○張芸謀監督、高倉健主演 映画『単騎、千里を走る』
http://www.tanki-senri.com/
中国雲南省の麗江は、長いこと、私の憧れだった。念願かなって訪ねることができたのは、2004年の元旦を挟んだ年末年始の休暇である。麗江は、環境保全型の開発が進んで、小ぎれいな観光城市に変貌しつつあったが、それでも、一歩メインストリートを外れると、昔のままの生活が残っていた。それから、ちょうど1年経って、2004年の暮れ、張芸謀(チャン・イーモウ)が麗江で高倉健の映画を撮っているというニュースを知って、びっくりした。私の旅行が1年遅れていたら、彼らの撮影にぶつかっていたかもしれない。そんなわけで、早くから気になっていた映画である。
このところ、張芸謀の日本公開作品はだいたい見ている。この作品は、『HERO』『LOVERS』の娯楽大作路線とは異なり、『あの子を探して』『初恋のきた道』『至福のとき』の系譜に連なると言える。困難に置かれた主人公が見せる誠意。それに応えて、人々が寄せ合う善意。ただそれだけの、作為やトリックに乏しい、単純なストーリー。
素人の子役ばかりを使った『あの子を探して』、可愛いヒロインが主役の『初恋のきた道』『至福のとき』に対して、名優・高倉健というキャスティングが成功しているのかどうか、私は、ほかの高倉健映画を知らないので、判断できない。ただ、好みを言えば、ちょっと喋りすぎではないかと思った。
家族の愛情と古典演劇をモチーフにした中国映画ということで、私は孫周(スン・チョウ)監督の『心香(心の香り)』(1992年)を思い出した(→映画紹介blog)。あれは、実に寡黙だけど、心に沁みる映画だった。言葉にならない感情が、スクリーンからダイレクトに伝わってくるような感じだった。
それに比べると、この映画の高倉健のモノローグは饒舌である。彼は背中で演技できる俳優だとか何とか言っているわりには、痛々しいくらい、喋らされている。張芸謀監督は、「言葉にしなければ観客に伝わらない」という強迫観念を感じているのではないか。グローバリゼーションの中に呑まれた中国映画が、必然的に陥る運命なのかも知れない。
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中国雲南省の麗江は、長いこと、私の憧れだった。念願かなって訪ねることができたのは、2004年の元旦を挟んだ年末年始の休暇である。麗江は、環境保全型の開発が進んで、小ぎれいな観光城市に変貌しつつあったが、それでも、一歩メインストリートを外れると、昔のままの生活が残っていた。それから、ちょうど1年経って、2004年の暮れ、張芸謀(チャン・イーモウ)が麗江で高倉健の映画を撮っているというニュースを知って、びっくりした。私の旅行が1年遅れていたら、彼らの撮影にぶつかっていたかもしれない。そんなわけで、早くから気になっていた映画である。
このところ、張芸謀の日本公開作品はだいたい見ている。この作品は、『HERO』『LOVERS』の娯楽大作路線とは異なり、『あの子を探して』『初恋のきた道』『至福のとき』の系譜に連なると言える。困難に置かれた主人公が見せる誠意。それに応えて、人々が寄せ合う善意。ただそれだけの、作為やトリックに乏しい、単純なストーリー。
素人の子役ばかりを使った『あの子を探して』、可愛いヒロインが主役の『初恋のきた道』『至福のとき』に対して、名優・高倉健というキャスティングが成功しているのかどうか、私は、ほかの高倉健映画を知らないので、判断できない。ただ、好みを言えば、ちょっと喋りすぎではないかと思った。
家族の愛情と古典演劇をモチーフにした中国映画ということで、私は孫周(スン・チョウ)監督の『心香(心の香り)』(1992年)を思い出した(→映画紹介blog)。あれは、実に寡黙だけど、心に沁みる映画だった。言葉にならない感情が、スクリーンからダイレクトに伝わってくるような感じだった。
それに比べると、この映画の高倉健のモノローグは饒舌である。彼は背中で演技できる俳優だとか何とか言っているわりには、痛々しいくらい、喋らされている。張芸謀監督は、「言葉にしなければ観客に伝わらない」という強迫観念を感じているのではないか。グローバリゼーションの中に呑まれた中国映画が、必然的に陥る運命なのかも知れない。