kazuフォトローグ

「徒然なる日常」を写真で語ります。

林 子平が、小笠原諸島を日本の領土として記録していたとは!

2010年10月31日 | 旅行
再び故郷仙台の話。
仙台名産の一つ、支倉焼が支倉常長にちなんでつけられたのは知ってたけど、林子平のことは、歴史上の人物程度。
秋保温泉行きの県庁前のバス停前。見慣れぬ銅像があったので、近寄って見ると林子平。
お恥ずかしいことだが、そんなに仙台と深いゆかりのある人物とは思いもしてなかった。
あわてて調べたら、「三国通覧図説」なるものを著わし、それが、のちにペリー提督との日米交渉の領土問題で、小笠原諸島の日本領有権を示す根拠になったというのだ。それも、日本で発禁になっていたため、ドイツ語・フランス語訳だったというのも情けない。北方領土・尖閣諸島にそんな翻訳本はないのか。(ちょっと飛躍し過ぎ)
晩年蟄居させられた彼は、「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と詠って、号を「六無斎」としたという。う~ん、故郷のこと知らなさすぎだ。
ついでにトリビア。ハヤシライスの考案者は、彼の子孫(実は子平の姉の子孫)だという。ほんとかね。




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4 コメント

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子平町も仙台にあるヨ (HARUKO)
2010-11-03 21:04:39
林子平は、とても薄くなった中学の歴史の教科書にも載っています。おもしろいことに、この教科書には支倉常長は載っていないんですよ。

2003年に、銅像めぐり「林子平」の中で少し詳しく書いてます。子平町もまだありますよ。
次をクリックしてください。ほかにも仙台の銅像、たくさん書いてるので暇があるときに読んでね。

http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/D17-hayasisihei.htm
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子平町はもと半子町 (kazu)
2010-11-03 23:48:27
よく調べられましたね。あの谷風と林子平と同時代とは。銅像、公園の一角にありました。私は谷風わた、しか知りません。まだあるのかな?

子平町、私が仙台にいたころは、まだ半子町だったような気がします。
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半子町 (HARUKO)
2010-11-08 16:13:04
へえ~!!

半子町が子平町になったの?

私の実家は川内なので、半子町には友だちも住んでいました。大崎八幡の裏手ですよね。

ちょっと気になって調べました。1967年に半子町から子平町に変わったんだそうです。

林子平の墓がある(龍雲寺)から、子平町らしいけど、ではなぜ以前は半子町だったのでしょう。

これって不思議。意味なd考えたことのない町名だったけど。「はんこ」が「しへい」ねえ~。漢字だと反対だけど、平仮名で聞くとまったく分かりませんでした。

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半子町は判子町ではない (kazu)
2010-11-08 21:25:02
HARUKOさんへ
半子町、これまでずっと鍛治町のようにハンコ職人の住む町名と思ってました。でも、印の方は判子ですよね。で、私も調べました。

伊達藩の二代藩主の時、大筒組の足軽を区別するため、髪の半分を剃り上げ、印としたそうです。ま、判子みたいなものですね。半分と判子
となれば、名前の由来も納得いきます。ちなみに、この人達は、半子衆と呼ばれたそうです。
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