小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

謎の人 サヤカ  8

2006-03-11 14:02:13 | 小説
 文禄元年4月12日(朝鮮暦13日)、その日、対馬は晴れていた。半島に侵攻する秀吉軍一番隊すなわち小西行長、宗義智らの軍勢は兵船700余隻をつらねて、辰の刻、対馬大浦を発って、夕刻釜山浦に至った。翌13日の早朝、釜山鎮城に総攻撃をかけた。戦うこと4時間、城は落ちた。朝鮮側は、一番隊の鉄砲攻撃に屈したのである。
 余勢をかって一番隊は慶尚道の東莱城を襲った。守るは宋象賢(ソン・サンヒョン)。実は攻める側の宗家はソン・サンヒョンとは親しい間柄だった。ひそかに彼を逃がそうとしたが、彼自身が応じなかった。扇に「孤城月暈り、大鎮救わず。君臣の義重く、父子の恩軽し」と父宛の辞世をしたため戦死した。もともと「戦わば則ち戦え、戦わずんば、則ち道を仮せ」という一番隊の要求に「戦死するは易し、道を仮すは難し」と答えた彼であった。
 その後、一番隊は破竹の勢いで諸城を攻撃、4月27日には半島中部の要衝たる忠州を陥れ、ソウルに迫ろうとした。
 二番隊の加藤清正らの軍勢は一番隊に5日遅れて4月17日釜山に上陸、慶尚道を前進、慶州へと兵を進めた。サヤカの寝返りはこの頃のこととなる。
 サヤカは「慶尚兵使臣朴晋(パクジン)に帰付」と『慕夏堂文集』は書くからである。サヤカについては誰もが投降とか降倭とか表現するけれど、言葉のイメージが事実を暗示している。もしも兵3000人を連れての寝返りならば、それは投降などというなまやさしいものではなく、大規模な叛乱ではないか。けれども誰もサヤカを叛乱者と声高に言うものがいない。むろん二番隊に叛乱の気配などなく、4月28日には忠州で一番隊に合流、5月2日には共にソウルに入っているのだ。


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