○E.W.サイード『戦争とプロパガンダ』 みすず書房 2002.2
通勤の帰り道、私鉄の駅に隣接する小さな本屋に寄ったら、さして広くもない人文書の棚に、サイードの本が3冊並んでいた。どう考えても、雑誌とコミック、文庫本かビジネス書が売れ筋の本屋で、何を間違ってこんな本を入れたのだろう、と不思議に思い、なんとなく愛おしくなって買ってしまった。
サイードの『オリエンタリズム』を読んだのは、7、8年前になるだろうか。何の予備知識もなかったので、へえ~ヨーロッパ人にとってのオリエントって、アラブ社会のことなのか~と無邪気に驚いて読んだ。それから、2001年にバーミヤンの大仏が破壊され、9.11があり、「文明の衝突」論が流行り、アメリカはアフガニスタンに続いてイラクに侵攻した。一方、パレスチナ人による自爆テロと、イスラエルの報復攻撃も、果てしなく繰り返された。
やれやれ。書いているだけで気の滅入るような事件の羅列である。東アジアで暮らす我々は、北朝鮮問題の顕在化、中韓における反日運動の激化など、さらに切実な難題を抱えている。この悪意と反目の連鎖は、どこまで続くのか。世界中が出口のない袋小路で迷っているようだ。
本書は、2001年、9.11事件の直前から同年末までに発表された7本の記事をまとめたものだ。発表された先は、アラビア語の日刊紙『アル・ハヤート』であるが、同時にエジプトの英語新聞『アル・アフラーム・ウィークリー』にも掲載されており、同紙のWebサイトでも読むことができるという。
したがって、著者は、パレスチナのアラブ人、アメリカ国内のアラブ人、さらに世界中のアラブ人と英語を読む人々にむかって語りかけている。著者は、安易な自己正当化と報復のシナリオに熱狂するアメリカ国民に警鐘を鳴らしつつ、パレスチナ人民を「代表する」と自称する勢力(アラファトと自治政府)の欺瞞にも、容赦ない批判を浴びせる。さらに、著者の追及は、そのような指導者を許してきた「わたしたち」の責任におよぶ。西欧におけるユダヤ教やキリスト教の世論操作を非難すると同様の真摯さで、「わたしたち」はイスラム世界における宗教の利用を批判してきただろうか。非人道的な自爆攻撃を、一瞬でも容認したり支持したことはなかったか。貧困、無知、文盲、抑圧のはびこる社会を許容してきたのは「わたしたち」自身ではなかったか。
もし、悪意と反目の連鎖を断ち切れるものがあるとすれば、それは、力とか恫喝ではなくて、こういう、理性に基づく自省なのではないか。著者は言う、「懐疑的態度や再評価は必需品であって、ぜいたく品ではないのだ」と。
本書のように、格調高く真摯な記事が、Webで公開されているということも、非常に興味深く思った。日本では、暴言の巣窟みたいになっているインターネットというメディアだが、世界的には違うらしい。これって、国境を超えて通用する英語と違って、(ほぼ)一国一民族に限定される日本語は「公共性」に乏しい、という違いなのだろうか。
#追伸 TBやコメントを下さっている皆様。お返事できなくてごめんなさい。ちょっと仕事が忙しくて、自分の記事を書くだけで手一杯で...でも、ちゃんと読ませていただいてます。感謝々々。
通勤の帰り道、私鉄の駅に隣接する小さな本屋に寄ったら、さして広くもない人文書の棚に、サイードの本が3冊並んでいた。どう考えても、雑誌とコミック、文庫本かビジネス書が売れ筋の本屋で、何を間違ってこんな本を入れたのだろう、と不思議に思い、なんとなく愛おしくなって買ってしまった。
サイードの『オリエンタリズム』を読んだのは、7、8年前になるだろうか。何の予備知識もなかったので、へえ~ヨーロッパ人にとってのオリエントって、アラブ社会のことなのか~と無邪気に驚いて読んだ。それから、2001年にバーミヤンの大仏が破壊され、9.11があり、「文明の衝突」論が流行り、アメリカはアフガニスタンに続いてイラクに侵攻した。一方、パレスチナ人による自爆テロと、イスラエルの報復攻撃も、果てしなく繰り返された。
やれやれ。書いているだけで気の滅入るような事件の羅列である。東アジアで暮らす我々は、北朝鮮問題の顕在化、中韓における反日運動の激化など、さらに切実な難題を抱えている。この悪意と反目の連鎖は、どこまで続くのか。世界中が出口のない袋小路で迷っているようだ。
本書は、2001年、9.11事件の直前から同年末までに発表された7本の記事をまとめたものだ。発表された先は、アラビア語の日刊紙『アル・ハヤート』であるが、同時にエジプトの英語新聞『アル・アフラーム・ウィークリー』にも掲載されており、同紙のWebサイトでも読むことができるという。
したがって、著者は、パレスチナのアラブ人、アメリカ国内のアラブ人、さらに世界中のアラブ人と英語を読む人々にむかって語りかけている。著者は、安易な自己正当化と報復のシナリオに熱狂するアメリカ国民に警鐘を鳴らしつつ、パレスチナ人民を「代表する」と自称する勢力(アラファトと自治政府)の欺瞞にも、容赦ない批判を浴びせる。さらに、著者の追及は、そのような指導者を許してきた「わたしたち」の責任におよぶ。西欧におけるユダヤ教やキリスト教の世論操作を非難すると同様の真摯さで、「わたしたち」はイスラム世界における宗教の利用を批判してきただろうか。非人道的な自爆攻撃を、一瞬でも容認したり支持したことはなかったか。貧困、無知、文盲、抑圧のはびこる社会を許容してきたのは「わたしたち」自身ではなかったか。
もし、悪意と反目の連鎖を断ち切れるものがあるとすれば、それは、力とか恫喝ではなくて、こういう、理性に基づく自省なのではないか。著者は言う、「懐疑的態度や再評価は必需品であって、ぜいたく品ではないのだ」と。
本書のように、格調高く真摯な記事が、Webで公開されているということも、非常に興味深く思った。日本では、暴言の巣窟みたいになっているインターネットというメディアだが、世界的には違うらしい。これって、国境を超えて通用する英語と違って、(ほぼ)一国一民族に限定される日本語は「公共性」に乏しい、という違いなのだろうか。
#追伸 TBやコメントを下さっている皆様。お返事できなくてごめんなさい。ちょっと仕事が忙しくて、自分の記事を書くだけで手一杯で...でも、ちゃんと読ませていただいてます。感謝々々。