小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

落ちた涙あるいは桜の精の物語  2

2006-03-26 23:19:50 | 小説
「ほんとうに俺を愛しているならば」と兄は妹に言った。「天皇を殺せ。そして俺とおまえとで天下を治めよう」 
 兄の名はサホヒコ。祖父は開化天皇とされているから、皇位継承について血統的な問題はない。しかし、妹に天皇謀殺をそそのかした兄の真意には、最高の権力を手に入れたいという意図とは別のものがあったのではないか。そうでなければ、妹のおのれに対する愛の確認の必要がない。
 ひとりの女をめぐるふたりの男がいるのだ。いや、ふたりの男の愛に迷うひとりの女がいると言い換えたほうがよいかもしれない。しかもたんなる三角関係ではない。近親相姦がからんでいるのだ。
 サホ姫はなぜ兄のたくらみを明かしてしまったのだろうか。彼女は兄には兄のほうを愛しているといい、夫には兄を裏切ったのだから夫のほうをより愛しているといったようなものだ。つまり、結果的には彼女が夫と兄を争わせるのだ。
「吾はほとほとに欺かえつるかも」と天皇の嘆きの言葉を『古事記』は書きつけている。誰にだまされていたのか、妻にか、義兄にか。むろん『古事記』は近親相姦の事実をそれとあからさまに書いているわけではない。だが、話の展開がそのことを語っている。
 天皇はただちにに軍を興した。サホヒコを討つためである。 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。