集中連載 第4回
現代ビジネス2024.02.26 太田 昌国
東アジア反日武装戦線「狼」は、三菱重工本社ビル爆破事件によって人を死なせた。メンバーの大道寺将司は43年間、獄中でひたすら悔悟と反省の日々を送り、謝罪の心を俳句で表現した。暴力による抵抗が犠牲者を生んだこの悲劇を凝視した先に、暴力が廃棄される未来を展望することができるだろうか?(集中連載全4回=はじめから読む)
確定死刑囚は被害者をどう考えていたか
最後にどうしても触れておかなければならないことがある。
「反日」の行動によって生まれた犠牲者のことである。自分の国の加害の歴史を撃とうとする行動によって、他者を死傷させ、自らが「加害」の立場に立ってしまったことを、実行者たちは、とりわけその行動で死者を生み出してしまった「狼」はどう捉えていたのかという問題である。
「狼」に属していた大道寺将司は2017年5月、確定死刑囚のまま東京拘置所で病死した。逮捕されて以降の42年間、否、三菱事件を起こして以降の43年間、自らが死なせてしまった人々を思うことなく過ごした日は一日としてなかったのではないか。
三菱事件当夜も、メンバーが全員予定取り一堂に会した喫茶店で、予想外の悲惨な結果をもたらした自分たちの行為に打ちひしがれて、首うなだれて声もない時間が長く続いたとの証言がある。ひとの殺傷は意図しておらず、だから三菱ビルには「避難せよ」との予告電話もした。だが、実行者自らが事後的に自覚するのだが、爆弾の性能の見誤り、ガラス窓のビル街で爆弾を爆発させた時の衝撃と破壊力への認識の欠如、警告電話を掛ける時間設定の不十分さ……など、机上プランの空疎さと杜撰さは目を覆うばかりだ。
しかも「狼」は1カ月後には、三菱攻撃で死んだのは「同じ労働者でも無関係の一般市民でもなく、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である」との声明まで発表した。人間観の未熟さと想像力の欠如が露わになっている。これが「狼」の本意ではなかったことも、後になって本人たちの口から明らかにされている。
だが、この段階では、ここで引き返しては、開始した反日武装闘争が後退してしまうという「サンクコストバイアス」に囚われて、合理的な判断能力を失っていたのだとしかいいようがない。
大道寺将司は、迫りくる死を意識したのか、死の直前の面会者に語っている。
「実際に人を殺した人間と、殺していない人間とは、決定的にちがう」
大道寺が加害を悔いた俳句の数々
彼は、死刑が確定した1987年以降、面会・文通・差し入れなどの制限がきわめて厳しい環境におかれた。書物も十分には差し入れされなくなった。拘置所内に置かれている「官本」から、一茶や子規の俳句本を借りて読むうちに、自らも俳句を作るようになった。いつしか、俳句は、彼がもっともよく自己の内面を明らかにできる表現の場となった。晩年の20年間で4冊の句集を刊行するほどに多くの俳句を詠んだが、その中には、自らの加害を悔いる作品がいくつも見られる。
死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ(1998年)
春雷に死者たちの声重なれり(2000年)
死は罪の償ひなるや金亀子(2000年)
ゆく秋の死者に請われぬ許しかな(2000年)
いなびかりせんなき悔いのまた溢る(2002年)
危めたる吾が背に掛かる痛みかな(2012年)
加害せる吾花冷えのなかにあり(2013年)
秋風の立ち悔恨の溢れけり(2014年)
ひたぶるに詫ぶれど晴れぬ時雨かな(2014年)
彼は、晩年の4年間を拘置所内の病舎で過ごした。一般の独房も同じだが、病舎はとりわけ風景から隔絶され、天気の良し悪し程度しかわからないという。だから、こう記している。
《死刑囚である私が作句を喚起されるものと言えば加害の記憶と悔悟であり、震災、原発、そして、きな臭い状況などについて、ということになるでしょうか》(最後の句集『残の月』「あとがき」より、太田出版、2015年)
桐島も、先に触れたように、「さそり」が仕掛けた爆弾で、予想外にも負傷者が出た時に「激しく動揺」したことが、明らかにされている。大道寺にも桐島にも、「言葉で反省や悔悟の気持ちを繰り返し言い表しても、何になる。起こしてしまった結果が覆ることはない」という内面の囁きがあったことだろう。
大量殺人の主体としての国家
言葉では表現できない死者への詫びを、大道寺が肉体で示した時のことを、松下竜一は先に挙げた『狼煙を見よ』で描いている。大道寺将司らへの控訴審判決が出た1982年10月29日、小包に偽装された爆弾が都内の一郵便局で破裂し、2名が重傷を負った。
《マスコミは一斉に控訴審判決に対する過激派の報復無差別テロとして報道した。この事件を知った将司は、誰がどういう意図でやった事件なのか分からぬながら、かつての自分たちの三菱重工爆破での痛恨の失敗が教訓化されていないことで自らを責め、ついには下血して病舎に移るという事態に至ったのだ》
「狼」の爆弾で殺された人々の視線を及ばずながら感じつつ、ここまで書いてきた。
21世紀初頭は、とうとう、またしても戦争に次ぐ戦争で覆われている。2001年米国での「9・11」同時多発攻撃への報復戦争=米国主導の「対テロ戦争」は20年間にも及んだ。この戦争は、アフガニスタンやイラクなど非白人居住地域が戦場となった。
白人が犠牲になって初めて、報道に値する、したがって人々も関心を寄せる――世界には今も、そんな「死の不平等」を自覚せずして通用させる価値観がある。だから「対テロ戦争」の犠牲者の規模は詳らかではなかった。だが米国のブラウン大学ワトソン国際公共問題研究所の試算(2023年5月)によると、アフガニスタン、イラクなど中東地域での戦闘による死者は90万人、経済の破綻・医療インフラ崩壊などによる間接的な死者は360~370万人となる。驚くべき数の犠牲者である。
だが、この大量殺人の主体は「国家」であるがゆえに(とりわけ超大国・米国であるがゆえに)、その罪が問われることはない。「対テロ戦争」の終焉を引き継ぐように、もうひとつの超大国=ロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まり、3カ月前には地域大国=イスラエルがガザにおけるジェノサイド作戦を展開している。いずれの国の為政者たちも、自らが「国家」に拠って展開している戦争だから、人殺しをしても免罪されると信じて疑うことがない。
今から半世紀以上も前の1960年代から70年代にかけて、米国のベトナム戦争に象徴される「国家」の暴力的で放埒なふるまいに怒りを覚えて、さまざまな方法で闘う大勢の人々が世界各地に溢れ出た。「反日」の人々は、確かに、その只中にいた。「戦争」を遂行する「国家」を軸にして世界を眺めれば、上に見たように、21世紀の今も世界は半世紀前と変わらぬ姿で私たちの前にある。横暴な「国家」に対する抵抗の仕方、「国家」暴力との闘い方は、どうあるべきか――その課題は、現在を生きる私たちにとっても、避けられないものとして眼前にある。
悲劇を生んだ「反日」の試行錯誤
抵抗運動や解放闘争を担う側は、「国家」との対比で言えば、当然にも「弱者」である。その「弱者」が活動展開の方法として、武装・武器に(あえていうが)「安易に」依存した時に起きる悲劇を「反日」は体現した。現代において、抵抗運動が武器・武装に依拠することを批判的に捉え直し、「軍事の完全廃棄」を軸にして、「国家」による「軍隊廃絶」「戦争放棄」へと至る未来像を私たちが掴み始めるのは、20世紀末になってからである。
その具体的な例は、遠くメキシコで1994年に武装蜂起した先住民族組織・サパティスタ民族解放軍(EZLN)と、1999年に四半世紀におよぶインドネシア軍の占領に終止符を打ち独立した東チモール独立革命戦線のたたかい方に見ることができる。
前者は、国内と国際的な要因に基づく抑圧・搾取の状況に対して合法的なたたかいでは見向きもされないと判断し、やむを得ぬ武装蜂起をもって問題提起を行なった。その提起が一定程度メキシコ社会に浸透すると、武装部隊はマヤ地域の密林奥深く撤退し、政府に政治交渉を求め、これを実現させた。そして語った。
「正義と尊厳と民主主義と自由を求めて兵士となった私たちは、いつか、兵士であることが必要でなくなる日のために、消滅することが目的であるような任務を選んだ。いつか誰ひとりとして兵士である必要がない日を展望した兵士として」
蜂起から30年後の今日も、彼らはマヤの一定地域の自主管理を続け、いわば「国家の中の〈くに〉」を形成している。
後者の指導者、シャイナ・グスマンは、まだインドネシアの獄中に囚われていた1999年初頭の「新年のメッセージ」でこう言う。
「従来の第三世界解放闘争は、その大義に対する自己陶酔のあまり、武装闘争至上主義に陥りがちであった。武装抵抗が、ある時期やむにやまれず選択された手段であったとしても、正当で持続的な解決に至る最高の道は『対話』にある。それは、我/彼の双方に無用な犠牲者を生み出さないためでもある。独立の英雄たちは今まで、前体制の抑圧機関に属して人びとを逮捕し、投獄し、拷問した者に対して同じ仕打ちを行なって、それで平和が訪れたと言い張る場合が多かった。これでは流血と暴力を終わらせることはできず、われわれの願いとは実は復讐であり過去の敵対者を処罰することだということになる。それでは、〈独立〉や〈解放〉が新たな紛争の種を播いてしまうことを意味する」
グスマンの言葉には説得力がある。ことは、第三世界解放闘争に限らず、世界のどこにあっても、「解放」「自由」「平等」という理想を掲げて活動してきた(これからもするであろう)すべての運動と個人に対して、これだけは決して忘れてはならないとする呼びかけであるように思える。悲劇を生んだ「反日」の試行錯誤は、まぎれもなく、このような世界の状況に通底した問題を提起しているのである。
(了 連載をはじめから読む)
https://gendai.media/articles/-/124856