小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

芭蕉の妻の命日

2011-10-04 18:26:38 | 読書
 4年前に刊行されていた別所真紀子氏の小説『数ならぬ身とな思ひそ 寿貞と芭蕉』(新人物往来社)を私は読んでいなかった。このほど別所氏に「寿貞私考」という論考のあることを知ったものの、その出典がわからぬまま、まあ小説を読めば、その論考の概要は察しがつくだろうと、アマゾンからその小説を取り寄せてみた。
 まさにビンゴというか、小説のあとがきに代えて、「寿貞私考」が付されていた。そこに次のようなことが書かれていた。

〈尚、伊賀上野の念仏寺に「松誉寿貞」なる墓があり、忌日が六月二日となっているので、これを寿貞の墓と見る説もありますが、芭蕉が訃報の返事を書いたのが六月八日、早飛脚でも深川から嵯峨へ六日で届けるのは無理なので、別人の墓か、寿貞の墓ならば忌日が間違っていることになるでしょう。〉
 

 前回のブログに書いたことと重なる箇所なのだが、別所氏の思い違いを指摘しておきたい。
 厳密には墓はなく、あくまでも過去帳の記述である。発見者は郷土史家の菊山当年男であるが、忌日は「二日の条」とあるのみで、なぜか月の記載はない。しかし「六月二日」と確実視されるのは「水無月のころ」寿貞が死んだとする別の史料があるからである。いったい深川から、旅先の京都にある芭蕉のもとに寿貞の訃報が6日後に届くわけがない、とする別所氏の断定はどこからくるのだろうか。江戸の通信網をみくびってはいけない。
 東海道を6日で走る「定六」という飛脚便があったのである。さらに言えば定六というのはいわゆる定飛脚であるけれど、仕立飛脚なら4日あれば江戸から京に便りが届けられたのである。寿貞の死は即座に飛脚便で知らされ、芭蕉もまた訃報を受け取るやいなや即座に返事を返しているのであった。
 したがって別人の墓?とか忌日が間違っているとか言うことのほうが間違っているのである。
 元禄7年6月2日が芭蕉の妻(あえてそう呼ぶ)寿貞の忌日であり、芭蕉がこの世を去るのが元禄7年10月12日。つまり寿貞の死から4ヵ月後に、芭蕉は寿貞のあとを追うのであった。
数ならぬ身とな思ひそ―寿貞と芭蕉
別所 真紀子
新人物往来社
 


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