小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

落ちた涙あるいは桜の精の物語  1

2006-03-25 22:06:55 | 小説
 女の柔らかな膝枕で、うたた寝をしていた男は異様な夢を見た。錦色の小さな蛇が首にまとわりつき、にわかに天が曇って、ぱらぱらと雨が降り雨粒が顔を叩いたのである。
 はっと目覚めて身を起こし、呟いた。「妙な夢を見た」
 男はいま見た夢の内容を女に告げながら、自分の頬が実際に濡れていることに驚いた。手で顔をぬぐった。そして、ゆっくりと女の顔をのぞきこむようにして、女の目がうるんでいることに気づいた。
 男にはわかった。女の目から落ちた涙が自分の顔を雨だれのごとく濡らしたのだと。
 女は言った。「できなかった」と。「あなたの首を刺そうと三度、この小刀をふりかざしましたが、できなかった・・・」
 女の手には紐小刀が握られていた。
 またしても男にはわかった。その紐小刀が小さな蛇の象徴であったことに。
「なぜ」と男は訊いた。「なぜわたしを刺そうとした」
「兄です」と女は言った。「兄がそうしろと」
 なぜ?こんどは声にならなかった。しかしすぐに男の胸に黒い雲のような疑念がわいてきた。
 女の目は、まっすぐに男の視線をとらえて覚悟を決めているようだった。
「兄はわたしに、夫であるあなたか兄かのどちらかを選べと言いました。ほんとに愛しているのは兄なのか夫なのかと」
「で、なんと答えた」
「兄です、と」
 
 落ちた涙が悲劇の始まりだった。どこかギリシャ悲劇の骨格を彷彿させるこの物語は『古事記』のなかにある。
 男は垂仁天皇、女は皇后サホ姫である。話は『日本書紀』にもある。しかし、その文学性において『古事記』は『日本書紀』をはるかに圧倒しており、以後、日本書紀における説話は無視することにする。
古事記 (上) 全訳注 講談社学術文庫 207

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