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「呪縛は、なぜ解けなかったのか」
                      山田 眞也

63年前の夏の記憶を探りかけて、当時、耳にした歌のメロディーと歌詞の一部が頭に浮かび、「ああ防人の昔より」という句だけを頼りに検索してみた結果、作詞:杉江健司、作曲:大村能章の「必勝歌」と題する歌がそれだったことがわかった。
 記憶に残っていたのは歌詞は、その最初にあった。

 今日よりはかへりみなくて大君の 醜の御楯といでたつ我は
 ああ防人の昔より 御民我等の雄心は
 皇国の護り富士が嶺の 千古の雪と輝けり

 これは確か、国民義勇隊の歌だったような気がする。
 国民義勇隊とは、アメリカ軍の本土侵攻に備えて、兵役についていない男子を俄か戦闘員として駆り出し、それこそ鎌や竹槍を持たせて戦闘に参加させる目的で編成されかけた集団の名称と言えばよかろう。
 私がこの歌を聴いたのは、おそらく敗戦の二、三ヶ月前、当時通っていた愛知県三河広瀬の小学校の教室であったはずだ。

10歳の子どもにも、山本五十六大将が戦死して元帥に列せられて以後の、日に日に悪化する戦局は、それなりにわかっていたが、今にも敵軍が上陸して、全国民の命が脅かされるという恐怖感まではなく、教え込まれた神州不滅の信念を疑うこともなかった。この戦争が100年続いても、最後には必ず勝つと言われるままに、不安なく暮らしていた。
アメリカは手ごわくても、そのうちには蒋介石が手を上げはしないかというような期待を持って、ニュースに関心を寄せていたと思う。
戦争が始まり、大勝利のニュースが連日紙面を賑わした当時から、新聞を熱心に読んでいたから、マレー沖海戦でプリンス・オヴ・ウェールスとレパルスが撃沈された記事を読んで「断末魔」という言葉を覚え、降伏したイタリアの首相バドリオ元帥を罵る記事で、「売国奴」という言葉を覚え、またムッソリーニがドイツ軍に救出されたころ、ヒトラーの演説を褒め称えて書かれた記事で、「獅子吼」という言葉も覚えた。「鬼畜米英」、「撃ちてしやまむ」という標語を、しっかり覚えたことは、言うまでもない。しかし、ついにヒトラーが自殺し、新聞は「総統薨去」と書いた。
ヒトラーの後継者はゲーリングと思っていたのに、デーニッツが指名されたという記事を読んで、不思議に思うくらいの知識があった。
 それでもドイツが敗北して完全に孤立した日本が、なお戦い続けることを不思議とは思わなかった。
 今では、あのころのことを思うたびに、なぜ沖縄の日本軍は、戦力が尽き果て、他国の軍隊であれば、圧倒的な敵に対して白旗を掲げることが当然とされたはずの事態に至っても、降伏することができなかったのかと、誰も言わないことを頭に浮かべる。
 もし沖縄の日本軍が、全滅よりは降伏を選んでいたら、さすがの日本軍部も戦争継続を断念していたであろう。そうしていれば原爆の投下はなく、ソ連の参戦もなかった。アメリカも、そこで日本が停戦を求めれば、日本本土占領までをごり押ししたかどうか。流血を避けるためになら、相当な妥協に応じたのではなかろうか。
しかし沖縄守備軍の指揮官が、日本以外の国であれば正当と認められる理由がどれほどあろうと、生き残った将兵と住民の命を救うために、降伏を選ぶ可能性は、全くなかったに違いない。
おそらく日本軍の指揮官で、そのような選択をする可能性がある軍人は、一人もいなかったろう。
仮に指揮下の部隊の戦力が尽き果て、戦闘を継続することの軍事的な意義が失われた状況で、指揮官が軍人としての義務を尽くし切ったとして、名誉ある降伏を部下に命じようとしたら、おそらく幕僚の誰かによって、「武士の風上に置けぬ卑怯者」として、たちどころに斬り捨てられたであろう。
旅順のステッセル将軍は、戦力がまだ尽き果ててはいない状況で、市民への配慮を優先させたものかと思われるが、日本軍に開城を申し出た。そのために彼は後に軍法会議で死刑を宣告され、皇帝によって減刑された。
シンガポールのパーシヴァル中将も、日本軍に降伏したが、それは上級司令部の判断に従ったもので、パーシヴァルの責任ではなかった。
スターリングラードのドイツ軍を指揮したパウルス大将は、敗色が明らかとなった後で、ヒトラーによって元帥に昇進させられたのに、結局ソ連軍に降伏してヒトラーを激怒させた。
また、パリ守備軍の司令官コルティッツは、「パリを焦土とせよ」というヒトラーの厳命に背き、妻子が処刑される危険を顧みずに、連合軍に降伏してパリを救った。
世界の戦史をみれば、軍人の本分は戦力が続く限り戦い抜くことにあり、軍事的には無意味な流血を最後まで続けることにあるとはされていないはずだ。
 しかし日本軍は捕虜となることも許さず、いわんや降伏など論外の沙汰として、刀折れ矢尽きるとも、死に至るまで戦うことを強制する軍隊であった。
 どんな指揮官も、この呪縛から自らを解き放つことはできなかったに違いない。 そういう呪縛さえなければ、沖縄の悲劇よりも前に、玉砕に次ぐ玉砕が伝えられていた時期にでも、日本軍の守備隊が敵に降伏し、そのことが国民の戦う意思を失わせ、軍部も戦争継続をあきらめる事態があり得たのではないか。
パーシヴァルを降伏させた山下大将が、フィリピンでマッカーサーに降伏していたら、そのとき戦争は終っていたであろう。
もし、そうなっていたら、沖縄の悲劇はなく、沖縄が今日なおアメリカの占領下にあるに等しい状況も、当然生まれはしなかった。
大日本帝国は自滅した。
その惨禍を一身に担わされた被爆者の苦しみは、63年を経た今も続いている。原爆は明らかな戦争犯罪だが、そこに至るまで無意味な戦争を続けた指導者が、結局アメリカと結託して戦争責任を免れた状況で、日本人がアメリカの戦争犯罪を指摘することができなくなったまま、今日に至っている。






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