goo blog サービス終了のお知らせ 
goo

お笑い

 かつて大江健三郎が「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」と問いかけた。時代は移り、TVでお笑い番組が氾濫する現代の日本では、「悲劇に悲しむ人々の前でお笑いは有効か?」という問いを発すること自体「空気が読めない」証拠なのかもしれないが、それでもイージス艦が漁船にぶつかった昨日の昼、ニュースが終わった後で「笑っていいとも」にチャンネルを変えたら、そんな問いかけがふっと頭に浮かんできた。確かにイージス艦の事故はスタジオ・アルタに詰め掛けて大笑いする人たちには関係のない話かもしれない。漁船に乗っていた親子の家族に防衛省や内閣の主だった人たちが謝罪してなし崩しに終わってしまう事件かもしれない。「そうじゃないだろう!」と声を荒げても、現代ではもっと大きな声にかき消されてしまう。そんな危なっかしい世界に生きているんだなあ、とこうした事件報道に接するたびに実感する。が、そんなものはその一瞬だけで、すぐに己の日常に埋没していってしまう・・、それが生きていくことなんだから仕方ない、などと言い訳めいた思いも浮かんでくるが、自分の顔を鏡で見る余裕もない暮らしを毎日しているのが実情だ。自分のことで精一杯だ・・。
 だが、こうしたことが少しずつ積もっていって、大きな鬱屈になるとするなら、どこかでガス抜きをすることがどうしたって必要だ。己が抱える鬱屈を忘れるためではなく、その鬱屈に立ち向かう気力を取り戻すためにも、何か己をリフレッシュする装置が必要なはずだ。それが古来から「命の洗濯」と呼ばれてきたものであろうが、それは人によって様々で、旅であったり、観劇であったり、友との馬鹿騒ぎであったりする。しかし、そうしたちょっとばかり大仕掛けなものではなく、簡単に「命の洗濯」ができるものは何かないかと考えてみたところ、「お笑い」というものが浮かんできた。それも小難しいことなど何も差し挟まぬ、頭の中を空っぽにして涙が出るほど笑い転げられるもの、そんなバカらしいお笑いがいい。
 
 そう思うと、この前の日曜日のフジTV系列の夕方からの番組はすごかった。4時から「R-1ぐらんぷり」が1時間半、7時から「レッドカーペット」が3時間、何がなにやら分からぬままに怒涛のように過ぎていった夜だった。「R-1ぐらんぷり」では芋洗坂係長なる見たこともないピン芸人が怪演で2位に入り、鳥居みゆきは何かに憑りつかれたのか?と言いたくなるようなアブナイお笑いを披露してくれた。優勝したなだぎ武はやっぱり面白かったが、残念なのは世界のナベアツを見落としたことだった。3位に入ったが、悔しそうな顔をしていたのでかなり自信はあったのだろう。
 その残念な気持ちも、「レッドカーペット」で2回も彼のネタを見ることができたのですっきりした。他にもアントキノ猪木、しずる、バナナマン、柳原可奈子などなどが息も切らせぬスピード感で次々と登場し、ずっと大笑いさせてくれた。1年程前にはこのレッドカーペットで、初めてムーディー勝山を知って思わずこのブログの記事にしたが、今回はエド・はるみという女芸人に驚いた。昭和39年生まれの彼女が若手芸人として売り出し中だというのもおかしい。



 ネタのおかしさもさることながら、彼女の外見から受ける印象とのギャップがいい。私が生きているこの世界とは次元の異なる世界に生きているような芸人が私は好きだ。

 笑い飛ばそうと思っても笑い飛ばせないことはいくらでもある。イージス艦に衝突された漁船に乗っていた漁師親子は私はいまだ行方不明だ。こんな現実を笑って忘れようなどと言いたいわけではない。かと言って、自分のこととして受け止めようというのも偽善的に思えてしまう。こんな私のような人間は中途半端なところでヘラヘラしながらどっちつかずで生きていくことしかできないが、それでもやっぱり知らないうちに心に重しができてくる。そんなときには思いっきり笑わせてくれるお笑いで我を忘れられれば一瞬なりとも爽快な気分になれる。などと言ったら、自分のことしか考えていないと顰蹙を買いそうだが、生きていくって現実的にはこんなものかな、とちょっとシニカルになったりもする。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )