な少女でも料理ができる(五は胡椒・塩・カラシ・クミン・タマリンド、三は水・火・燃料。全てがそろっていると特別な努力や工夫は必要ない。逆に全てそろうことは滅多にない)

カラスにとってヒナは黄金(黒い羽を持つカラスでも母鳥にとってヒナは黄金に輝いて見える。母親は子どものためにどんなことでもする)

箒(ほうき)に飾りをつける(大金を手にすると、つまらないものにお金をかけ始めることのたとえ)

牛は茶でも黒でも、乳は白(肌の色などによって人に対する態度を変えてはいけない)

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<BOOK> 『日本国憲法の初心 山本有三の「竹」を読む』

2014年02月12日 | BOOK

【鈴木琢磨編著、七つ森書館発行】

 著者は毎日新聞編集委員。昨年2月、東京の古本屋で『竹』と題した薄っぺらな本が偶然目に入った。著者は山本有三、奥付には発行1948年3月20日、価格65円とあった。ページをめくると「戦争放棄と日本」をはじめ「ロハス大統領と神保中佐」「政治と文化」など7編の時評や随筆。『路傍の石』の作家と憲法はなぜ結びついたのか? 本書は著者のこんな疑問から生まれた。

    

 戦前、売れっ子作家だった山本有三は戦後、政治家として表舞台に立つ。GHQ(連合国軍総司令部)は占領当初、日本語のローマ字化を画策した。これに対し山本は「日本語の問題はわれわれ日本人が解決するから口出しはしないでくれ」と拒否。ただ以前から日本語を平易なものにすべきと考えていた山本は新憲法の口語化を政府に進言した。実際、憲法の前文と第1条、第9条は山本自身が口語体の試案を作成し、政府はこれらを参考に口語体の憲法改正案を作り上げた。

 山本は1946年5月、貴族院議員に勅選されている。時評「戦争放棄と日本」は新憲法が公布されたその年11月3日の翌日、朝日新聞に掲載された。第9条について山本はこう記す。「裸より強いものはない。なまじ武力なぞ持っておれば、痛くもない腹をさぐられる。それよりは、役にも立たない武器なぞは捨ててしまって、まる腰になるほうが、ずっと自由ではないか。そこにこそ、本当に日本の生きる道があるのだと信ずる」。平和憲法への熱い思いと誇りがこもる。

 「ロハス大統領と神保中佐」は1946年の「新潮」8月号に掲載された。神保信彦中佐は陸軍に所属していた山本の親友で、フィリピンでの戦闘中、日本軍の捕虜になったロハス将軍に司令部から銃殺命令が下った。だが将軍の人格と見識に敬意を抱く神保は銃殺を装ってかくまう。その後、中国に転属となった神保は終戦で戦犯として捕らわれの身になった。一方、ロハスは戦後、フィリピン大統領に。ロハスは命の恩人神保の抑留を知るや、蒋介石宛てに助命嘆願書を送った。神保はそのおかげで無罪の判決を受け無事帰国した――。

 「ロハス氏があらたにフィリッピンの大統領に選ばれたというニュースぐらい、近ごろ、私を喜ばせたものはない」と始まるこの一文を、山本はこう結んでいる。「日本軍の残忍な行動は、あまねく世界に伝えられている。しかし、このロハス氏の場あいを思うとき、軍部の中にも、心ある者が全くいなかったわけではない。軍に非人道的な行為のあったことは、謝罪すべきことばもないが、この一事だけは、フィリッピンの人びとに対しても、世界の人びとに対しても、改めて日本を見なおしてもらうよすがになると思う」。

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<BOOK> 「まほろばの心」(安田暎胤著、春秋社発行)

2014年02月06日 | BOOK

【薬師寺前管主、日本人の心の復興を願って】

 著者は薬師寺の前管主(現在は長老)。1950年12歳で出家して橋本凝胤師の薫陶を受け、64年に執事長に就任してからは高田好胤管主と共に写経勧進による伽藍復興に尽くした。管主就任は2003年。これを機に「薬師寺二十一世紀まほろば塾」を立ち上げた。そこには日本人の心の復興を目指して高田好胤師が創設した「日本まほろばの会」の精神を継承したいとの思いがあった。

     

 東日本大震災をきっかけに人と人との絆や思いやりの心の大切さが見直された。ボランティア活動に参加する若者も増えた。だが著者は「そうした精神状態がいつまで持続できるかが問題」と指摘する。タイトルの「まほろばの心」とは? 著者は「人間の尊厳性を高める理想的な心である」とし、感謝の心・慈悲の心・敬いの心・赦しの心・和の心・忍の心・柔軟な心など合計16の心について「いつの時代にあっても、人間として相応しい心の持ち方」を説く。

 『赦しの心』では「怨みに報いるに怨みをもってしては、怨みの已むことはない」(法句経)という釈迦の教えとともに、松本サリン事件の被害者でありながら加害者の死刑囚を「さん」付けで呼ぶ河野義行さんの言葉を紹介する。「恨む行為そのものが楽しいかと考えると、面白くないし、エネルギーも要るし、何のメリットもない。そういう生き方は、損得で言ったら絶対そんだよな、っていうのが私の結論」。

 『忍の心』では養父の暴力で両腕を失った大石順教尼を取り上げ、鳥かごのカナリアを見て詠んだ短歌を紹介する。「口に筆執りて書けよと教えたる 鳥こそわれの師にてありけり」。『信ずる心』の中で紹介するのは結核やがんなど数々の病魔に苦しんだ作家の三浦綾子さん。キリスト教徒の三浦さんは「神様は私を導くために、このような病気を与えてくださっている。神様は私を特別にひいきしてくださっている」と病を甘受し、苦しみを安らぎに変えた。このほかプロ野球の王貞治選手や松井秀喜選手たちのエピソードも出てくる。

 著者は漢字そのものの構成からも教えを説く。例えば『和』。この字のノ木偏は「お米であり食べ物を意味する。口に食べ物が入れば和が保てる」として「できるだけ一家団欒の時間を持つことが、一家の和を保つのに必要」と指摘する。争いに三水偏の『浄』は「燃える火のような争いに水を注げば争いは収まり平和になる……清浄心は汚れた心を美しくする」。刃の下に心と書く『忍』では、刀の刃が熱いうちに鍛えるほど切れ味が鋭くなるように「心も若い時代に鍛錬することによって強靭になる」と説く。

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<BOOK> 「富士山噴火の歴史 万葉集から現代まで」

2014年01月29日 | BOOK

【都司嘉宣(つじ・よしのぶ)著、築地書館発行】

 昨年「信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録された霊峰富士。静かで雄大な富士山はまさに日本のシンボルだが、かつては活発な火山活動を繰り返し度々噴煙を上げていた。本書は万葉集をはじめとする和歌集や俳句集、紀行文など奈良~江戸時代の文学作品の中で、富士の姿がどう描かれていたのかを丹念に追った富士山の噴火史である。

   

 著者都司氏は東大理学系大学院で地球物理を専攻し修士課程を修了。主に古地震、津波を研究する理学博士で、2012年に東大地震研究所を定年退官し、現在は深田地質研究所の客員研究員を務める。本書の初版発行は約20年前の1992年だが、その後の東日本大震災の発生、世界遺産登録に伴う富士山ブームなどを機に、新たな知見を加えて改訂版の出版に至った。

 「万葉集」には長文の雑歌のほか、富士の噴煙を詠んだ作者不詳の歌が2首ある。そのうちの1首「吾妹子に逢ふ縁を無み駿河なる 不尽の高嶺の燃えつつかあらむ」(恋人に逢うすべがないので、駿河の国の富士山のように私は心を燃やし続けるだろう)。柿本人麻呂の撰といわれる「柿本集」にも1首、「古今和歌集」にも5首ある。いずれも内に秘めた恋心を富士の噴煙になぞらえている。

 平安中期の歌人和泉式部の歌にも2首。そのうちの1首「不二の嶺の煙絶えなんたとふべき 方なき恋を人に知らせん」。鎌倉時代の和歌集にも噴煙を詠んだ歌が見られる。西行「けぶり立つ富士に思ひの争ひて よだけき恋をするが辺ぞ行く」(山家集)、源頼朝「道すがら富士の煙もわかざりき 晴るる間もなき空の景色に」(新古今和歌集)、紀貫之「しるしなき煙を雲にまがへつつ 世を経て富士の山と燃えなむ」(同)。

 江戸時代に入って1707年には「宝永の大噴火」が起きた。この噴火による降下石砂の厚さは静岡県小山町須走で約4mに達し、降り積もった砂は御殿場で1m、小田原で90cm、藤沢で25cm、江戸でも15cmだったという。この大噴火は〝千年震災〟といわれる1703年の「元禄関東地震」の4年後、「宝永地震」の49日後に起きた。その後、噴出活動はほとんど止まった。

 昨年夏、著者は長野県小布施町の北斎館で偶然、葛飾北斎の版画の中に噴煙が上がる富士の絵があるのを発見した。北斎が40代に描いた「新板浮絵忠臣蔵」の中の「初段鶴ケ岡」で、鶴岡八幡宮の背景に噴煙が空高く立ち上る富士山が描かれている。制作年は1803~05年。この頃、噴煙を実際に見ることができた可能性は小さいことから、著者は忠臣蔵が起きた時代(討ち入り1702年)に噴煙が絶えず上っていたことを北斎が知っていて描いたとみる。北斎が60代に描いた代表作「冨嶽三十六景」には噴煙が全く描かれていない。

 著者は西暦700年からこれまでの約1300年間のうち噴煙があった時期を積算すると実に約650年に達するという。「つまり歴史の時代を長い目でみれば富士は半分の時期は浅間や阿蘇とおなじく日本列島を代表する活火山でありつづけた」。そして「現代は……噴煙が見られない時期が約300年もつづいてきた」が、「こんなことは長い富士の噴煙史上にはなかった。つまり富士は噴煙のない状態が長くつづいたほうが異常なのだ」と指摘する。

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<BOOK> 『料亭「吉兆」を一代で築き、日本料理と茶の湯に命を懸けた祖父・湯木貞一の背中を見て……』

2014年01月17日 | BOOK

【京都吉兆嵐山本店3代目総料理長・徳岡邦夫著、淡交社発行】

 タイトルは「……」の後「孫の徳岡邦夫は何を学んだのか」と続く。異例の長さのタイトルが示すように、徳岡邦夫(1960年生まれ)が天才料理人といわれた祖父、湯木貞一(1901~97)の教えや思い出を記した読み物である。「徳岡邦夫の人生」「湯木貞一の人生」「京都吉兆のこれから」の3章構成で、特別対談『戸田博×徳岡邦夫 茶碗「広沢」から在りし日の祖父を偲ぶ』で締めくくる。

    

 湯木貞一は茶道の精神を日本料理に融合させて独自の懐石芸術を確立したといわれる。吉兆は1930年、大阪市西区で産声を上げた。間口1間2分5厘・奥行き6軒のこぢんまりとした「御鯛茶處(おんたいちゃどころ)吉兆」。湯木、29歳の時だった。小さな店の一角に茶釜を備え食後に釜の湯でお茶を点てた。その斬新なアイデアと精魂込めた料理が多くの客の人気を集めた。

 「日本料理は単なる料理ではなく、茶道に基づいた佇まいや侘び寂びがある」。湯木は日本料理には他にない気品があるとして「世界之名物 日本料理」を信条とした。昨年「和食・日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産として登録された。湯木もことのほか喜んでいるに違いない。87歳の時には料理界初の文化功労者に選ばれた。湯木は茶道具の収集家としても知られ、1987年には大阪市内に「湯木美術館」も開館、初代館長を務めた。

 徳岡邦夫は湯木の次女の長男として生まれたが、実父は2歳の時に他界した。幼少期の遊び場は嵐山本店の厨房。20歳の時、祖父湯木のいる大阪の高麗橋店に住み込みで修業を始めた。95年、35歳で総料理長に就任する。その間、湯木の背中を追って育った徳岡は「今でも祖父のことは神さまだと思っている」。

 ただ「私は祖父の盛りつけを踏襲するつもりはありません。今の時代に合うように、器に新しい変化を求めていこうと思っています」という。「お客さまにどうしたら喜んでもらえるか――祖父は常にそのことを考えていました。私もその気持ちを忘れず、祖父と同じように新しい試みを続けていこうと思います」。徳岡はいま嵐山本店を含む京都吉兆の6店を統括する立場にある。「祖父が茶道で学んだもてなしの心――京都吉兆では今もしっかりと受け継がれています」。

 食品偽装が問題になっている最中、京都吉兆でも本書が出版された直後の昨年11月、カタログ販売していたローストビーフに結着剤が使われていたとして販売が取り止めになった。さらに製造委託先の食肉加工責任者の自殺騒ぎにまで発展した。本書で吉兆のお客様本位のもてなしの心に触れ感銘を受けていただけに、この一連の騒動が残念でならない。吉兆創業から80年余。嵐山本店が「ミシュランガイド」で三つ星になったことを喜ぶのもいいが、もう一度全社を挙げて湯木貞一の創業の精神に立ち返る必要があるのではないだろうか。

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<BOOK> 「工芸の四季―愛しいものがある生活」

2013年12月13日 | BOOK

【文=澤田美恵子、写真・デザイン=中野仁人、京都新聞出版センター発行】

 文と写真を担当したお2人はいずれも京都市出身で京都工芸繊維大学の教授。専門は澤田氏が言語学と伝統工芸、中野氏がグラフィックデザイン。本書は2012年4月から今年3月まで丸1年365日にわたって京都新聞の1面題字下で連載したものを書籍化したもの。日々の暮らしに溶け込んだ工芸品を美しい写真と簡潔な文章で紹介しており、「民芸運動」推進者・柳宗悦が唱えた〝用の美〟という言葉を改めて想起させる1冊となっている。

   

 取り上げた分野は実に幅広い。キセル、印籠、文楽人形、釣竿、黒谷和紙、和鏡、ぽち袋、和綴じ本、和傘、竹垣、茶筅、鉄瓶、茶筒、すす竹の箸、蕎麦猪口(そばちょこ)、束子(たわし)、がま口、髪飾り、行灯……。もちろん西陣織や京友禅、京漆器、京七宝、清水焼、京ろうそく、京仏壇など、地元京都の伝統工芸品も盛り込まれている。

 例えば1月をみると――。元日の「蓬莱模様 飾り扇」に始まって神楽鈴、百人1首、押絵羽子板、注連縄(しめなわ)と続く。その後も奴凧やゑびす飾り、京弓、飾り餅、浜独楽、留袖、市松人形、狛犬など1月にふさわしいものが選ばれている。そして、それぞれの写真には5行100文字余りの説明文が添えられている。

 いずれも職人の匠の技が凝縮した逸品ばかり。中でも京和傘の内側開閉部や花火のような金網製の豆腐すくい、黒漆の女性用の下駄などにははっとするような美しさが漂う。ちなみに今日12月13日の項に取り上げているのは「旅持(たびもち)香箱」。小さな香炉、香木、香割り道具がセットに。旅先で香を聞く、とはなんと優雅な!

 書籍化に当たって、新たに澤田・中野両氏に静岡文化芸術大学学長の熊倉功夫氏が加わった特別鼎談や、「箔画」作家・野口琢郎氏ら若手工芸家・芸能師3人のインタビュー記事も織り込んだ。鼎談の中で熊倉氏は茶道や武道同様、ものづくりの世界でも〝守破離(しゅはり)〟が大切と説く。「まねることは誰でもできます。その後は自分で自分の生き方を切り拓いて、新たな境地に達していただけたら」。

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<BOOK> 「素顔の新美南吉―避けられない死を前に」

2013年12月12日 | BOOK

【斎藤卓志著、風媒社発行】

 童話「ごんぎつね」や「手袋を買いに」で知られる新美南吉は1913年(大正2年)現在の愛知県半田市で生まれ、1943年(昭和18年)結核のため短い生涯を閉じた。今年はちょうど生誕100年、そして没後70年の節目に当たる。本書は南吉自身の日記や多くの聞き書きを基に、作品の生まれた背景やあまり知られていない人となりを丹念に掘り起こした。

    

 代表作「ごんぎつね」が児童雑誌「赤い鳥」に入選し、掲載されたのは南吉18歳のとき。その頃、南吉が生涯兄代わりと慕う巽聖歌(1905~73)に出会う。巽は童謡「たきび」の作詞者として知られる。南吉は巽の紹介で初めて北原白秋に会った。その時の喜びを白秋宛ての手紙にこう記す。「先生のお宅にあがってから、先生が、僕を『新美君』と仰有ったときも、うれしくて、返事も出来ないほどでした」。童話作家として南吉の名が戦後広く知れ渡るようになったのも、1つは巽の尽力によるといわれる。

 南吉はその後、東京外国語学校英語部文科に進む。ただ自分の進路については思い悩んでいたようだ。日記に「三つの道に迷ふ。英文学にゆくか、児童文学に行くか、小説にゆくか」と書いた。南吉の日記は9歳の綴り方帳に始まって約20年に及ぶ。その目的について「将来私が小説を書く時私の日記が何かの役に立つやうにと思ふがためである」と記す。著者も「ゴールは小説を書く作家としての生活だった」とみる。

 だが南吉には健康への不安が付きまとった。18歳の時には「我が母も我が叔父もみな夭死せし我また三十をこえじと思ふよ。」と詠んでいる。著者は「18歳の南吉が漠然とした形にしても死を意識していたことは重大である」という。そして、21歳の時、初めて喀血する。さらに23歳で2回目の喀血。この間に「墓碑銘」というタイトルの詩も作っている。「結核は死と同義語の時代だった」(著者)。作家や歌人にも結核で若くして逝った人が多い。樋口一葉(享年24)、石川啄木(26)、中原中也(30)、正岡子規(34)……。

 南吉は25歳の時、愛知県安城高等女学校の新任教師として1年生の担任になった。専門は英語だが、一番力を入れたのは作文だったといわれる。暇さえあれば生徒の作文を読み、点数をつけ評言を記して生徒に返した。添削で一番多く使った言葉は「実感」だったという。「実感がない」「実感がうすい」……。「大事なのは自分が受けた感じというわけだ」(著者)。

 南吉は初めて受け持った生徒たちを4年後に卒業するまで担当し送り出した。「途中で担任交代の話が出たとき全員が泣いて拒んだ」という。先生としていかに慕われていたかが目に浮かぶ。南吉は生徒に原稿の清書も手伝ってもらっていた。生涯独身だったが、女性に関心がなかったわけではない。強く惹かれた女生徒もいたらしい。その経緯は本書の中でわざわざ1章を立てた「先生の恋」に詳しい。

 「南吉の童話作家としてのピークはこのあと、昭和17年5月に来る。ふり返ると死まで1年を切ったときにはじまる」(著者)。巽聖歌も「最後の1年のために、短かった全生涯を賭けた」と表現する。とりわけ3~5月には精力的に執筆し、「おぢいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」など9作品を執筆した。その1年後の3月、喉頭結核のため永眠。29歳と7カ月だった。皮肉にも18歳の時詠んだ歌の通りになってしまった。

 直後、学校の中央廊下に南吉が「絶筆」と鉛筆書きした一文が張り出されたという。「皆んなと一緒に行った遠足は楽しかった。とても嬉しかったよ。そんな君達に石頭だとかザル頭だとか悪口言ったり叱ったりして悪かった。許してくれたまえ」。南吉の優しさ、温かさが伝わってくる。音楽も好んだ南吉は生前「(チャイコフスキーの)アンダンテ・カンタービレのような(文学)作品を書きたい」とも言っていたそうだ。

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<BOOK> 「ミツバチの会議 なぜ常に最良の意思決定ができるのか」

2013年12月04日 | BOOK

【トーマス・シーリー著、片岡夏実訳、築地書館発行】

 人類が有史以前からその蜂蜜や蜜蝋などのお世話になってきたミツバチ。そのハチたちは春から夏にかけ分蜂(巣分かれ)し、新天地に新しいコロニーを作る。新居をどこにするかという選択は群れにとって生死に関わる重大事。本書はその場所探しの決定がいかに民主的に行われているかを、長年の追跡調査を基に明らかにした。極小さな脳しか持たないミツバチたちが進化の末に身に付けた〝分蜂群の知恵〟にはただ驚くばかりだ。

   

 著者シーリーは1952年生まれで、米コーネル大学の生物学教授。ドイツのリンダウアー教授が1950年代に始めたミツバチの家探しの研究を引き継ぎ、その研究によりハーバード大学で博士号を取得している。ミツバチの好みを探るために作った巣箱は252個に達し、何千匹ものハチに1匹ずつ背中にラベルを貼って、新しいすみかの探索バチや働きバチの動きを観察してきた。

 ハチの〝尻振りダンス〟は今では広く知られる。蜜源の花を見つけたハチは巣に戻ると仲間にダンスでその方向と距離を伝えるというものだ。その発見は40年前のノーベル生理学・医学賞につながった。分蜂群の探索バチも巣作りの候補地を見つけたらダンスで知らせる。ただ何カ所もの候補地の中から最適な場所をどのように決めるかは分かっていなかった。シーリーはその謎を解き明かした。

 分蜂群は1匹の女王バチと約1万匹の働きバチから成る。元の巣から飛び出ると近くの木の枝などに塊となって数時間から数日間ぶら下がったまま。その間に数十匹の探索バチが山野のあらゆる方向に飛び立ち約5キロ四方にわたって新居の候補地をくまなく探す。ハチは入り口の広さや高さ、空洞の容積などから総合的に評価し、それぞれ巣に戻って仲間にダンスの強さと周回の多さで報告する。

 そのダンスを見たまだ支持する場所のない中立の探索バチは、自ら候補地に行って確かめ評価したうえで、巣に戻り同様にダンスをする。「優れた候補地を支持する探索バチは、劣った候補地の支持者に比べて長く、そして『声高』に支持を表明する」。やがて多くの候補地の中からより良いものがダンスを独占し、最後は全員一致で新しい巣作りの場所が決まる。この後、探索バチは分蜂群のハチたちに〝飛行筋〟のウオーミングアップを促し、体が温まると一斉に飛び立つ。

 著者は「ミツバチの家探しは、意思決定集団が正確な合意形成を行い、なおかつ時間を節約する賢明な方法を示している」「興味深いのは、探索バチはこのすべてを、リーダーによる指図なしでやるということ」「探索バチはみな、どちらかと言えば質が低い選択肢でも、自分の発見したものを遠慮なく主張することも注目に値する」と指摘する。

 新居の場所を知っている僅か数%の探索バチが、1万匹もの分蜂群全体にどう情報伝達し誘導するのかなど謎も残っているものの、その合意形成の方法は多くの教訓を含む。著者自身もミツバチから学んだ意思決定の方法を、大学での月1回の教授会で応用し、その効果を実感しているという。この本を通してミツバチがより身近な愛すべき存在になってきた。

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<BOOK> 『ほくは「しんかい6500」のパイロット』

2013年11月21日 | BOOK

【吉梅剛著、こぶし書房発行】

 著者吉梅剛氏は1968年、広島・因島生まれ。国立弓削商船高専卒業後、海洋科学技術センター(現・海洋研究開発機構)に入所。2009年から「しんかい6500」の潜航長を務め、現在は海洋探査機の運用業務を担当。「しんかい2000」「しんかい6500」での潜航回数は319回に上る。

 「しんかい6500」は「しんかい2000」の後継機として1989年に完成した。その名前通り、6500mの深海まで潜航することができる。支援母船「よこすか」に乗せられて調査海域に運ばれ、深海生物やプレート(岩板)の動きなどを調査する。大きさは全長9.7m、幅2.8m、高さ4.1m、最大速力は2.7ノット。乗員は操縦士、副操縦士に研究者のオブザーバーを加えた3人。

   

 本書は多くの潜航体験を基に、一般にはなじみの薄い有人潜水調査船内の様子や機能、深海の風景などを詳細に紹介してくれる。どこで何を調査するかは全て公募によるという。最終決定までには海洋研究課題審査部会での各課題の採点による順位決めを皮切りに厳しい3つの〝関門〟がある。ただ調査課題に選ばれ、調査海域までたどり着いても、高波や濃霧などで中止を余儀なくされることもしばしばという。

 潜航前には海底地形図の作製やマニピュレーター(マジックハンド)の操作性の確認、搭載する研究機材の重量と浮量の算出など多くの作業が山積しているが、「そんな中でも重要な『儀式』がある」。母船のブリッジには小さな神棚があり、海の神様・金毘羅様が祀られている。その前に潜航チームや研究者チームも含め全乗船員が集まって、二礼二拍一礼し航海の安全と調査の成功を祈願するそうだ。

 小笠原海域で潜航調査中、サメのような大きな魚が何匹も潜水船を周回し、「ゴン」と体当たりしてきた。船内は一時騒然。離底し浮上を開始しても水中テレビカメラに体当たりするなど攻撃が続いた。やがて姿が見えなくなったが、母船に揚収された潜水船はカメラの油圧配管につながるビニールホースが膨らみ、今にも破裂しそうな状況だった。ホースが水中で破裂したら「潜水船は機能不全に陥っていたかもしれない」。その後図鑑で調べたところ、巨大魚の正体は「アブラソコムツ」という深海魚と分かった。

 潜航調査で厄介なのがゴミ類。中でもビニール袋(レジ袋)はプロペラ軸に巻きついたり、操縦席前の中央覗き窓に張り付いて視界を奪ったりすることも。海底の吹き溜まりのような所には〝レジ袋の墓場〟まであるそうだ。だが、最も怖いのは「海底で出くわす人工物、特に網やロープ」。操業中に岩などに引っかかり廃棄された漁具類とみられるが、もし潜水船がロープで縛り付けられ身動きが取れなくなったら……。そう想像すると、金毘羅様への参拝がいかに大切な〝儀式〟かも分かるような気がしてきた。

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<BOOK> 「楕円の江戸文化」(中西進著、白水社発行)

2013年11月16日 | BOOK

【パワフルな「かるた」の民衆+知の冒険者たち】

 著者・中西進氏は日本文学研究者で万葉集研究の第一人者。奈良県立万葉文化館名誉館長も務める。このほど俳優・高倉健氏らとともに文化勲章を受章した。本書は「パワフルな『かるた』の民衆」と「知の冒険者たち」の2部で構成する。筆者は江戸と京・大坂という2つの中心があった江戸時代を「楕円国家」と呼び、「その文化の波及運動はカム装置による運動としてとらえなければならない」と指摘する。

   

 前半の「パワフルな『かるた』の民衆」は『理念と経営』2009年1月号~13年1月号に「江戸いろは歌留多の知恵」のタイトルで連載したもの。江戸かるたを素材に、上方かるたと比較しながら江戸庶民の生き方を浮き彫りにした。例えば最初の「い」。江戸の「犬も歩けば棒にあたる」に対し上方は「一寸さきやみの夜」。「上方かるたがいかにも運命論者ふうなのに対して、江戸かるたがひどく現実派であるのが大違いでおかしい」。

 上方かるたが「上品で教養があって建前ふう」なのに対し、江戸かるたは「強烈な庶民感覚、お上へのからかいや反抗、生きている本音」が表れていると指摘する。「ろ」は江戸の「論より証拠」に対し上方は「論語よみの論語知らず」、「は」は「花より団子」と「針の穴から天をのぞく」。この「花のより団子」も「花だ紅葉だといって風流ぶっているおサムライさんよ、オレらはまずは餌でさあ」といった〝啖呵〟とみる。

 「ね」は上方の「猫に小判」に対して江戸は「念には念を入れ」。「いつもいつも、江戸かるたの落ち着く先は人間の悪意と、それに対する防衛策である……江戸かるたの絶望的な人間不信は悲しいが、尊い生き方の知恵である」と評価する。「わたしは、ほんとうに江戸かるたの一貫した庶民のエネルギー、お上への強い反抗精神、そしてみごとな知恵に、いつも感心してしまう」とも。

 後半の「知の冒険者たち」は『武道』2005年1月号~06年12月号に「道を拓く」として連載した。著者は17世紀から19世紀にかけての江戸時代は「大きな知を蓄積する時代」だったと振り返る。「古代天皇は仏教を立て、明治政府は国家神道を立てた。その中間に徳川政権の立てた儒教がある……知のあふれた江戸時代に、どう日本人が儒教を自分のものにしようとしたか」。

 その知識の変遷をたどるため、江戸時代に活躍した知識人・思想家24人を、生い立ちや著作を基に取り上げる。その中には徳川300年の官学となった儒学の始祖、林羅山や多くの門人を集め〝藤樹教〟とまでいわれた中江藤樹をはじめ、山鹿素行、貝原益軒、新井石、荻生徂徠、石田梅巌、本居宣長、杉田玄白、山片蟠桃、広瀬淡窓たちが含まれている。

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<BOOK> 「歌は季につれ」(三田完著、幻戯書房発行)

2013年10月30日 | BOOK

【懐かしの唱歌や歌謡曲全36曲の誕生秘話、俳句も織り交ぜながら】

 筆者は慶応大学卒業後、NHKでディレクター、プロデューサーとして主に音楽番組を担当し、退職後もテレビ・ラジオ番組の制作などに携わる傍ら、執筆活動にも力を注いできた。2000年に「櫻川イワンの恋」でオール讀物新人賞、07年に「俳風三麗花」で直木賞候補。ペンネームの三田完の「三田」は母校慶応の所在地、「完」は松本清張作品の挿絵を描いた風間完画伯の名前から拝借したという。

   

 本書は俳誌「夏潮」の2010年1月号から12年12月号まで丸3年36カ月にわたって連載したものを訂正・加筆したもの。「ネタはおよそ四半世紀のあいだ歌謡曲を飯のタネにしていた時代の記憶が中心」で、ヒット曲の誕生秘話や歌手の苦労話など豊富な話題を歯切れのいい文章で綴っている。祖母は近代女流俳人の草分け、長谷川かな女(1887~1969年)。その影響もあってか、著者も40代半ばになって「俳句にハマッた」という。本書にも歌ごとに著名な俳人の句を添えている。

 取り上げた歌は戦前・戦中の「美しき天然」や「野崎小唄」「天竜下れば」「満州娘」などから、戦後の「津軽海峡・冬景色」「ペッパー警部」「黄色いさくらんぼ」「天城越え」「ひばりの佐渡情話」「春一番」など、さらに「冬の星座」「蛍の光」「蝶々」「赤とんぼ」などの唱歌まで幅広い。「ラジオ体操の歌」も入っている。

 「雪の降る街を」は1951年12月のNHKラジオ連続放送劇「えり子と共に」の中で生まれた。台本通りにやると放送時間が余ることがリハーサルで判明。そのためにドラマの作者・内村直也がその場で歌詞を書き、音楽担当の中田喜直が即座にメロディーをつけたという。とても即興でできた曲とは思えない名曲だ。

 美樹克彦のヒット曲「花はおそかった」は最後に入る「バカヤロー」という絶叫が物議を醸した。作詞したのは星野哲郎。その「バカヤロー」は太平洋ビキニ環礁での米国の水爆実験による第5福竜丸の被爆につながっているという。亡くなった久保山愛吉さんの遺骨が故郷焼津に戻った際、遺族が集まった小学校の黒板に誰が書いたのか「バカヤロー」という文字が大書されていた。それが作詞家になったばかりの星野の胸にずっと残っていて、「直接反核の歌にするのは生々しいので、恋人を喪った男の歌にしたのだという」。

 「青い山脈」は西条八十作詞、服部良一作曲。もともとは1947年に石坂洋次郎が書いた戦後初のベストセラー小説で、その2年後、今井正監督、原節子、池部良の主演で映画化された。主題歌を歌ったのは藤山一郎と奈良光枝。溌剌とした青春歌だが、作曲した服部は「大阪から京都に向かう京阪電車のなかで思いついたという」。車内が買い出しの人で超満員だったため、五線譜に書くことができず「とっさにハーモニカの譜面で用いる数字を書き留めた」そうだ。

 「野崎小唄」を歌った東海林太郎はいつも燕尾服と直立不動だったことで知られる。東京音楽学校(現東京芸大)を目指したが、望みかなわず早稲田大学に進学し、卒業後は南満州鉄道に就職した。だが音楽への道をあきらめきれず、30歳を過ぎて「赤城の子守唄」がヒット、流行歌手としての地位を不動のものにした。「燕尾服という時代がかったステージ衣裳には、クラシックを目指した東海林太郎の矜持と哀しみが込められていたのだと思われてならない」。

 スポーツジャーナリスト増田明美さんのカラオケの十八番は石川さゆりの「天城越え」。1989年の東京国際女子マラソンで増田さんは35キロ過ぎの苦しい上り坂に差し掛かったとき、「寝乱れて隠れ宿 九十九折り 浄蓮の滝……」という歌に合わせ、腕を大きく振って頑張ったそうだ。2008年にはこの「天城越え」が、大リーグ・マリナーズのイチロー選手が打席に立つときの登場曲にもなった。その年の1月、イチロー選手は兵庫県尼崎市で行われた石川さゆりコンサートを、自らチケットを買って聴きに行っていたという。

 山口百恵のヒット曲「秋桜(コスモス)」はさだまさしが作った名曲だが、もともとの原題は「小春日和」だった。これをレコード会社のプロデューサーが歌い手のイメージに合わせて改題したそうだ。山口百恵には他にも「横須賀ストーリー」や「イミテーション・ゴールド」をはじめ大ヒット曲が多い。だが、この「秋桜」を紹介した文中でレコード大賞を一度も獲得していなかったことを初めて知った。「北の宿から」や「UFO」といったヒット曲とことごとくバッティングしたようだ。

 最後に各歌に添えられた俳句の一部を――。「他郷にてのびし髭剃る桜桃忌」(寺山修司)、「生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉」(夏目漱石)、「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)、「鳥の恋峰より落つるこそ恋し」(清水径子)、「春一番武蔵野の池波あげて」(水原秋櫻子)、「こちら俳人蟹と並んで体操せん」(村井和一)。

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