小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

落ちた涙あるいは桜の精の物語  5

2006-03-29 21:02:59 | 小説
 古来、秋をつかさどる女神は竜田姫とされ、春をつかさどるのは佐保姫とされてきた。竜田姫の象徴が紅葉ならば、佐保姫のそれは桜だった。ちなみに俳句の世界では「佐保姫」は春の季語である。与謝野晶子には「佐保姫」という歌集があり、島崎藤村には「佐保姫」という詩がある。
 なぜサホ姫は春の女神であり、桜の象徴であるのか。『古事記』のサホ姫はそこにどんなふうに影を落としているのだろうか。
 さて、話は八世紀に飛ぶ。悲劇の文人宰相長屋王は、その広大な邸宅を作宝楼と名づけていた。サホ楼の当て字である。庭園に松や桜を植え、花の盛りには宴をひらいた。貴族、文人たちのサロンになっていたのが作宝楼である。このサロンでのお花見が今日の花見の始まりではないかという人がいる。それはともかく、その長屋王は聖武天皇を呪詛した疑いをかけられる。そして六衛府の兵士に作宝楼を急襲され、一族とともに自害して死んだ。悲劇の宰相というゆえんだ。
 それにしても人はなぜ桜の樹の下に集い、その花を愛でたがるのだろうか。人あっていう。桜の美しさは諸悪を払う、と。いっさいの醜悪を浄化するその花の美しさゆえに桜に思いを寄せて、花見をするようになった、と。それにしては、桜の花のなんとあえかにはかなく哀しいことか。
 長屋王の邸宅は佐保にあった。佐保は奈良の古代からある地名であって、現在の奈良市の北方一帯の総称であったらしい。佐保山があり、佐保川がある。おそらく『古事記』のサホ姫伝承は、このあたりが発祥地だと思われる。


鉄幹晶子全集〈4〉常夏・佐保姫・相聞・女子のふみ

勉誠出版

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