9 妻の死による最大の教訓は,健康に少しでも異変があれば直ちに検査すべきであるということである。少し前に検査をして異常がなかったとしても,放置してはならない。前の検査でミスがなかったという保証はないし,前回の検査の時点で異常がなかったとしても,その後異常を生じたかも知れないのである。
私としては,何としても直ちに妻を検査に行かせるべきであったと痛恨の思いでいる。妻という存在は(夫もそうであるかも知れないが),夫の言うことを余り聞こうとしない存在のようである。友人の皆さんがそう言っている。「俺をひとりにしてくれるな。」と土下座してでも頼めばよかった。それでもダメなら,暴力亭主か鬼になって,強引に妻を病院に連行すべきであった。私は今後の生涯において,この点に関して自分を許すことは決してないだろうと思っている。そしてまた,その時の判断ミスの結果を,今自分の人生の様々な思いとして,悲しさや寂しさ,痛恨の思いに苦しむというツケを自分で支払っているということになっているのである。
10 私の親しい高校のクラスメイトで,乳ガンに詳しい医師の友人がおり,結局その友人に頼んで検査を受け,手術をして貰ったのであるが,妻が検査に行こうとしなかった時点で,直ちにその友人に電話して,どうしたものかと相談すればよかったと思うのである。その友人は,きっと直ちに検査を受けるべきだとか,乳ガンにもいろんな種類のものがあって,驚くべき速さで成長する乳ガンがあるという恐ろしい話を教えてくれたに違いない。やはり私が必死になって,ベストを尽くさなかったということであろう。
11 妻は,このたび階段を下りる際に,両手に荷物を持っていたようである。階段は危険な場所であるので,荷物は片方の手に持つだけにして,手すりに近寄って階段を下り,バランスを崩したような場合には,直ちに空いた手で,手すりを掴むことができるように心掛ける必要があったということである。そして階段は危険な場所であることをよく認識して,注意深く一歩ずつゆっくりと下りるべきであるということであろう。
12 私は,機会があるごとに,私の痛恨の思いを多くの人に伝えることにした。このような痛切な思いをする人をひとりでも少なくしたいと思うのである。「後悔は先に立たず」というが,今身に沁みてそれを実感していることになる。またその思いは今回の判断ミスという点だけではなく,結婚してから妻を亡くするまでの40年の結婚生活を振り返るときに,さまざまな小さな場面でそう思うのである。私は暴力亭主ではなく,比較的に細かな点に気付く人間であると思っているが,いざ妻を亡くして,もはや何もしてやることができなくなって仕舞うと,あの時もっと優しくできなかったものかとか,細かな点に気付かなかったこととか,寂しい思いをさせたのではないかなどと,甚だ多くのことを思うのである。それは,全く何もできなくなってしまった時に初めて,多くの後悔の念として頭に浮かんでくるような気がするのである。最近の私は,友人などに会うたびに,「奥さんに優しくしてる?」などと,余計なお節介発言をしているのである。
13 夫も妻も,配偶者との長年の生活に慣れて,謙虚に相手の意見や忠告に耳を傾けなくなって仕舞っているかも知れないが,「後悔先に立たず」と悔やむことのないように,まだ間に合ううちに,そっとひとりで反省し,密かに自分の態度を改めて,「出会いの頃」の気持ちを思い起こして一層優しくし,改めて妻に対して「再びの恋」をしたかったと,つくづく思うのである。(ムサシ)