先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

レッドイーグルス、栃木戦はアイヌ文様ユニホーム 3月9、10日「強さをアピール」

2024-02-27 | アイヌ民族関連

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北海道新聞2024年2月26日 21:59

昨年11月に行われた記者会見で、特別ユニホームを披露するイーグルスの佐々木一正選手

 レッドイーグルス北海道は3月9、10日、苫小牧市のネピアアイスアリーナに、栃木日光アイスバックスを迎え、2連戦を行う。イーグルスの選手は、アイヌ文様をアレンジした特別ユニホームを着用して試合に臨む。

 特別ユニホームは、チームカラーである赤を基調に、アイヌ文様をアレンジした柄を胸元にあしらった印象的なデザイン。苫小牧市が、イーグルスと苫小牧アイヌ協会の協力を得て作った。昨年11月、市内で行われた記者会見で、イーグルスの佐々木一正選手(34)は「強さをアピールできるデザイン。シーズン佳境で、このユニホームの力を借りて戦いたい」と言っていた。

 イーグルスは3月10日まで、選手と同じデザインのユニホームの予約販売を公式オンラインストアで行っている。S~XLの4サイズがあり、価格は1万7千円から。

 ・・・・・

(武内敦貴)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/979939/


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先住権の未来考えた アイヌ民族の訴訟学習 池田高

2024-02-27 | アイヌ民族関連

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北海道新聞2024年2月26日 19:49

班を回って生徒の考えを聞く米家直子教諭(左)

【池田】池田高の1年生32人が、マイノリティー(少数派)の人権について学ぶ授業で、ラポロアイヌネイション(旧浦幌アイヌ協会)の先住権確認訴訟を学習した。米家直子教諭がアイヌ民族の歴史や、海外の先住民族の現状などを説明し、生徒は裁判の行方や先住権の未来を考えた。

 裁判はラポロアイヌネイションが2020年、国と道を相手に、浦幌十勝川でサケを捕る権利の確認を求めて提訴。札幌地裁が4月18日に判決を言い渡す。2月20日の授業では、この裁判で問われている先住権の未来について生徒が考えた。

 9班に分かれて意見を出し合った生徒からは「アイヌ民族の立場になって考えれば分かる」「お互いに少しでも納得できるよう話し合いで解決すべきだ」といった意見があった。

・・・・・

(椎名宏智)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/979828/


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アイヌ文化振興へ連携 平取町、大分の大学と協定

2024-02-27 | アイヌ民族関連

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北海道新聞2024年2月26日 19:05(2月26日 19:41更新)

【平取】町と立命館アジア太平洋大(大分県)は、学生の育成やアイヌ文化振興を目的に連携する友好協定を締結した。町は観光分野を専攻する同大の学生の実習先として協力し、アイヌ文化を生かした地域振興策を学んでもらう。

 協定書には、町が行う事業への学生の参加や、町の課題解決についての学生の助言など7項目を盛り込んだ。同大が本年度に新設した「サステイナビリティ観光学部」の学生が町内でアイヌ工芸体験に参加したり、博物館で情報収集したりする活動を想定する。

 ・・・・・

同町が大学や高校と同様の協定を結ぶのは5例目。(杉崎萌)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/979787/


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アイヌ刺しゅう 自由な色使い 白老のサークルが作品展

2024-02-27 | アイヌ民族関連

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北海道新聞2024年2月26日 18:36

色鮮やかなアイヌ文様が施された作品が並ぶ展示

 【白老】町内のアイヌ刺しゅうサークル「フッチコラチ」(岡田育子代表)の作品展が、しらおいイオル事務所チキサニ(末広町2)で29日まで開かれている。

 「フッチコラチ」はアイヌ語で「おばあさんのように」の意味。現在、町内外の40~80代の14人が参加している。

 今回は昨年の夏から冬にかけて作ったタペストリーや・・・・・

 展示は午前9時~午後4時。問い合わせはチキサニ、電話0144・82・6301へ。(斎藤雅史)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/979764/


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口承文芸や古式舞踊を楽しむ 平取 シシリムカアイヌ文化祭【平取】

2024-02-27 | アイヌ民族関連

2024.02.26日高報知新聞

北海道アイヌ文化協会舞踊チーム「パラル」が舞踊を披露

【平取】沙流川流域(シシリムカ)のアイヌ文化の伝承活動を発表する「第34回シシリムカアイヌ文化祭」が18日、町中央公民館で開かれ、町内外から約300人が来場しアイヌ文化の口承文芸や古式舞踊などを楽しんだ。

 平取アイヌ協会(木村英彦会長)、平取アイヌ文化保存会(長野環会長)、平取町二風谷アイヌ語教室(川奈野一信運営委員長)主催。

 開会式で来賓の遠藤桂一町長は「日頃の学習の成果を楽しみにしている。アイヌ施策推進法が令和元年5月に施行され、アイヌ政策交付金制度が創立して6年目を迎えるが、当町は相当な成果を挙げている。アイヌの伝統工芸文化、担い手育成など多方面から評価されている。21世紀・アイヌ文化伝承の森プロジェクトなど長年にわたる地道な活動が次の世代に繋げていけるよう、より一層進化したものにしていきたい」、藤沢澄雄道議は「ハワイの先住民と話した時、文化を伝えるために根本になくてはならないものは言語だと言っていた。アイヌ文化復興に向けてアイヌ語を大切にし次世代に繋げてほしい」とそれぞれあいさつした。

 同文化祭は、二風谷アイヌ語教室の子どもの部で開幕。教室生13人が歌、手遊びなどを発表し、同成人の部12人による口承文芸では、カムイユカラ(神謡)、ユカラ(英雄叙事詩)、イヨンノッカ(子守歌)など、平取アイヌ保存会の27人は、ウポポ(座り歌)、クリムセ(弓の舞)、アンナホーレ(鳥の舞)などの古式舞踊を披露。

 また、昨年10月に12日間の日程で行われた「青少年国際交流事業」(ニュージーランド短期相互留学)に参加した平取高校3年の進藤綾斗さんと仲山大温さんが、マオリ民族学校を訪問し、互いの文化を学び合いながら交流し、親睦を深めたことを報告した。

 特別公演の古式舞踊では、東京五輪セレモニーに参加した北海道アイヌ協会舞踊チーム「パラル」の16人がムックリ(口琴)やエムシリムセ(剣の舞)、フッタレチュイ(黒髪の踊り)など13演目を披露し観客を魅了した。最後は会場の観客と共に「輪踊り」を踊り一体となって交流しフィナーレを飾った。

https://hokkaido-nl.jp/article/32962


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松浦武四郎たたえる劇を熱演 松阪の記念館でまつり

2024-02-27 | アイヌ民族関連

中日新聞2024年2月26日 05時05分 (2月26日 12時52分更新)

劇「武四郎物語」を行った6年生たち=松阪市小野江町の小野江小で

 松阪出身で幕末の探検家の松浦武四郎(1818~88年)をたたえる「武四郎まつり」が25日、松阪市小野江町の松浦武四郎記念館周辺であった。特設ステージや飲食ブースなどが設けられ、雨天ながら盛り上がりを見せた。 (芦原遼)

 松浦武四郎は6度の蝦夷地調査を行い、北海道の名付け親となったことで知られる。アイヌ民族の地位向上にも努めた。...

https://www.chunichi.co.jp/article/858988


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ヘンリー王子&メーガン妃、カナダ滞在で自分たちの影響力を世界に再認識させる 夫婦は、わずか72時間のカナダ滞在で、大仕事を果たしたようだ。

2024-02-27 | 先住民族関連

BAZAAR 2024/02/26 BY EMILY BURACK

2020年の王室離脱以来、ヘンリー王子とメーガン妃を巡っては、オプラ・ウィンフリーのインタビューからヘンリー王子の回想録『Spare』、チャールズ国王の戴冠式出席など、さまざま騒ぎが収まってはまた出ての繰り返しだった。しかし夫婦は、今回の3日間にわたるカナダ訪問で、自分たちが世界の注目を集めるパワーカップルであることを、改めて世界に再認識させたようだ。

インヴィクタスゲーム(負傷した退役軍人たちによる国際競技大会)は、ヘンリー王子が、かねてより最も大事にしてきた理念のひとつ。2025年の大会まで1年に迫ったことを祝い、先週カナダ各地のコミュニティセンターでイベントが開催された。王子は「この数日間は非常に特別なものでした。皆さん一人一人が、毎日私たちをインスパイアしてくれました」と述べた。

ぎっしりと詰まったスケジュールの中で、カナダのブリティッシュコロンビア州ウィスラー、スコーミッシュ、バンクーバーを訪れた夫妻は、来年の大会に備え、障害者ウィンタースポーツを習得した退役負傷軍人たちや、カナダの先住民族ファーストネイションの人々と会った。

どこへ行っても、事前に計画された入念な予定表より遥かに長い時間を過ごしてしまう様子は、いかにもヘンリー王子らしい。例えば、ウィスラー・ブラッコムのスキー場では、アスリートたちと15分過ごす予定だったのだが、結局のところ王子はメンバー全員と話し(座位で行うシットスキーにもトライした)ため、45分滞在。ウィスラー・スライディング・センターでは、ボブスレーのスケルトンを1度だけ試す予定が、それでは済まず、繰り返しトライする様子も見られた。

今回、夫妻に同行したインヴィクタスゲーム経験者のマイク・ブージョワは次のようにコメントしている。

「夫妻にはもちろんキッチリとした予定表があるので、我々はそれに従ってスタンバイし、行動に移すわけですが、ヘンリー王子の目に止まった軍人がいると、予定表はもはや問題ではなくなります。王子は膝をつき、アスリートの目を見て、真剣な表情で彼らの話を聞いていました」

ブージョワは、今回のイベントのアンバサダーを務めており、2020年にはオランダ、ハーグで開催された同大会で妻ロリーと、カナダチームのメンバーとして戦った経験もある。

「私たちは何者でもありません。インヴィクタスゲームとその財団を支える仕事をする1000人のうちの1人に過ぎませんが、公爵は私たちのことをしっかりと憶えてくれていました。ヘンリー王子は、私との何気ないやり取りや、軍人としての経験を憶えていて、1~2年後に再会した時にも、当時の会話をふらっと持ち出すのです。かなり驚きます」

さらに「もちろん彼らは、毎日どういう人と接触するか事前にブリーフィングを受けているでしょう。ですが、会話のニュアンスや詳細は誤魔化せません。彼らの素晴らしさや影響力を表現するとしたら、会話をした一人一人が、自分の存在を認めてもらえた気持ちになるという点にあるかもしれません。どこからも取り残されず、取るに足らない存在でもない、そう思わせる力があるのです」と続けた。

ここ最近、またしても世間から批判の声を多く集めていたヘンリー王子とメーガン妃なだけに、自分たちが大事にしている理念にひたむきに集中し続ける2人の力は、なおさら注目に値する。

『Telegraph』紙が、サセックス公爵夫妻にとって今回のイベントは「自分たちが今でも機能しているのだということを証明できるか、それが懸かった3日間になる」という記事を書いた。するとすかさず、夫妻のスポークスパーソンが『Mirror』紙に次のような声明を出した。

「"2人にとって運命を左右する機会になる"という話は、これまで何度も繰り返し耳にしてきました。ですが、彼らはまだここにいます。絶えず、正当性を疑われ、批判されながらも、彼らは今も働き、自分たちが信じることを達成しようとしています。この2人は負けません」。

また、朝のTV情報番組『Good Morning America』のインタビューで、ヘンリー王子は家族の不和についてコメント。父チャールズ国王と短時間だが話をしたことに触れ、「私は家族を愛しています。飛行機に乗って会いに行き、彼と過ごすことができたことに感謝しています」と述べていた。

サセックス公爵夫妻が自分たちの活動に熱心なのは今回のカナダ訪問でも明らかで、ヘンリー王子は退役軍人たちに混じり、本領を発揮していた。

「ロイヤルの方と会う時は守るべき礼儀作法がたくさんあります。ですが、退役軍人同士が集まる環境では、私たちは彼の部下であり、彼は私たちの部下であるような、そういった関係になるのです。安全な場所ですから、一緒にいると鎧は脱ぎます」とブージョワは言う。

昨年のデュッセルドルフ大会でカナダ・チームの一員として戦ったジョアンナ・ラボンテ少佐は、ヘンリー王子とメーガン妃の支援は、負傷した退役軍人の心をよりパワフルなものにしたと明かす。

「負傷したことで、私は長年、自分は無力で目に見えない存在だと感じていました。彼らは、悪戦苦闘し将来に不安を感じている私たち軍人に光を当ててくれている気がします。『あなたの旅はまだ始まったばかりで終わっていない。退役したけれど、人生の新しい段階が始まったばかり。あなたは大事な1人の人間』。そう伝えてくれているのです」

「我々は、あの素敵なカップルにとって、本当に大事な存在なのだと心から感じます。スポーツを通して回復することにはとても大きな意味がある。それを私自身にもチームメイトにも伝えています。彼らの気持ちは本物です」

今回話を聞いたインヴィクタスゲーム出場者全員が同じことを言っていた。それは、この競技大会が彼らの人生を良い方向に変えた。そしてその重要な部分を占めているのは、ヘンリー王子とメーガン妃だということ。

「インヴィクタスゲームは精神的、肉体的、感情的に私の回復を大いに助けてくれた」とナイジェリアの選手ピースメイカー・アズグブラムは言う。

「以前は、このような状態になった自分の人生にどう向き合えばいいのか不安だった(彼は戦場で銃火を浴び、左足を失った)。だが、インヴィクタスゲームに初めて出場したことで、気分がよくなり、心から愛されていると感じた」と言う。

JEREMY ALLEN

左から2番目に立つのがスパロウ首長

今回のイベントは、大会のコミュニティーのみならず、2025年大会がカナダ先住民族のファーストネイションとパートナーシップを結んでいることでも、重要な意味を持つ。車椅子カーリングイベントでは、マスケアン・ファースト・ネーションのウェイン・スパロウ首長と、スコーミッシュ・ネーションのウィルソン・ウィリアムスが、伝統的なスタイルで歓迎を行い、先住民族としての土地承認メッセージを述べた。

ヘンリー王子は「領地に入ることを許してくれた、4つのファーストネーションの民族に心から感謝します」と述べた。また、サセックス公爵夫妻はスコーミッシュ・リルワット文化センターとマウント・カリー・コミュニティー・センターでファーストネーションの人々と会った。

スパロウ首長は、「公爵は『私は和解についてもっと学びたい』とおっしゃっていました。それは非常に重要なことです。初めて会った時に、彼はもっと学びたい、どうすれば一緒に前に進んでいけるのかと聞いてきたのです。その問いかけを、私は自分のコミュニティに持ち帰りました。それが何より大事なのです。私たちには、いつまでも過去にしがみついて、クヨクヨと悩んでいる暇はありませんよ。社会として、前に進まなくてはいけないのです」と述べた。

ヒルクレスト・コミュニティ・センターでの最後のイベントが終了すると、ヘンリー王子は、今回の全イベントに同行していた記者グループに近づいてきた。そして、寒さに冗談を交えながら、厚く御礼を述べた。過去にはあれほど記者を毛嫌いしていたにもかかわらず、インヴィクタスゲームにメディアの注目が集まることに関しては、心から感謝しているようだった。

そういう瞬間には、ダイアナ妃を思い出さずにはいられない。ヘンリー王子の温かさと周囲の人々をちゃんと認められている気持ちにさせる才能はまさに母親譲りだろう。それを使って自分が大事にしている理念に光を当てる才能も然り。わずか72時間の滞在で、ヘンリー王子とメーガン妃が与えた影響は明白だった。

インヴィクタスゲームが創設されて今年で10年。2025年は7度目の大会となる。ヘンリー王子は閉会のスピーチでアスリートたちに「私は皆さんがどれほど人のために働くことが好きか、知っています。人のために生きている瞬間が多くある方々ですから」と語りかけた。そして「私たち夫婦は、これからも人のために働き続け、全国で、そして世界中で人々を鼓舞していきます」と彼らに誓い、3日間の滞在を締めくくった。

https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/celebrity-news/a46846965/prince-harry-meghan-markle-canada-trip-2024-recap-240226-lift1/


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宗谷本の会が加藤さん偲び読む会 16日市立図書館で輪読会

2024-02-27 | アイヌ民族関連

稚内プレス 2024 年 2 月 26 日

 稚内北星学園短大(現育館大)教授などを務め平和などを題材に童話作家として活躍し昨年3月に亡くなった加藤多一さんを偲ぶ「馬を洗って・・・」を読む会が、3月16日午後2時から市立図書館で開かれる。
 稚内北星短大開学から5年ほど稚内で教授として在住し、その後は北海道の子ども、平和、アイヌ民族などテーマに数多くの児童文学作品を執筆した加藤さんを偲んで著作を読む会は、稚内などで本好きの人が集まり交流・学習会などを開いている宗谷子どもの本の会が企画した。
 読む会では戦争をテーマにした「馬を洗って」を会員や希望する参加者で輪読する。
 担当者は「読後の感想と共に加藤さんの思い出話しをしながら在りし日を偲びたい」と話し、市民多くの参加を呼びかけている。

https://wakkanaipress.com/2024/02/26/68187/


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石狩鍋モチーフの数量限定鍋に舌鼓 北海道の名付け親をたたえる「武四郎まつり」

2024-02-27 | アイヌ民族関連

三重テレビ 2024 年 2 月 26 日

北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の功績をたたえる「武四郎まつり」が25日、三重県松阪市で開かれました。

「武四郎まつり」は、松阪市出身で幕末から明治にかけて活躍した探険家、松浦武四郎について知ってもらい、アイヌ民族の文化を伝えようと毎年2月に開かれています。

石狩鍋モチーフの数量限定鍋に舌鼓 北海道の名付け親をたたえる「武四郎まつり」

© 三重テレビ

会場となった松浦武四郎記念館の周辺では、松阪牛の串焼きや松阪鶏焼肉などが販売されたほか、北海道の石狩鍋をモチーフにした武四郎鍋が数量限定で販売され、人気を集めていました。

来場者は「バターとコーン、鮭もたくさん入っていておいしかった」「武四郎のことを知らない人もいると思うので、歴史をもっと学んでほしい」などと話していました。

また2024年は、武四郎とゆかりのある北海道音威子府(おといねっぷ)村の特産品が4年ぶりに販売されたほか、当時、武四郎が巡った北海道北部にある天塩川の周辺地域をパネルで紹介するブースが初めて設けられました。

松阪市の竹上市長は「2024年は武四郎まつりが29回目、記念館が開場30周年。2025年が30回記念の武四郎まつりとめでたい続き。いろいろなイベントを組んでいきたい」と話していました。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/石狩鍋モチーフの数量限定鍋に舌鼓-北海道の名付け親をたたえる-武四郎まつり/ar-BB1iSCG3


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古式舞踊や児童劇上演 「武四郎まつり」に4000人来場 三重・松阪

2024-02-27 | アイヌ民族関連

夕刊三重新聞2/26(月) 17:40配信

アイヌの古式舞踊を披露する札幌大学の学生ら

 アイヌ民族の人たちを愛した幕末の探検家で北海道の名付け親・松浦武四郎(1818~88年)をたたえる「武四郎まつり」が25日午前10時から、誕生地の三重県松阪市小野江町で開かれた。物品販売など関連イベントもあり雨天の中で約4千人が来場しにぎわった。

(写真)小野江小6年生による武四郎の生涯をテーマにした劇=いずれも小野江町の小野江小で

 同実行委員会(委員長=山中和儀おのえ住民自治協議会会長)と市の主催。武四郎は6度の蝦夷(えぞ)地調査を行い、アイヌ民族の地位向上に尽力した。まつりは生没月である2月の最終日曜日に開催し今年で29回目となる。

 市立小野江小学校の体育館の特設ステージでは同小6年生による武四郎の生涯をテーマにした劇「武四郎物語」の上演、市と連携協定を結ぶ札幌大学ウレシパクラブの学生17人によるアイヌ民族の古式舞踊の披露などが行われた。舞踊は、自然の恵みへの感謝の気持ちを表現したもので、観客らはリズムに合わせて手拍子を取るなどして見入っていた。

 誕生地の「離れ」では、午前11時からと午後1時半からの2回、本居宣長記念館(殿町)名誉館長の吉田悦之さん、竹川竹斎子孫の東竹川家(射和町)当主の竹川裕久さん、歴史小説家の河治和香さんによるスペシャルトーク「歩いた!集めた!松阪の偉人三人衆!」が開かれた。

 3人は宣長と竹斎、武四郎について語り合い「生きた時代も業績も異なるが、よく歩き、観察し、それを記録した」ことが共通点として「これらの背景に地図好きということがあった」などと話した。

 物産と飲食エリアではみそベースにサケやコーン、ジャガイモなどを入れた「武四郎鍋」が人気を集めた。まつりはコロナ禍を経て4年ぶりに復活した「お菓子まき」で締めくくった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/a0f06afa66fb869868380e796836c8598e617b26


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潜伏49年で死去・桐島聡が属した「東アジア反日武装戦線」とは何だったのか

2024-02-27 | アイヌ民族関連

集中連載 第1回

現代ビジネス2024.02.26 太田 昌国

1970年代中頃に起こった連続企業爆破事件に関わったとして指名手配されていた桐島聡の死去が大きな話題となった。逃亡49年の軌跡が様々に語られたが、桐島が属していた「東アジア反日武装戦線」の思想と行動が正確に振り返られることはほとんどない。

60年代から70年代的の「政治の季節」に、社会運動が犯した過ちとなし得たことを真摯に見つめてきた民族問題研究者が、「反日」の全貌を明らかにする(集中連載=全4回)。

49年ぶりに現れた「重要指名手配犯」

「自分は桐島聡だ」「最期は本名で迎えたい」――それが、まもなく命が尽きることを覚悟した人物が、入院していた病院側に発した言葉だったという。私たちにしてみれば、交番の掲示板に貼られた重要指名手配犯の顔写真で、それとなく馴染みになっていたのかもしれない人物が、49年ぶりに現われたというのだ。

49年といえば、市井の無名人でもよいが、唐突にもわかりやすい事例を挙げると、夏目漱石や坂口安吾の寿命が尽きた年齢幅と同じだ。今年死後百周年を迎えたレーニンも53歳で死んでいる。漱石や安吾のように多産な仕事を生み出し得る、あるいはレーニンのように波乱万丈なまでの出来事に埋め尽くされた人生を送り得る時間幅だ。それだけの歳月を、この桐島というひとは、他人に正体を見せることなく生きてきたようだ。ひととして、ふと、胸を衝かれるものがある。

だが、当然にも、報道は感傷とは無縁に行なわれる。しかも、半世紀前、報道の現場にいた記者が30歳前後だったと仮定して、今や80歳だ。デスクは90歳や100歳になっていよう。捜査に当たった公安の刑事だって、同じことだ。事件の詳細・時代の空気・一斉逮捕・所属メンバーのあれこれ・公判の過程と裁判の争点・判決確定後の経緯ーーそれらを知る者は、もはや、現役ではあり得ず、すでに亡くなったひとも多いだろう。

過去を知らない若いひとたちが、インターネットを検索したり、大昔の新聞縮刷版を開いたり、切れぎれの情報を片手に摑んでは「関係者」の周辺をあたふたと駆け回ったりする。勢い、報道は単純化する。

桐島が属していたとされるのは「東アジア反日武装戦線」である。この名をインターネットで検索すれば、まず必ず出てくるのが、1974年8月30日に起きた東京・丸の内の三菱重工ビル爆破事件だ。それは、確かに、死者8人・重軽傷者380人を生んだ悲惨極まりない事件だった。テレビも新聞も、三菱事件の被害写真を添えて、「公安警察が桐島聴取」の第一報を流した。ニュースの末尾では、一様に、三菱事件で亡くなった方の遺族の談話が登場する。当然にも切実な思いが語られているのだが、事実との乖離が甚だしい認識しか持たないメディアによって「語らされている」という印象を受ける。

三菱重工事件とは何の関係もなかった桐島

なぜか。同戦線には3つの部隊ーー「狼」「大地の牙」「さそり」ーーがあった。結成時期はそれぞれ異なり、基本は個別行動だった。桐島は、1974年12月に結成された「さそり」に属していたのだから、同年8月に「狼」が行なった三菱の一件とはまったく関わり合いがなかった。「さそり」の思いはむしろ、死傷者を生まない時間帯に行動を設定することで、先行者が三菱で犯した失敗を批判的に克服しようとするところにあったことが、メンバーの証言で明かされている。

スピードを至上命題とする新幹線にも似た扇情的な報道の中では、「沿線の小駅」とも言うべきひとつひとつの事実なぞは、「石のように黙殺され」るほかはないのだ。驚きのあまり拙速になされてきている現在の初期報道が、時間の経過のなかで、事実に基づいて落ち着いて行なわれるように変化していくことを望みたい。

私は、1960年代~70年代の社会運動の高揚の時代を生きた人間のひとりとして、当時のさまざまな社会運動が孕んでいた「功罪」を見極めることの重要性を一貫して考えてきた。そのような立場から、以下、その思いを綴りたい。

この原稿を執筆している時点では(1月31日~2月3日)、その人物が桐島聡であると同定されてはいないが、すでに提供されている情報からすれば、そうである可能性は高いと判断できると私は考えている。それを前提として書くことを、予めお断りしておきたい。

桐島が指名手配されているのは、1975年4月19日に東京・銀座のビルにあった韓国産業経済研究所が爆破された件に関わる「爆発物取締罰則違反」である。この日には、別な部隊によって兵庫県尼崎市のオリエンタルメタルも同時爆破されているが、いずれも深夜のことで無人であり、死傷者は出ていない。「戦線」は次のような声明を出している。

「韓国産業経済研究所は日帝企業の韓国・台湾・マラヤ侵略に奉仕する活動を停止せよ。オリエンタルメタル製造などによる『韓国工業団地視察団』の派遣を中止せよ。オリエンタルメタル製造は韓国から撤退し、在韓資産を放棄せよ」

「怪我人を出してはいけない」原則

桐島が属していた「さそり」部隊が行なったのは以下の行動であり、同じ部隊に属したふたりのメンバーに対する起訴状においては、それらには桐島も「共謀」したとされている。「東アジア反日武装戦線」に合流するに際して「さそり」が立てた原則は、「怪我人を出してはいけない」だったという。

(1)1974年12月23日/鹿島建設PH工場爆破攻撃=花岡作戦。
(2)1975年2月28日/間組本社ビル6F営業本部(さそり)・同9F電算部パンチテレックス室(狼)・同大宮工場(大地の牙)爆破=キソダニ・テメンゴール作戦。
(3)1975年4月27日/市川市間組江戸川作業所爆破+同年5月4日/江戸川区間組江戸川作業所コンプレッサー爆破。
(以上、「=」のあとに記した作戦名は、実行者によるもの)。

上記(1)では、死傷者は出ていない。
(2)では、本社ビル9階爆破で1人が加療4カ月の骨折・熱傷を受けている。
(3)では、前者で1人が加療約1年3カ月を要する頭部外傷等を受けておリ、後者では死傷者は出ていない。

「さそり」で桐島と行動を共にしたとされる人物Aは無期懲役で服役中であり、同じくBは懲役18年の実刑判決を受けたが、2003年に刑期を終えて出所し、社会復帰を果たしている。そのBに対する控訴審(1986年7月~88年8月)で弁護人が出した「控訴趣意補充書(第四回)」によれば、上記(2)で「さそり」が「残業者はもはやいないだろう」と考えた時刻に仕掛けた爆弾で負傷者が出たことで、「桐島は激しく動揺した」とされている。

だが、49年後のいままで、桐島の逮捕・取り調べ・起訴・公判は行なわれておらず、本人自身による告白もなされていないのだから、以上に記したことすべてが事実かどうかは、原理的には藪の中と言わなければならない。その上で、以下のことに触れておきたい。

「さそり」が上記(1)で鹿島建設を攻撃の対象とした理由は以下である。

戦前の1945年6月30日、秋田県花岡にある同建設の前身である鹿島組作業所で働かせられてきた中国人労働者がそれまでの酷使に耐えかねて起こした蜂起は、警察と憲兵隊によって鎮圧され、事件後の拷問も含めると400人以上が殺された。ここの中国人労働者は、戦時中の労働力不足を補うために1942年に閣議決定された「華人労務者内地移入に関する件」に基づいて強制連行されたものだ。

戦後の鹿島建設が、その責任も取らないままに、再度ゼネコン大手として君臨していることへの、(実行者の言葉を使えば)「オトシマエ」をつけようとしたのである。1980年以降、ここで働かされた中国人と鹿島建設の間では、企業責任をめぐる交渉や訴訟がなされるが、それについては連載後半で触れる。

上記(2)も、戦前から戦後を貫いてゼネコン大手として企業活動を行なう間組の企業モラルに対する問いかけである。1945年3月、長野県木曽谷のダム工事現場で強制労働に従事させられてきた中国人労働者が暴動を起こしたが、この事業を請け負っていたのが戦前の間組だった。テメンゴールはマレーシアのダム建設予定地の名だが、現地では当時ダム建設反対運動が高揚しているのに建設を強行しようとしていたのが戦後の間組だった。

「戦線」の思想と行動を批判する立場にあっても、彼らが史実についての膨大で集中的な調査・研究を行なっていた事実から目を逸らすわけにはいかない。この間行なわれているメディア報道には、これらの基本的知識を持たない人びと/事実を知ろうとも思わない人びとが、勝手気ままな発言を繰り広げている事例に満ちている。

(第2回 なぜ彼らは「連続企業爆破」を行ったのか…東アジア反日武装戦線の思想が生まれた背景 に続く)

https://gendai.media/articles/-/124853


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なぜ彼らは「連続企業爆破」を行ったのか…東アジア反日武装戦線の思想が生まれた背景

2024-02-27 | アイヌ民族関連

集中連載 第2回

現代ビジネス2024.02.26 太田 昌国

逃亡49年・桐島聡が所属していた「東アジア反日武装戦線」は、なぜ「連続企業爆破」などという極端な事件を起こしたのか? それは、60年代から70年代にかけて高揚した「政治の季節」と関係があったのか、断絶していたのか? 「反日」実行者と同時代を過ごした民族問題研究者が、彼らの過激な行動を支えた、戦後日本への根本的批判の内実を読み解く。(集中連載全4回=はじめから読む

内ゲバと連合赤軍で退潮した新左翼運動

「東アジア反日武装戦線」(以下、「反日」と略す)がその名をもって活動したのは、1974年8月30日の三菱爆破から、75年5月4日の間組江戸川作業所爆破までの8カ月間だった。彼らはその間に、すでに触れた企業ビル・施設に加えて、三井物産、大成建設などのビルを標的とする爆破行動を続けた。

1960年代後半から高揚していた社会運動は、全共闘運動の終焉、主要な新左翼集団同士での凄惨な殺し合い(内ゲバ)の頻発、数多くの同志殺しの実態が明らかになった72年連合赤軍事件などを契機に、社会的な支持を失い、衰退の一途をたどっていた。

「反日」は、そのような大方の左翼諸党派とは、本来的に性格を異にしていた。自分たちが中軸になって革命を目指すために組織を拡大し、広く社会運動を展開するという道は選ばなかった。自分たちが生きる日本社会の成り立ちを歴史的に振り返り、それを現在の視点で捉え直す。そのうえで自分たちの活動方針を導き出すーーそのような志向性を持つ「反日」には、戦後史を研究/再検証する過程で、「平和と民主主義」を謳歌するかのような敗戦後の日本の姿が、まったく異なる姿で見えてきた。

戦前の侵略戦争への反省から、戦力不保持・戦争放棄を謳う憲法9条は制定された。だが、米国は、日本の占領統治を行なった優越的な立場から独立後の日本に軍事同盟である安全保障条約を結ばせて、広大な米軍基地の存在を認めさせた。また、北東アジア情勢の急変もあったので、いったんは武装解除した日本を「反共の砦」にするために再軍備するよう促した。

第二次大戦後に勃発した朝鮮戦争やベトナム戦争に際しては、米軍は在日米軍基地を最大限に活用し、海を越えて「敵」領域を攻撃した。他方、日本は、自衛隊は創設されたが憲法9条に護られて軍事予算の規模を縮小することができ、経済復興を優先する政策を取ることができた。

欧米中心主義を覆す現実を前に

第二次大戦での敗北については、最終局面は米軍の圧倒的な物量作戦に敗けた、しかも最後には広島・長崎への原爆投下によって止めを刺されたーーつまりは、米国に敗けたという受け止め方が社会に広く浸透した。もともとは近隣のアジア諸国に対する日本帝国の侵略戦争として始まった戦争だったとする捉え方は、現在でいう「左派・リベラル勢力」においてすら希薄だった。

1960年代半ばの64年、日本は高度経済成長期に入った。東京都心にすらポツリポツリと残っていたバラックふうの建て物は急速に消え失せ、瀟洒で堅牢なビルに様変わりしていった。外では、ベトナム戦争が日々激しさを増し、米軍は北ベトナムを爆撃し、南ベトナムのゲリラを一掃するためのナパーム弾の投下を行なっていた。

それらの米軍爆撃機は沖縄の基地から連日出撃し、負傷米兵は東京都心の野戦病院に収容された。50年代初頭の朝鮮戦争時の特需に引き続き、日本はベトナム戦争特需に沸いた。米兵が戦場で食するインスタントラーメンから、上記のナパーム弾に至るまでーーあらゆる商品の生産構造を備えた日本は、それらを世界中に売り出し、留まるところを知らない経済成長を続けていた。

目を世界に広げると、そこでも、世の中の見え方が一変しつつあった。従来の欧米中心主義(アジア規模で言えば、日本中心主義)の歴史観・世界観を覆す現実があちらこちらで生まれていた。

米国では、遠くベトナムにまで巨万の兵士を派遣して、べトナムの人びとの自己決定権を踏みにじって無慈悲な戦争を繰り広げることへの反対運動が活発に展開された。黒人や先住民族(インディアン)の人びとは、小国・ベトナムに、多数派=白人の下で征服・服従を強いられてきた自らの存在を投影し、反戦運動の先頭にたった。それはブラック・パワーならびにレッド・パワーと呼ばれた。

ラテンアメリカでも、アフリカでも、アジアでも、それに通底する政治運動や思想的な試みが生まれた。一国内部の階級関係の在り方に人間社会の矛盾を見出し、それを変革することで社会革命を展望する既成の論理に代わって、民族・植民地問題を軸に据えて、中枢部と周縁部の歴史的かつ現在的な相互関係の不公正を考察する社会革命の理論が影響力を強めていた。社会全体から見れば、後者の立場に立つ者は、まだまだ少数派であったとはいえ。

あえて「反日」を提起した理由は

「反日」メンバーは1948年から52年頃にかけて生まれている。したがって、上に書いてきた60年代後半には、20歳前後になっていよう。精神的にはきわめて多感な時期に当たる。「反日」には北海道出身者が多くいたが、植民者の末裔である自分が子ども時代から経験してきた先住民族=アイヌとの関係性を、前述の理論に即して捉え返すようになった。

まもなく、その覚醒を促進する書物が出版された。新谷行『アイヌ民族抵抗史』(三一書房、1972年)である。在日朝鮮人の存在を、日本の近現代史との関わりにおいて把握する歴史書も出版されていた。たとえば、朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社、1965年)である。

過去を記録したこれらの書物に学びながら、近代日本国家の在り方を再検討すると、そこに浮かび上がるのは、アジアで唯一の帝国主義国家となった日本の現実であった。しかし、すでに述べたように、多くの日本人は、「左派・リベラル勢力」を含めて、この自覚を決定的に欠いている。

また、敗戦直後の戦争責任の追及は戦勝国による東京裁判に委ねられたために、日本人自らが主体的にその責任を論じ、追及する機会を失った。民衆が、戦争を鼓吹した天皇、政治家、軍人、官僚、経済人、メディアなどの責任を追及することも、それに加担した己の責任を自己切開することも、現実には起こらなかった。

坂口安吾は、1945年8月15日とは「非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品である」天皇を担いで、軍部と国民(日本人)が合作した大詰の一幕に過ぎないと喝破した。「たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けようと、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!(中略)何というカラクリだろう。惨めとも又なさけない歴史的大欺瞞ではないか。」(『続堕落論』、初出は1946年12月1日、『文學季刊』)。

安吾の発言から「反日」の活動までには30年近い歳月の開きがある。「反日」メンバーがこの安吾の発言を読んでいたかどうかも知らない。しかし、敗戦直後にここまでの激しい言葉をもって日本社会にみなぎる欺瞞に怒った安吾の精神と、戦前と戦後の断絶がないままに、だらだらと続いていく日本社会に向かって、あえて「反日」を提起した彼らの捉え方には、通底するものを感じ取る。

「反日」は、ときどきの政府が採用する政策路線に反対するという政治の表層面における闘い方は選ばず、人びとの生活を決する経済の根幹に注目した。そして、戦前の植民地支配と侵略戦争の片棒を担いだ大企業が、それへの反省や補償もしないままに、戦後も存在し続けていることに「戦後日本」の象徴を見たのだろう。「連続企業爆破」とは、その現われだったのだ。

(第3回 東アジア反日武装戦線のメンバーの親たちは何を思ったのか? 作家たちは事件をどう描いたか?《桐島聡問題を考える》 に続く)

https://gendai.media/articles/-/124854


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東アジア反日武装戦線のメンバーの親たちは何を思ったのか? 作家たちは事件をどう描いたか?《桐島聡問題を考える》

2024-02-27 | アイヌ民族関連

集中連載 第3回

現代ビジネス2024.02.26 太田 昌国

「連続企業爆破事件」は、社会に深甚な恐怖を与えた。一方、実行者たちの親族などが救援運動を始める。過激な政治活動によって途轍もない過ちを犯した人々を、人類史のなかで救おうとする大江健三郎の言葉を紹介しながら、東アジア反日武装戦線がなしたことの時代への波紋を考察する。(集中連載全4回=はじめから読む

「反日」グループを描いた韓国映画

東アジア反日武装戦線(以下、「反日」)の特異な行動指針、目的達成のために爆弾を使うという手段、三菱事件の悲劇的な結果ーーそれは、当時の社会を根底から揺るがせた。ここでは、それがどのような波紋を及ぼしたのかを考えてみたい。

コロナ禍の渦中にあった2021年、一本の韓国映画が公開された。『狼をさがして』(キム・ミレ監督、2020年)である。狼とは、「反日」の狼グループを指している。監督は旧作が日本で上映される際に来日し、朝鮮半島に深い関心を懐いて行動した70年代の若者たちの存在を知った。調査を進め、東アジアの人々の「恨みと悲しみ」を胸に抱えていた彼らが、その行動のために「加害」の立場に立つことになった軌跡をドキュメンタリーとして作品化したいと思った。

日本では、現実の受刑者を、ましてや死刑囚を撮影したりインタビューしたりすることは認められていない。映画にはすでに刑期を終えて社会復帰している「反日」メンバーも登場するが、多くはこの50年近くにわたって「反日」の救援に携わった人々や弁護士、メンバーの親へのインタビューによって構成されている。いわば「主役」は不在のまま、カメラはその周辺を彷徨うという趣になる。

映画が明かすのは、「反日」はメディアから「思想なき爆弾魔」などの厳しい言葉で批判され非難されたが、そのメンバーを救援する活動が一斉逮捕(1975年)直後から絶えることなく続けられてきているという事実だ。関わったのは親族ばかりではない。見ず知らずの、さまざまな世代の人々がそこにはいる。

「恐ろしかった」「目を背けたかった」過去へ

子が逮捕された、ある母親は「この娘のお陰で、たくさんお友だちができた」と語る。「反日」は堅固な組織ではなかったから、救援は事件を知って集まった人々による自発的な活動だ。最初の行動であった三菱爆破で大勢の犠牲者が出ていることを痛みとして身に引き受けつつも、彼らを突き動かした動機を無視することはできない、と語る人が多い。だから、あえて要約して言えば、「批判的な救援活動」だと言える。

全国のミニ・シアター30館あまりで上映されたこの作品は、予想以上の観客に恵まれた。劇場には、「反日」と同じ世代の人々も詰めかけたが、当時のことを何も知らない若者の姿も目立った。長い時間が過ぎて、人々はそれぞれの立場でようやく、あの「恐ろしかった」「目を背けたかった」過去に、向き合うことができるようになったと言えるのかもしれない。

「反日」をテーマに劇場公開される映画を作り得たのは韓国の映画人だったが、振り返れば、メンバーに対する最高裁判決がなされた1987年には、「さそり」に属していた黒川芳正を獄中監督として『(東アジア反日武装戦線の)母たち』が8ミリで制作されている。母たちは戦前の軍国主義教育の中で育った世代だが、娘や息子が行なった行為に衝撃を受けつつも、面会・文通を重ねながら、日本社会と自分自身を見つめ直す経緯が描かれている。

文学・演劇の分野でも、「反日」をテーマにした作品が生み出されている。桐山襲の『パルチザン伝説』(初出=『文藝』1983年10月号)や松下竜一『狼煙を見よ』(初出=『文藝』1986年冬季号)は、いずれも単行本化されてのち、いくつもの版で刊行されており、一定の読者に迎え入れられていることがわかる。

演劇でも、私が知る限りでは、越光照文=演出『風のクロニクル』(青年座、1985年)、坂手洋二=演出『火の起源』(青年座、1994年)、鐘下辰男=演出『あるいは友をつどいて』(劇団ガジラ、2004年)などが公演されている。個々の作品に立ち入って論評する紙幅はないが、あえてこのテーマに取り組んだ複数の作家・劇作家たちの根底にある思いを推測してみると、連合赤軍のリンチ事件を知った大江健三郎の、次の述懐に近いのではないだろうか。埴谷雄高を相手にした対談で、大江は語っている。

《かれらを救いうるのは何か。それは逆にかれらをみて、彼らは一面的な実在にすぎない、かれらの信じ、かつ見るより以外に世界と人類があるのだと、ぼくらが想像しうるならば、そして神におけるような、あるいはドストエフスキーにおけるような総合的な視野にあの兵士たちをとりこみえれば、人類史の展望の上でわずかに救われる可能性がでてくるのだろうと思うのです》(『群像』1972年6月号)

衝撃的な行為から学びとること

大江はその思いを作品化し、『洪水はわが魂におよび』(1973年)と『河馬に噛まれる』(1985年)などに書きつけた。

社会から弾き飛ばされ、糾弾されるばかりであった実在の人物をフィクション化して描く映画・文学・演劇作品には、人間がなすどんな衝撃的な行為にも、また人間が犯すどんな失敗・間違いにも、そこから学び取るものがあるのだとする確信が見えてきて、人間の可能性/過ちを訂正する可能性に対する信頼が生まれてくるように思える。

別な観点からも、「反日」の波及力を思い起こしてみる。逮捕直後から「反日」メンバーの弁護人を務めた新美隆、内田雅敏両弁護士は、1980年代後半から90年代にかけて、前述の花岡事件に関わって在留中国人が鹿島建設(戦前の鹿島組の後身)に対して起こした未払い賃金の支払い交渉の代理人を務めている。

1990年7月5日、中国側と鹿島側双方による合意事項が発表され、鹿島は当時の強制労働に関わる企業責任を認め「深甚な謝罪の意」を表明した。中国側が求めた賠償請求は認めなかったが、中国人強制労働問題について日本企業が正式に謝罪した初めての例となった。

花岡鉱山での強制労働に関わる鹿島建設に対する訴訟は、その後も異なる原告によって提起されている。それは、2000年に双方の間で「和解」にまで至っている。この「和解」に関しては、厳しく批判する中国人も日本の関係者もいるが、この文章は、そこまで深入りする場ではないだろう。

「反日」の弁護人を担当した弁護士が、「反日」との関わりを持ったからこそ、日本が抱える植民地支配責任や、外国人を強制連行したり強制労働を強いたりした責任が問われる戦後補償案件が、日本社会が生まれ変わるために大事なことだと実感したとの思いを吐露していることに注目したい。

(第4回 東アジア反日武装戦線メンバーの終わりのない悔悟と謝罪…暴力によらない抵抗は可能か? につづく)

https://gendai.media/articles/-/124855


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東アジア反日武装戦線メンバーの終わりのない悔悟と謝罪…暴力によらない抵抗は可能か?

2024-02-27 | アイヌ民族関連

集中連載 第4回

現代ビジネス2024.02.26 太田 昌国

東アジア反日武装戦線「狼」は、三菱重工本社ビル爆破事件によって人を死なせた。メンバーの大道寺将司は43年間、獄中でひたすら悔悟と反省の日々を送り、謝罪の心を俳句で表現した。暴力による抵抗が犠牲者を生んだこの悲劇を凝視した先に、暴力が廃棄される未来を展望することができるだろうか?(集中連載全4回=はじめから読む

確定死刑囚は被害者をどう考えていたか

最後にどうしても触れておかなければならないことがある。

「反日」の行動によって生まれた犠牲者のことである。自分の国の加害の歴史を撃とうとする行動によって、他者を死傷させ、自らが「加害」の立場に立ってしまったことを、実行者たちは、とりわけその行動で死者を生み出してしまった「狼」はどう捉えていたのかという問題である。

「狼」に属していた大道寺将司は2017年5月、確定死刑囚のまま東京拘置所で病死した。逮捕されて以降の42年間、否、三菱事件を起こして以降の43年間、自らが死なせてしまった人々を思うことなく過ごした日は一日としてなかったのではないか。

三菱事件当夜も、メンバーが全員予定取り一堂に会した喫茶店で、予想外の悲惨な結果をもたらした自分たちの行為に打ちひしがれて、首うなだれて声もない時間が長く続いたとの証言がある。ひとの殺傷は意図しておらず、だから三菱ビルには「避難せよ」との予告電話もした。だが、実行者自らが事後的に自覚するのだが、爆弾の性能の見誤り、ガラス窓のビル街で爆弾を爆発させた時の衝撃と破壊力への認識の欠如、警告電話を掛ける時間設定の不十分さ……など、机上プランの空疎さと杜撰さは目を覆うばかりだ。

しかも「狼」は1カ月後には、三菱攻撃で死んだのは「同じ労働者でも無関係の一般市民でもなく、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である」との声明まで発表した。人間観の未熟さと想像力の欠如が露わになっている。これが「狼」の本意ではなかったことも、後になって本人たちの口から明らかにされている。

だが、この段階では、ここで引き返しては、開始した反日武装闘争が後退してしまうという「サンクコストバイアス」に囚われて、合理的な判断能力を失っていたのだとしかいいようがない。

大道寺将司は、迫りくる死を意識したのか、死の直前の面会者に語っている。

「実際に人を殺した人間と、殺していない人間とは、決定的にちがう」

大道寺が加害を悔いた俳句の数々

彼は、死刑が確定した1987年以降、面会・文通・差し入れなどの制限がきわめて厳しい環境におかれた。書物も十分には差し入れされなくなった。拘置所内に置かれている「官本」から、一茶や子規の俳句本を借りて読むうちに、自らも俳句を作るようになった。いつしか、俳句は、彼がもっともよく自己の内面を明らかにできる表現の場となった。晩年の20年間で4冊の句集を刊行するほどに多くの俳句を詠んだが、その中には、自らの加害を悔いる作品がいくつも見られる。

死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ(1998年)

春雷に死者たちの声重なれり(2000年)

死は罪の償ひなるや金亀子(2000年)

ゆく秋の死者に請われぬ許しかな(2000年)

いなびかりせんなき悔いのまた溢る(2002年)

危めたる吾が背に掛かる痛みかな(2012年)

加害せる吾花冷えのなかにあり(2013年)

秋風の立ち悔恨の溢れけり(2014年)

ひたぶるに詫ぶれど晴れぬ時雨かな(2014年)

彼は、晩年の4年間を拘置所内の病舎で過ごした。一般の独房も同じだが、病舎はとりわけ風景から隔絶され、天気の良し悪し程度しかわからないという。だから、こう記している。

《死刑囚である私が作句を喚起されるものと言えば加害の記憶と悔悟であり、震災、原発、そして、きな臭い状況などについて、ということになるでしょうか》(最後の句集『残の月』「あとがき」より、太田出版、2015年)

桐島も、先に触れたように、「さそり」が仕掛けた爆弾で、予想外にも負傷者が出た時に「激しく動揺」したことが、明らかにされている。大道寺にも桐島にも、「言葉で反省や悔悟の気持ちを繰り返し言い表しても、何になる。起こしてしまった結果が覆ることはない」という内面の囁きがあったことだろう。

大量殺人の主体としての国家

言葉では表現できない死者への詫びを、大道寺が肉体で示した時のことを、松下竜一は先に挙げた『狼煙を見よ』で描いている。大道寺将司らへの控訴審判決が出た1982年10月29日、小包に偽装された爆弾が都内の一郵便局で破裂し、2名が重傷を負った。

《マスコミは一斉に控訴審判決に対する過激派の報復無差別テロとして報道した。この事件を知った将司は、誰がどういう意図でやった事件なのか分からぬながら、かつての自分たちの三菱重工爆破での痛恨の失敗が教訓化されていないことで自らを責め、ついには下血して病舎に移るという事態に至ったのだ》

「狼」の爆弾で殺された人々の視線を及ばずながら感じつつ、ここまで書いてきた。

21世紀初頭は、とうとう、またしても戦争に次ぐ戦争で覆われている。2001年米国での「9・11」同時多発攻撃への報復戦争=米国主導の「対テロ戦争」は20年間にも及んだ。この戦争は、アフガニスタンやイラクなど非白人居住地域が戦場となった。

白人が犠牲になって初めて、報道に値する、したがって人々も関心を寄せる――世界には今も、そんな「死の不平等」を自覚せずして通用させる価値観がある。だから「対テロ戦争」の犠牲者の規模は詳らかではなかった。だが米国のブラウン大学ワトソン国際公共問題研究所の試算(2023年5月)によると、アフガニスタン、イラクなど中東地域での戦闘による死者は90万人、経済の破綻・医療インフラ崩壊などによる間接的な死者は360~370万人となる。驚くべき数の犠牲者である。

だが、この大量殺人の主体は「国家」であるがゆえに(とりわけ超大国・米国であるがゆえに)、その罪が問われることはない。「対テロ戦争」の終焉を引き継ぐように、もうひとつの超大国=ロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まり、3カ月前には地域大国=イスラエルがガザにおけるジェノサイド作戦を展開している。いずれの国の為政者たちも、自らが「国家」に拠って展開している戦争だから、人殺しをしても免罪されると信じて疑うことがない。

今から半世紀以上も前の1960年代から70年代にかけて、米国のベトナム戦争に象徴される「国家」の暴力的で放埒なふるまいに怒りを覚えて、さまざまな方法で闘う大勢の人々が世界各地に溢れ出た。「反日」の人々は、確かに、その只中にいた。「戦争」を遂行する「国家」を軸にして世界を眺めれば、上に見たように、21世紀の今も世界は半世紀前と変わらぬ姿で私たちの前にある。横暴な「国家」に対する抵抗の仕方、「国家」暴力との闘い方は、どうあるべきか――その課題は、現在を生きる私たちにとっても、避けられないものとして眼前にある。

悲劇を生んだ「反日」の試行錯誤

抵抗運動や解放闘争を担う側は、「国家」との対比で言えば、当然にも「弱者」である。その「弱者」が活動展開の方法として、武装・武器に(あえていうが)「安易に」依存した時に起きる悲劇を「反日」は体現した。現代において、抵抗運動が武器・武装に依拠することを批判的に捉え直し、「軍事の完全廃棄」を軸にして、「国家」による「軍隊廃絶」「戦争放棄」へと至る未来像を私たちが掴み始めるのは、20世紀末になってからである。

その具体的な例は、遠くメキシコで1994年に武装蜂起した先住民族組織・サパティスタ民族解放軍(EZLN)と、1999年に四半世紀におよぶインドネシア軍の占領に終止符を打ち独立した東チモール独立革命戦線のたたかい方に見ることができる。

前者は、国内と国際的な要因に基づく抑圧・搾取の状況に対して合法的なたたかいでは見向きもされないと判断し、やむを得ぬ武装蜂起をもって問題提起を行なった。その提起が一定程度メキシコ社会に浸透すると、武装部隊はマヤ地域の密林奥深く撤退し、政府に政治交渉を求め、これを実現させた。そして語った。

「正義と尊厳と民主主義と自由を求めて兵士となった私たちは、いつか、兵士であることが必要でなくなる日のために、消滅することが目的であるような任務を選んだ。いつか誰ひとりとして兵士である必要がない日を展望した兵士として」

蜂起から30年後の今日も、彼らはマヤの一定地域の自主管理を続け、いわば「国家の中の〈くに〉」を形成している。

後者の指導者、シャイナ・グスマンは、まだインドネシアの獄中に囚われていた1999年初頭の「新年のメッセージ」でこう言う。

「従来の第三世界解放闘争は、その大義に対する自己陶酔のあまり、武装闘争至上主義に陥りがちであった。武装抵抗が、ある時期やむにやまれず選択された手段であったとしても、正当で持続的な解決に至る最高の道は『対話』にある。それは、我/彼の双方に無用な犠牲者を生み出さないためでもある。独立の英雄たちは今まで、前体制の抑圧機関に属して人びとを逮捕し、投獄し、拷問した者に対して同じ仕打ちを行なって、それで平和が訪れたと言い張る場合が多かった。これでは流血と暴力を終わらせることはできず、われわれの願いとは実は復讐であり過去の敵対者を処罰することだということになる。それでは、〈独立〉や〈解放〉が新たな紛争の種を播いてしまうことを意味する」

グスマンの言葉には説得力がある。ことは、第三世界解放闘争に限らず、世界のどこにあっても、「解放」「自由」「平等」という理想を掲げて活動してきた(これからもするであろう)すべての運動と個人に対して、これだけは決して忘れてはならないとする呼びかけであるように思える。悲劇を生んだ「反日」の試行錯誤は、まぎれもなく、このような世界の状況に通底した問題を提起しているのである。

(了 連載をはじめから読む

https://gendai.media/articles/-/124856


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