小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

謎の人 サヤカ  6

2006-03-08 18:43:50 | 小説
 ところで、この稿を書き始めたとき、私は司馬遼太郎にサヤカのことを書いた文章のあることを知らなかった。資料にあたっているときにそれを知り、気になってこのほど読んだ。『街道を行く』2巻の「韓のくに紀行」で氏はサヤカの子孫たちのいる村を訪問していた。かなりの紙数をついやして、サヤカについて語っているが、雑賀と結びつける話はいっさい出てこない。氏はサヤカつまり沙也可の日本名を「佐衛門」と類推している。可という字は門と写し間違えたのだろう、というのである。これはしたり、司馬さんらしくない。あまりにも恣意的な類推である。だいいち佐衛門だとしても、これでは先には進みようがない。
 ただ氏も疑義を呈しておられるが、サヤカの手記という体裁をとった『慕夏堂記』(字を写し間違えたという本)は、後代のサヤカの子孫の手になるものであろうが、なにせ誇張が多い。
 サヤカは加藤清正軍の武将で部下3000人がいた、などというのが誇張の最たるものである。渡海した秀吉軍は九番に編成されていたが、一番隊は小西行長・宗義智らの軍勢、二番隊が加藤清正・鍋島直茂らであった。加藤清正の動員数は1万人。小西行長の動員数が7000人である。サヤカが加藤軍にいたにせよ、小西軍にいたにせよ3000人もの部下がいれば大名クラスの名のある武将ということになるし、それだけの人数が寝返ったら大騒ぎになっていたはずだ。だが、そんな記録はない。
 この稿の冒頭で、サヤカのことをあえて武将とは書かない、と私が記したのは、サヤカは傭兵にすぎず、おそらく少人数の仲間と投降したと思うからである。

謎の人 サヤカ  5

2006-03-08 05:40:16 | 小説
 雑賀衆の活動した期間は短かった。戦国時代後期の数十年といったところだ。秀吉の紀州攻めによって、壊滅状態となったからである。敗者は歴史を語らないから、雑賀衆そのものが謎に満ちているのはしかたがないが、来日していた宣教師フロイスが「大いなる共和国的存在」と形容した雑賀集団は、たしかに秀吉によって、ばらばらにされたのである。
 天正13年(1585年)秀吉は10余万の大軍をもって、雑賀を制圧している。おそらく雑賀の軍勢は数千、いかに鉄砲集団とはいえ、多勢に無勢だった。さらに内紛があって秀吉側についたグループもあったから、なおさらである。かって信長が二度攻撃し二度失敗した雑賀制圧を秀吉は成功させたのである。残党たちは全国各地に散らばって傭兵となった。
 ここで記憶しておく必要がある。雑賀にとって秀吉は仇敵であるということだ。
 するとこんなふうに考えられる。サヤカが雑賀であるならば、秀吉の朝鮮出兵に参加し、秀吉を裏切ったというよりも、もともと秀吉にひとあわ吹かせてやろうという意図を秘めていたのではないだろうか、と。

謎の人 サヤカ  4

2006-03-06 18:40:37 | 小説
 ところで私たちは鉄砲というインパクトの強いハード面にとかく目を奪われがちだが、鉄砲には弾がいる。いくらたくさんの銃器を保持しようが、弾がなければ意味をなさない。火薬の調合法つまり弾丸の作り方というソフトも必要なのだ。
 当時の黒色火薬は硝石、炭粉、硫黄の混合物だった。炭粉も硫黄も国内で入手可能だが、主原料たる硝石だけは入手不可能だった。天然物としては日本では産出されない物質だからだ。ではどうするか。中国やインド産の硝石を輸入するほかなかったはずだ。ということは海外交易のできるものしか手に入れることはできなかったのである。早くから半島や大陸と接触し、交易を行ってきた雑賀衆は、黒色火薬の製造に関する情報を、むしろ銃器情報以前に知っていたのではないか、というのが私の推測である。
 『信長公記』には1570年に「根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆二万」にすでに「鉄砲三千挺これある由候」という記述がある。雑賀鉄砲衆が鉄砲衆といわれるゆえんは、銃器保有数の多さもさりながら、弾丸作りのノウハウを会得していたことが大きいと思う。

(注:時代が下ると硝石を人工的に作り始めるようになる。たとえば三重の桑名藩には硝石の製造の専門的なセクションがあった。むろん火薬の原料用である)

謎の人 サヤカ  3

2006-03-04 17:53:24 | 小説
 雑賀は地名である。戦国時代には、今の和歌山市全域と海南市の一部を加えた地域が「雑賀」と呼ばれた。この地域に住むいくつかの土豪集団の総称が、雑賀衆であったと理解すれば足りる。その雑賀衆は、天下人であった信長や秀吉などとも戦い、きわめて高い戦闘力を持つ集団として、つとに知られていた。
 注目すべきは、航海術や鉄砲術に長けていて、水軍を構成できたことや、傭兵活動をも業にしていたことだ。なぜ鉄砲術に長けていて、雑賀鉄砲衆などと言われもしたのか。
 鉄砲は天文12年(1543年)種子島に漂着したポルトガル人によってはじめてわが国に伝えられた、というのが教科書的常識である。定説といってもよいが、これは事実ではない。すでに1400年代に鉄砲の類が戦闘に用いられた史料があるからである。種子島伝来は、これを契機に国産銃の生産がはじまったため、人々の記憶に鉄砲初伝として残ったのであろう。ともあれ種子島に伝来した鉄砲二挺のうち一挺を、紀州の土豪津田監物がわざわざ種子島に出向き、譲り受けて紀州根来(ねごろ)に持ち帰ったという記録がある。つまり雑賀には根来経由で鉄砲が伝えられたと見られている。しかし、紀州の人たちに鉄砲に異常な関心のあった事実に、私は別のかんぐりをする。紀州の根来や雑賀にはもともと旧式の鉄砲があったのだが、新式の銃らしきものが種子島に着いたと聞き、なんとしてでも、それを譲り受けたかったのではないか、と。
 航海の民でもあった紀州人は海外交易を行い、早くから銃に接していたと思われるのだ。

謎の人 サヤカ  2

2006-03-02 20:34:50 | 小説
 韓国の大邱市郊外、友鹿里というところにサヤカの墓がある。かって若かりし頃、商用で韓国には年に一回以上は出張していた。大邱にも行ったことはあるけれど、あの静かなたたずまいの街にサヤカの墓のあることなど、当時は知る由もなかった。ともあれ金忠善として彼はかの地で没したのであった。かように朝鮮に帰化してからのサヤカの事跡はわかっているのだけれど、彼がいかなる日本人であったかが謎なのである。
 通説では加藤清正軍の先鋒隊長で、部下3000人とともに朝鮮軍に投降、帰順したことになっている。「この戦いに大義はない」というのが寝返った理由であった。
 加藤清正軍の先鋒隊長ならば名前が特定されてもよさそうなはずだが、いや小西行長軍の先鋒隊長だったなどという説もあって、要するにこのあたりの事情は曖昧なのである。
 子孫の族譜では、姓は沙、名が也可となっているが、それに該当する日本人名は歴史上に見当たらない。語呂合わせになるが、サヤカは雑賀ではないかというのが、いま最も支持を受けている説となっている。雑賀鉄砲衆というような言われ方もする、あの雑賀(さいか)である。実際、雑賀孫市こと鈴木孫一の息子であろうと断定する向きもある。ちなみに鈴木孫一は司馬遼太郎の『尻啖え孫市』のモデルになった人物だ。サヤカは鉄砲術に長けていて、朝鮮の兵士たちに鉄砲の撃ち方や火薬の製法技術を教えていたというが、雑賀衆であれば確かにそれは符合はする。
 ところで、そもそも雑賀衆とはなんであったか。少し遠回りをしてみよう。


謎の人 サヤカ  1

2006-03-01 22:35:06 | 小説
 戦国の世に「サヤカ」という男がいた。本名はよくわからない。日本人だが、金忠善という韓国名がある。おそらく日本での知名度より、韓国での知名度が高いはずだ。なにしろ、日本ではこの人物のことは歴史から抹殺しようとした気配すらあった。秀吉の朝鮮出兵のおりの日本戦士(あえて武将とは書かない。理由はのちに述べる)で、朝鮮側に寝返った人物である。あまつさえ秀吉軍の強敵となり日本軍を苦しめた。韓国では英雄視されている人物のはずだ。そんな人物など存在したはずはない、というわが国の歴史学者もいたが、どっこい韓国には子孫がたくさんおられる。
 1999年、ソウル市近郊の幸州山城で「壬乱終戦400週年記念 韓日武将後孫親善会」が開催されている。「壬乱」とは壬申倭乱の略であり、わが国では「文禄・慶長の役」という、いわゆる秀吉の朝鮮出兵のことである。400年も経ったのだから子孫同士は仲良くしましょうという趣旨の集まりだったようだようだが、そのメンバーの中にも、サヤカの子孫はいた。 
 サヤカは漢字で「沙也可」と表記される。さて、彼はいかなる人物であったか。