日本裁判官ネットワークブログ
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1 私は昭和62年4月に夫婦で高知に転勤した。和歌山の次の2か所の任地では殆ど釣りをする機会がなかった。その次の高知では裁判所内が裁判官を初めとする釣り師で溢れており,主として船釣りをする機会に恵まれた。船釣りは初めての経験だった。
2 高知の裁判所では,年1回裁判所のレクレーションとして,ある土曜日に裁判所内の希望者で船釣大会が行われており,高知での4年間私も熱心に参加した。船釣り用の竿とリール,36リットルの大型クーラーを購入した。
3 私は船に酔う体質なので酔止薬を飲んだ。そして初めて船に乗ったとき,ある小さな事件が起こった。船を何艘か頼んで沖に出て,太平洋でアジとサバを狙うのであるが,サビキ釣りといって,やや大きめの針に餌に似せた紙様の疑似餌が取り付けられた針が5~6本付いた釣糸の先に,撒き餌を入れる小さな籠がついており,撒き餌で魚を集めて,魚を騙して釣る詐欺的釣法なのである。
4 釣り場に着いて竿を出しても最初はなかなか釣れなかったが,その内撒き餌の効果でサバの大群が浮上してきて入れ食い状態になった。大きさは約25センチでサバとしてはやや小振りであるが,それが2匹も3匹も同時に針にかかるのでとても重い。辺りは騒然としてまるで戦場のような騒ぎである。すごい勢いで大型クーラーにサバが増えてゆく。私も極度の興奮状態であった。
5 ところが快調に大型リールを巻いていた私の右腕が突如けいれんして動かなくなったのである。アジはおとなしく,走り回ることはないが,サバは元気で,辺りをグルグル円を描いて泳ぎ回るので,たちまち何人かの糸が絡んでしまった。「こらそこっ,何をしているか。早くリールを巻かんか!」と船頭に怒られた。しかしリールを巻こうにも全く右手が動かない。焦った。やっと竿を上げて,けいれんが治まるまで暫く休んでいた。しかしこれで音を上げてなるものか。再びおそるおそる竿を出し,ペースを落としてしぶとく釣った。大型クーラーはほぼサバで一杯になった。
6 サバで一杯の大型クーラーを車に積んで,意気揚々と宿舎に帰ったところ,妻に「こんなに釣ってどうするのよ。」とまた怒られてしまった。そして宿舎の裁判官に配ることにしたが,調理済みで配ろうと思っても,数が多すぎて調理などできはしない。「好きなだけ取って下さい。」と言って,調理しないままで引き取ってもらったが,それでも沢山余ってしまい,暫くはサバばかり食べて暮らす羽目になってしまった。
 その後私は重さ3キロの鉄アレイを2個買い込んで,釣りに備えて腕を鍛えた。そしてその後の釣り会で腕がけいれんすることはなかった。
 そのダンベル体操は,後に減量法としてブームになったりしたが,その前に私は既にダンベル体操をしていたのであり,20年後の今でも続いている。もっとも目的は釣りから減量に変更した。
7 高知では別の機会に,裁判官数名で船で真鯛釣りに行ったことがある。そして45センチの真鯛を1枚釣ってきた。他にイサキやシイラなども釣った。
  妻は,釣り師は釣った魚を自分で料理するのがルールであると主張する。妻の父親も釣りが好きで,自分で料理するというのである。そして和歌山のときから私が釣った魚は自分で料理した。
  そして初めて釣った真鯛についても自分で料理し,サシミを作ることになった。ウロコを落として内臓を取り,形が崩れて見るからにまずそうな天然真鯛のサシミが,少しずつまな板の脇の皿に盛りつけられた。ほぼ1人前くらいのサシミができたと思ってふと皿を見ると,全くサシミがなくなっている。驚いて振り返ると,小学生と保育園の2人の娘が醤油の皿を手にして,パクパクとおいしそうにサシミを食べていたのである。
8 結局サシミのかなりの部分を子供達が平らげた。とても美味しかったそうで,「お父さん,またタイを釣ってきて。」ということになった。家族はすっかり味をしめて,我が家ではそれまで食べていた養殖タイを全く食べなくなり,落語「目黒のサンマ」で「サンマは目黒に限る」調に言えば,「タイは天然に限る」ということになってしまった。
9 その後も何回かタイ釣りに行って,45センチ1枚と30センチ2枚のタイを釣った。ところが妻は,「あなたの手つきではおいしいサシミができない。」などと言うようになり,2匹目の天然真鯛の料理からは私を押しのけて,真鯛に限り自分で料理すると主張するようになった。自分で定めたルールなのに,勝手に変更して平然としているが,これは特別な例外だというのである。
10 高知では家族で,投げ釣りでキスを釣ったり,小舟で堤防に渡してもらい,いろいろと釣った。長女が手にしていた細くて短い竿が折れそうになる位弓なりになって,「お父さん助けて!」と叫んでいる内に,玉網を構える前に糸が切れてしまったこともあった。「逃がした魚」の姿は見ていないが,惜しいことをしたものである。
11 高知での4年間に船釣りした回数は僅か10回程度に過ぎず,漫画「釣りバカ日誌」の釣りバカ氏には遙かに及ぶべくもないが,船釣りや家族で釣りをして楽しかった高知の日々は,私たち家族に鮮やかな思い出を残してくれたのである。
 昨年結婚した長女は,共働きの傍らでときどき夫婦で釣りに行っているとのことである。(ムサシ)


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コメント
 
 
 
Unknown (はるな)
2014-10-05 10:21:05
某建設会社のOL時代、接待で下田につりに行った。まだ暗い早朝に釣り船は揺れながら沖を目指していた。ほとんどの人が船酔いをしているなか、わたしは、船内で花札をして小銭を稼いでいた。そして、生まれて初めての船つりで、めじな8匹とさば1匹を吊り上げた。
なんのことはない、船頭から「丘に上がれば、この魚は幾らの価値があると」と言われ、ほとんど現金をつる感覚だったから頑張れただけのことである。
 
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