3月29日付けの朝日新聞朝刊の「記者有論」という余りなじみのない欄に「最高裁長官退任 改革の意思受け継いで」という題名で、さいたま総局長渡辺雅昭氏が書いた記事が目にとまりました。
同記者の論旨は、長官が強い指導力を発揮して司法改革をすすめた、しかし、例えば裁判員裁判で供述調書朗読が横行するのはおかしい、と長官が言い出すまで現場の裁判官から声が上がらないのは嘆かわしい、長官の強いリーダーシップが現場を萎縮させた矛盾は確かにあるが、現状に甘んじる裁判官に人権を守る重大な職責は期待できない、怖い長官が去ったと安心するのではなくなぜ長官がげきを飛ばし続けたかに思いを致して欲しい、と裁判官の奮起を促すものでした。
最近のベストセラーとなっているらしい「絶望の裁判所」でも、前長官は矢口元長官より強権的と批判されていますが、どうでしょうか。
今回の司法改革には、いろいろ批判すべきところもありますが、裁判員裁判や労働審判の導入といった司法に対する国民参加の促進は、主権者たる国民が司法権を身近に、しかも自分たちが責任を持つべき課題であるという自覚を促した、という点で画期的であり、今後も着実に定着していくであろうことにあまり異論はないことと思われます。
しかし、裁判は自分たちがするものという感覚の従来の裁判官の意識には、そのような改革が容易には受け入れがたいことも想像に難くありません。
現場から司法改革に向けた声やアイデアがなかなか出てこないこともそのようなところに起因していると思います。
だからといって、上からの押しつけで本当の改革でなされるとも思えませんが、真の改革に向けた地道な活動には気の遠くなるような時間が必要です。
竹崎長官はそのようなジレンマをかかえた時代の長官として、国民のための司法の実現は待ったなしの課題と考えたのではないかと勝手に推察します。
その意味で渡辺記者の記事に共感をしました。
ただ、同記者が指摘した現状に流されやすい体質は、裁判官のみならず、弁護士、おそらく検察官にもある、あるいは私にもある法曹全体のものかもしれないと、自戒しなければ、とも思います。 子鉄あらため小鉄