裁判員裁判については,色々な角度からの議論があります。先日のこのブログの「昨日の最高裁判決について」(2・14)にもコメントがいくつも寄せられました。関心の高さを窺わせますが,そんな裁判員裁判について,当ネットワークが昨年7月3日に開催したシンポジウム「裁判員裁判の量刑」の結果が,判例時報(2/21号,判例時報社発行)に掲載されました。
裁判員裁判には,取り上げるべきテーマが多数あるように思います。その中で裁判員裁判の量刑という一テーマを取り上げたにすぎませんが,裁判員裁判に現実に参加された裁判員や法曹,それに裁判員裁判の研究者のご意見は,とても傾聴すべきもののように思います。法曹だけでなく,一般の方にもわかりやすく,読み応えのある内容になっています。是非ご一読ください。
印象的な発言はいくつもあるのですが,裁判員経験者の田口さんと,裁判員裁判に取り組んでおられる神山弁護士(日本弁護士連合会の裁判員本部事務局次長)の発言の一部を紹介します。全文は,判例時報(2/21号)を手に取ってお読みください。
【田口】
私自身が体験した裁判員裁判における評議は,ひとことで言うと,正に「熟議」に尽きます。・・・(中略)・・・認定作業やその順序,法律解釈など適切な進行をしてもらい,ただ一人でも疑問が湧くと,話を元に戻して検討し直すなど,丁寧で細やかな配慮にとても感服しました。そうやって何度も事実認定を繰り返して一つの答えに収斂していきました。議論の内容は言えないんですけれども,例えば,自分の意見を相手が納得するまで説明を尽くす。また,だれかの意見に対しては自分が納得するまで説明を求めるといったように,それらの主張のぶつかり合いが,合議体全員を交えて行われたのです。もちろん裁判官に対しても同様に納得のいく説明を求めて,また逆に理解してもらえるように言葉を尽くします。6人,裁判官入れて9人いれば,似たような考えはあっても最初から同じ考えを持つことは難しいので,それでも言葉の応酬を繰り返していくうちに,だんだんと出口の光が見えてくるんですね。そして,全員の意見を内包した一つの解に結実する論議を私は「熟議」というふうに自分では感じております。
ある裁判員メンバーが,考え過ぎて頭から煙が出ちゃうよとこぼしていました。また,会社の会議もこの評議のようだったらばどれだけ効率的だろうかとも(笑)。
【神山弁護士】
裁判員裁判は,我々弁護士にとって,量刑を判断する情状弁護というのは一体何かということを改めて考えさせられる契機になりました。・・・これまでの情状弁護は一体どんなものだったのか。きっとこんなものだったと思います。「被告人には多々有利な事情があります(これをどんどん述べていきます)以上を総合すると,寛大な処分が相当です」。まず有利な事情をできるだけたくさん述べる。そして,それぞれがなぜ有利になるのかという事情は説明をしない。ただ羅列をしているだけで,どうしてそれらを総合するとそういう結論になるのかという理由も言わない。最後の結論も明示をしないことがほとんどでした。もちろん,死刑に対して無期だとか,実刑に対しては執行猶予とかは言いましたけれども,懲役何年という検察官の論告に対しては,何年が相当とは言わなかったはずです。寛大な処分をと言っていたのです。
・・・・(中略)・・・
弁護士は,相当な刑が何であるかについて手がかりを持ちえなかったということになります。したがって,言い方が悪いんですけれども,ともかくこれだけ有利な事情があるから,あとは裁判官よろしくね,と言うしかなかったのです。市民の方が入ってきたことによっていろいろと前提条件が変わりました。 ・・・・(中略)・・・
そして,どうすれば説得ができるのか。どのように考えれば説得力が増すのかということを弁護士が真剣に考える中で,「情状」というものも進化するんだろうと思います。今日は裁判官がおられるので,裁判官に聞いてみたいところですが,裁判官ですらこれまでは余り情状について真剣に考えていたのかどうか,結局,その相場とかいうものによって,グチャっと決めて,はい何年ということではなかったのか。量刑判断というものは,例えばこういう事情があり,こういう位置づけを持つからというふうに,もっともっと考えていかねばならないのではないか。裁判員裁判になって裁判員の方々が判断するようになったおかげで,情状の進化があり,適切な量刑ができるようになる気がしています。
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