日本裁判官ネットワークブログ

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竹崎長官の退任に思う

2014年04月01日 | 

3月29日付けの朝日新聞朝刊の「記者有論」という余りなじみのない欄に「最高裁長官退任 改革の意思受け継いで」という題名で、さいたま総局長渡辺雅昭氏が書いた記事が目にとまりました。

同記者の論旨は、長官が強い指導力を発揮して司法改革をすすめた、しかし、例えば裁判員裁判で供述調書朗読が横行するのはおかしい、と長官が言い出すまで現場の裁判官から声が上がらないのは嘆かわしい、長官の強いリーダーシップが現場を萎縮させた矛盾は確かにあるが、現状に甘んじる裁判官に人権を守る重大な職責は期待できない、怖い長官が去ったと安心するのではなくなぜ長官がげきを飛ばし続けたかに思いを致して欲しい、と裁判官の奮起を促すものでした。

最近のベストセラーとなっているらしい「絶望の裁判所」でも、前長官は矢口元長官より強権的と批判されていますが、どうでしょうか。

今回の司法改革には、いろいろ批判すべきところもありますが、裁判員裁判や労働審判の導入といった司法に対する国民参加の促進は、主権者たる国民が司法権を身近に、しかも自分たちが責任を持つべき課題であるという自覚を促した、という点で画期的であり、今後も着実に定着していくであろうことにあまり異論はないことと思われます。

しかし、裁判は自分たちがするものという感覚の従来の裁判官の意識には、そのような改革が容易には受け入れがたいことも想像に難くありません。

現場から司法改革に向けた声やアイデアがなかなか出てこないこともそのようなところに起因していると思います。

だからといって、上からの押しつけで本当の改革でなされるとも思えませんが、真の改革に向けた地道な活動には気の遠くなるような時間が必要です。

竹崎長官はそのようなジレンマをかかえた時代の長官として、国民のための司法の実現は待ったなしの課題と考えたのではないかと勝手に推察します。

その意味で渡辺記者の記事に共感をしました。

ただ、同記者が指摘した現状に流されやすい体質は、裁判官のみならず、弁護士、おそらく検察官にもある、あるいは私にもある法曹全体のものかもしれないと、自戒しなければ、とも思います。                                                 子鉄あらため小鉄


「私は負けない」(村木厚子著)を読んで(3)

2014年04月01日 | ムサシ

12 捜査官が事件の筋書を作るのは当然のこととしても,捜査官にとっても大切であるのは「真実な何か」ということであり,「無辜(むこ,無実)の者を処罰してはならない」のである。作成した筋書に疑問が生じた場合には,その疑問に対して謙虚でなければならない。筋書に反する内容の被疑者の弁解に謙虚に耳を傾け,真実を見つけ出そうとする姿勢が大切であって,筋書に反する弁解は虚偽であると決め付けて,強引に筋書を認めさせようとすると誤判の原因となる。
13 現実に弁護士として仕事をしていると,無実を主張した場合には有罪を認めるまで,担当警察官が調書を作成してくれないと,接見時に被疑者に訴えられることも決して少なくない。また被疑者が「私は絶対やっていない。」というので,「あなたを信用していいですね。」と何度も確認して,「無罪で頑張る。」と約束し,調書の内容が間違っておれば,署名も指印もしないことを確認して,数日後に接見に行くと,「実は私はやっていないんですが,認めれば罰金刑で済ませると言われたので,認めてしまいました。否認していると,身体の拘束が長く続くので,会社を首になってしまう。」などという話は枚挙に暇がない。多くの弁護士とそのような話をすると,概ね「わが国の軽微な事件の冤罪はかなり多いに違いない。」という認識で一致する。先日,袴田事件で再審開始決定が出された後のテレビ番組で,痴漢冤罪事件の映画「それでもボクはやってない」の周防正行監督も,「日本の軽微な刑事事件においては,かなりの高率で冤罪事件が存在するのではないかと考えている,。」と発言しておられたが,私も全く同感であり,日本の刑事司法は深く病んでおり,重篤な状態にあると考えている。
14 そうしてみると,個々の警察官や検察官にも問題はあるが,そのような捜査官を生み出している警察や検察の組織自体にも問題があるということなのであろう。裁判員裁判の場合には多少事情は異なるが,一般に刑事事件の判決の内容は法廷ではなく,裁判官が机に向かって警察官と検察官が作成した調書を丁寧に読んで決まることになる。そうすると調書の内容が真実に反しておれば,必然的に判決も真実に反することにならざるを得ない。本書に書かれているような調書作成の方法からすると,甚だ多くの弁護士が平野教授と同じように,わが国の刑事裁判にかなり絶望的になっているのではないかと思われる。
15 今からもう40年近くも前のことではあるが,私は司法試験に合格して東京で実務修習を受けた。検察修習では取調修習といって修習生が簡単な刑事事件の被疑者を取り調べて調書を作成し,処分を検討した。私が担当した簡単な窃盗事件の被疑者は「実は私はやっていません。」と否認したので,「警察の調書では認めているのに,どういうことですか。」と聞くと,「私がいくらやっていないと言っても,警察官は聞いてくれず,認めた方が軽く済むと言われたので,仕方なくやったことにしたのですが,実はやっていないんです。」と涙ながらに訴えたのである。妙なことだと思って色々と突っ込んだ質問をしたが,被疑者の弁解はなるほどという内容で,真実と思えた。そこで被疑者の弁解を纏めて,無罪を内容とする調書を作成し,修習指導官を補佐している若手の検事に提出したところ,「君のこの調書では被疑者を有罪にできないではないか。」と強い口調で怒られてしまった。私も種々反論したので激しい議論となった。私は,これで検察の実務修習の成績はひどい点がつけられるだろう,将来の進路として裁判官を志望していたので,おそらく裁判官になるのは無理だろうと覚悟した。ただどうしても納得できなかったので,私は指導責任者である修習指導官に直訴した。そして種々説明して「色んな角度から被疑者に聞いてみたのですが,私にはどうしても彼が犯人とは思えないのです。」と述べた。指導官からも色々と質問を受けた後,指導官は私が作成した調書を読んでから,「よく分かった。君の調書で行こう。無罪でよい。」と,ニコニコしながらおっしゃったのである。私は裁判官を棒に振ることも覚悟した悲壮な思いでいたために,このような検察官がおられることに感動し,そして尊敬した。
16 この指導官は検察官として優秀で,「切れ者」と評価されていたが,人間的にも魅力ある人物で,この検察官の影響を受けて,検察修習開始時には弁護士志望であった何人かが検察官に志望を変更した筈である。私はこの指導検察官の度量のお陰で無事志望どおり裁判官になることができたと,今でも心から感謝している。その人は先頃まで週1回テレビで拝見していたあの揉み上げの人である。
17 私は村木さんの本を読んで,検察官が,「疑わしい人は,例え真犯人ではなくても,全て有罪とする」ことに血道を上げるのではなく,検察官が国民の期待に応えて,「真犯人だけを有罪とし,例え疑わしくても,真犯人ではない者を誤って処罰することのないように」,本来の責務を十分に果たして欲しいと,改めて強く思ったのである。(ムサシ)