小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

落ちた涙あるいは桜の精の物語  6

2006-03-31 15:21:36 | 小説
 天皇の見た夢では、サホ姫の落とした涙は「沙本の方」から来た暴雨となっていた。沙本つまり佐保である。
サホ姫は桜の精の佐保姫とかぎりなく同化しているのである。
 こんな古歌がある。

 散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき

 爛漫と咲き、はかなく散ってゆく桜の散華の美学あるいは無常観が、サホ姫の伝承にはある。
 桜の詩人、西行にはこんな歌がある。

 花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりけり

 桜の美しさは、私たちの心のなかに埋もれている無常観をよびおこすのだ。西行はそのことを「苦しかりけり」と詠ったのである。
 さて、サホ姫の悲劇には後日談がある。
 戦火に包まれた稲城の中で生まれた御子のことだ。この皇子は成人しても言葉を発しなかった。唖だったのである。異常な状況下で誕生し、実母の愛情にめぐまれなかったための心因性の障害であったのか。それとも、優生学上の問題であったのか。もし後者だとすると近親相姦によって誕生した子、つまり父親は天皇ではなく兄の子と考えられはしないか。
 サホ姫は、わが子だけは天皇の子として生かしたかったのではないのか。
 桜の咲く季節になると、私はそんなことを考える。伝承のかなたのサホ姫が真実を語ってくれるわけはないけれど。

 

     


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