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6 しかし薩土盟約は土佐藩主山内容堂の知らないままに成立した。それは土佐藩執政後藤象二郎が京都にいた藩主を説得するために京都に出かけたところ,土佐に帰国した藩主とすれ違ったという偶然の事情による。しかしその後象二郎による藩主の説得は難航し,徳川幕府に恩義を感じており,徳川慶喜と仲のよい藩主を説得することなど,到底不可能と思われる話であった。その頃長州に赴いた龍馬が大政奉還論を唱えたところ,長州の桂小五郎からは,土佐藩主に大政奉還の考えはないではないかとして,「嘘はいけんのお。坂本君。もううろちょろ動き回るんは止めた方がええ。」とまで言われ,今後一切龍馬を相手にしないという態度を取られてしまったのである。

7 しかし龍馬は見事に藩主容堂の説得に成功した。龍馬はまず最新式の銃1000丁を土佐藩に贈呈した。これは万一の戦乱の際,土佐藩を守るためのものである。また象二郎は藩主に,薩長同盟や薩土盟約の立役者が土佐藩士坂本龍馬であることを話していなかった。それは象二郎が龍馬の活躍を妬(ねた)んでいたためであるが,それらの話を象二郎から聞いた藩主が龍馬に会うことになった。そして龍馬は藩主に「大政奉還」の建白書を書いて欲しいと頼んだのである。藩主から「それは直訴かえ。直訴ならそれが受け入れられなければ腹を切らねばならない。」と脅されたが動ぜず,建白書の草案を差し出した。そして藩主から「答えや,坂本!武士も大名も無うなった世の中に何が残るか。」と詰め寄られたのである。龍馬が何と答えるか,ハラハラして見ていると,龍馬は毅然として,「日本人です。異国と堂々と渡り合う日本人です。」と答えたのである。そのくだりは,「土佐の大勝負」として見事に描かれており,この対決はまことに圧巻であった。そして土佐の大勝負は龍馬の勝利に終わり,時代の流れを読むに敏なる英明な藩主が「大政奉還」の建白書を書いたのである。

8 その後間もなく大政奉還が実現し,多くの者に恨みを買った龍馬は京都で暗殺される。幕末の歴史はまことに惜しい人物を失ったことになる。その犯人については諸説があるが,最近出版された「龍馬史」(磯田道史著,文藝春秋社刊)によると,詳細な資料の分析により,京都守護職で合津藩主松平容保の命令でその所属の見廻組の3名により,不意を突かれて斬殺されたことで,犯人についての歴史的な決着がついたようである。

9 「龍馬伝」にはとても感動したが,感動したというだけで忘れてしまうのは余りにも惜しい気がする。その感動の中から一体何を学び,日々の生活の中にどのように生かすことができるか。これはかなりハイレベルな 宿題ということになろう。龍馬は呑気で楽天的で,おおらかなお人良しで,誰からも好かれた。特に女性にもて,何人もの女性を泣かせた罪な男であった。強い正義感と情熱を持ち,先を読む能力に優れていた。発想が柔軟でアイディアマンであった。臆することなく素晴らしい説得力を発揮して,不可能と思えるような困難を次々に切り抜け,時代を動かした。それらの多くは天性の才能に負うところが大きいかも知れない。しかし努力もしたことであろう。法律実務家である我々が龍馬から学ぶとすれば「諦めずによく考えれば,いかなる難事件も見事に解決することが可能であることを忘れるな。」ということになるのかも知れない。(ムサシ)

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コメント
 
 
 
Unknown (歴史好き)
2010-12-17 01:21:29
私は、龍馬に説得された後藤象二郎、山内容堂だけでなく、容堂の建白書を受け入れた徳川慶喜もやはりえらいと思いました。慶喜には批判はあるでしょうが、同時代の同じような立場の人が、どれだけ同じ決断ができたかと思うと、やはり慶喜も評価されるべきでしょうね。それと、龍馬伝ではほとんど出てこなかったのですが、評判は一般に芳しくない島津久光も、斉彬亡き後、その意志を受け継いで最後まで貫いたように思われ、評価すべきと思っています。西郷さんが評価しなかったので、斉彬に比べて評判が低すぎる感じがしますが・・・。
 
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