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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

リトアニアでアイヌ民族展を 国立博物館長が旭川・川村カ子ト記念館視察

2023-05-14 | アイヌ民族関連
会員限定記事
北海道新聞2023年5月13日 21:43

川村カ子トアイヌ記念館で展示物を見学するカチュクテ館長(中央)ら(西野正史撮影)
 アイヌ民族に関する展示を企画しているリトアニア国立博物館のルータ・カチュクテ館長らが13日、旭川市内の私設アイヌ文化博物館「川村カ子(ね)トアイヌ記念館」と旭川市博物館を訪れた。展示の協力依頼や視察が目的で、記念館では展示物について矢継ぎ早に質問し、理解を深めていた。
 リトアニアは、ポーランドの文化人類学者ブロニスワフ・ピウスツキ(1866~1918年)の生まれ故郷。同国立博物館はピウスツキが樺太や北海道で研究・交流したアイヌ民族の企画展を計画し、2025年の開催を目指している。
 カチュクテ館長らは今月上旬に来日し、11日に道内入りした。胆振管内白老町の「民族共生象徴空間(ウポポイ)」や日高管内平取町の「二風谷コタン」、札幌市の北大や北海道博物館を訪問。東川町では大正期のアイヌ文化伝承者、知里幸恵の生涯を題材にした町製作の映画「カムイのうた」の説明を聞いた。
 川村カ子ト記念館では建て替えたばかりの館内を見学。
・・・・
(和泉優大)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/845344/

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アイヌ語しってる? トウナハカイ

2023-05-14 | アイヌ民族関連
毎日新聞 2023/5/14 東京朝刊 有料記事 499文字
トウナハカイ トナカイ
 日本語(にほんご)の「トナカイ」は、アイヌ語(ご)の「トウナハカイ」が由来(ゆらい)とされます。樺太(からふと)では、アイヌの隣人(りんじん)であるウイルタという民族(みんぞく)がトナカイを飼育(しいく)して暮(く)らしてきました。ウイルタはトナカイにそりを引(ひ)かせたり、トナカイにまたがって乗(の)り物(もの)にしたりします。樺太(からふと)にはニヴフという民族(みんぞく)も暮(く)らしていますが、樺太(からふと)に住(す)むアイヌやニヴフはトナカイではなくイヌにそ
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https://mainichi.jp/articles/20230514/ddm/013/100/027000c

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アイヌの地、太陽光の影 「伝統的空間、守りたいが…」 馬主来沼西、進む発電計画 釧路市音別 /北海道

2023-05-14 | アイヌ民族関連
毎日新聞 2023/5/14 地方版 有料記事 2443文字
 白糠町と釧路市音別町(旧音別町)の境界にある馬主来沼(パシクルトウ)西側の民有地で、大規模な太陽光発電計画が持ち上がっていることが、関係者への取材で明らかになった。一帯はアイヌ民族の伝統的生活空間「イオル」とされ、民族の伝承も残されており、近隣に暮らすアイヌ団体の幹部らからは懸念の声が上がっている。【本間浩昭】
 明らかになった計画は、馬主来沼の湖畔の西側に当たる釧路市音別町の5ヘクタール強の原野。国道38号南側の海岸沿いに位置する。
 不動産登記簿などによると、2021年8月、東京都港区の会社(A社)が、紋別市の会社から条件付きで買い取るとの所有権移転仮登記をした。条件は「本件土地の状態が発電事業を行うのに適切であると、買い主が判断したこと」とある。さらに今年3月、売買により、関係があるとみられる港区の別の会社(B社)に所有権が移された。
 資源エネルギー庁の再生可能エネルギーの事業計画認定情報によると、この土地ではB社の名義で、発電出力1999キロワットの太陽光発電が22年3月に認定されていた。
 ・・・・・・
https://mainichi.jp/articles/20230514/ddl/k01/040/022000c

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台湾チョコレートの今昔物語――戦前の「森永村」と現代の屛東県

2023-05-14 | 先住民族関連
ニッポン.コム2023.05.13
日本統治時代の台湾台東に、森永製菓がカカオ栽培からチョコレート製造までをを一貫する大規模開拓集落があった。現在は先住民族パイワン族が住む「森永村」として名前が残っている。森永集落の発展と、台湾最南部で台湾チョコレートのポテンシャルを探った。
毎年金賞に輝く台湾チョコレート
台湾はウーロン茶の産地として有名だが、コーヒー豆やカカオ豆が生産されていることはあまり知られていない。
温暖な気候を生かしたカカオ農園を経営する先住民族や、古くなった茶畑をコーヒー栽培に転作している農家など、少量生産ながら徐々に市民権を得ている。
過日、100%台湾カカオを使った商品を作りたいという夫婦を、台湾南部のカカオの産地へ案内をすることになった。台北市内からは4時間、島を縦断する形で南へ向かった。
そこで知ったのが、台湾産チョコレートが日本の愛好家に喜ばれていること。「FU WANG」というメーカーが世界に名だたるコンテストで金賞を取ってから、日本ではなかなか手に入らない垂ぜんの的になっていることだった。
南部の高雄市をさらに南下した東港という町にある「FU WANGチョコレート農園」本店を訪れた。庭園風の建物はカフェが併設されており、台湾茶フレーバーを加えたものや、屏東産の桜エビ風味などアイデアを凝らした商品が並ぶ。日本語を話せるスタッフがいて、商品ごとの特徴などを説明してくれて、とても役に立った。
ブランド力は付いたが…
台湾鉄道でいえば南部「竹田駅」の近辺、屏東県の内埔郷がカカオ栽培の集積地だ。もともとパイナップルやビンロウの産地だったが、10年ほど前から費用対効果の高いカカオ栽培が始まったという。優良な土壌と日照時間が長く栽培に適したことから、新たにチャレンジする農家が多かったようだ。
もちろんチョコレートは何度となく食べたことがあるが、原料のカカオがどんな果実なのか知らなかった。農園の人が、実を木の幹にたたきつけて割り、ソフトクリームのように盛り上がった果実を「食べてみろ」と差し出す。口に入れると、ほんのり甘い。「カカオは果物なんですよ」と説明され、納得した。
果実を1週間発酵させ、5日から1週間程度乾燥して焙煎するとチョコレートの原料であるカカオ豆になる。
豆の買い付けに来た夫婦と数軒のカカオ農家を訪ねるうちに、台湾での栽培・販売の実態が分かってきた。
好奇心からカカオ栽培に乗り出しても、豆の販売価格が思ったほどには上がらず、栽培を諦めてしまう農家も少なくないようだ。結果として、カカオ栽培は限られた地域にとどまっており、全体的な盛り上がりに欠けている。
100%台湾産を売りにしている「FU WANG」のようなメーカーでなければ、品質が安定していて、価格もはるかに安いアフリカや中南米産の豆を仕入れる方がメリットがあるのだ。
気候に恵まれ、豊かな土壌の屏東県は、マンゴーやタマネギなどのブランド農産品も多く、行政が政策的な後押しをしなければ、本格的にカカオ栽培にシフトするのは難しいように感じた。
内埔をあちこち巡っているうちに、チョコレート作りが体験できるステキなカフェを発見。店内には、日本統治時代の新聞コピーが掲示されていた。「台東で森永製菓がカカオ栽培を計画」という内容だった。
スタッフによると、「記事の中で紹介されている村は、今も森永という地名を使っている」とのことだった。地図で調べると、確かに、台東の山深い場所に「森永」集落が現存しているようだった。
森永集落は、日本が去って中華民国の時代になっても、村の名前に「森永」を残した。筆者は好奇心を抑えられず、日を改めて訪れることにした。
「森永村は、全部燃えました」
台湾の最南端、墾丁に向かう途上、地図上で「お芋のヘタ」のように見える最もくびれた場所から、東西をつなぐ国道が通っている。ここ数年、長いトンネルが開通し、東海岸と西海岸が30分程度と、最短時間で結ばれるようになったが、そのバイパスのそばにポツンと広がっているのが森永村だった。
車のナビの目的地を「台東県逹仁郷公所森永村事務所」とした。近くまで来てもナビ上に森永の表示が現れず少し不安になったが、村の入り口に「森永教会」の立て看板を発見したところで村の存在を確認し、安堵(あんど)した。

村の入り口にあった「森永教会」の立て看板
急な登り坂を上がった先が目的地。名前から役場の出張所のような場所を想像していたが、今は「森永村活動中心」となっていて、老人たちが手作業をしていた。台湾の先住民族のお年寄りは、上手かどうかをさておき日本語を話せる人が多い。帽子をかぶったお年寄りに「ここはモリナガ村ですよね」と尋ねると「そうモリナガ。ミルクキャラメルを作った工場があったよ」とたどたどしい日本語が返ってきた。
「ワタシの部族のナマエはウリ。トオサンはタケダセイキ。日本の兵隊だったよ。士官学校も行ったよ。トオサンにはずいぶん日本語を教えてもらったんだが。しばらく使わないと忘れて…」とカタコトの日本語と台湾華語を混ぜての会話になった。ウリさんはパイワン族の元村長で、中国名は林さん。ここからさらに奥に入ったタレレク集落の出身だという。
「私たちタレレク村から1953年にここに引っ越してきた。元々ここはモリナガの工場と宿舎があって、全員日本人ね。でも戦争が終わって、日本人は全部焼いて行った」
村を焼き払って日本に帰った?意外な話に少し面食らったが、もう少し事実関係を調べようと、近くで「VuVuの厨房」という食堂を切り盛りしているタミクさんに話を聞いた。すると、話は確かなようだった。
筆者は、先住民族の集落に日本人が入植して、カカオ作りを奨励。周辺の住民が工場の働き手として動員されたのではないかと考えていた。しかし、実際には、開拓されていない「森」を伐採して、カカオ工場を建て、日本人を中心とした集落を形成し、チョコレートを生産していた。それが、終戦とともに撤退。工場に火を放って離村した、ということなのだ。
廃墟になった村にパイワン族が移住
確かに、森永村は山中の先住民族の集落としては道路がきちんと整備されており、どことなく計画されたような区画になっている。中央に工場跡地の「森永村集会場」(日本が撤退後は小学校となり、現在は校庭が集会広場になっている)が鎮座している。日本人が去った後、交通の不便な場所で暮らしていたタレレク集落の人々が丸ごと移住し、「森永」の名をそのまま使い続けた。現在の人口は300人程度である。
タミクさんによると、森永製菓が過去に開拓したカカオ畑や栽培技術は伝えられたことはなく、現在も栽培している住民はいないという。元々狩猟採集が主な生活スタイルのパイワン族にとって、農業技術の習得には時間が必要だったのかもしれない。
家屋の表札から、「森永」の読み方は日本語が引き継がれていることが分かる
夢に終わった「カカオ王国」は引き継がれるか?
歴史をひもとけば、米国で洋菓子作りを学んだ森永太一郎が、明治時代の後半(1899年)に現在の森永製菓を創業、当初はスイスから職人を招き、輸入したビターチョコレートを加工して作ったチョコレートを販売した。
チョコレートの大量生産を計画した森永社長は、原料のカカオ豆からチョコレートを作る「Bean to Bar」、つまり一貫製造を目指した。そして当時の最新設備を導入して、1918年に国産初のミルクチョコレートを発売した。
昭和に入って、チョコレート需要は高まったが、戦争で物資の調達が困難になり、国内生産は止まってしまう。決定的だったのは1940年からのカカオ豆輸入制限だろう。軍需用以外のチョコレート製造は中止に追い込まれてしまった。
その後、輸入禁止が続いていたカカオ豆は、1950年にようやく再開し、さらに砂糖が自由化された後は、チョコレート業界は飛躍を遂げる。嗜好(しこう)品として日本社会に定着したのは周知の通りだ。
森永村に出現した「チョコレート製造工場」の役割を考えてみよう。昭和初期に、原料である砂糖、ミルク、カカオ豆まで全てを現地調達できる豊かな土地と気候に恵まれた台東の地は、森永製菓にとって究極の生産拠点だったに違いない。
しかも、1940年から海外からカカオ豆が入手不能になったということは、南洋の日本が統治・管理していた地域から入手するほかなかった。原料不足が慢性化したことで、チョコレートは日本兵が携行する貴重な「栄養補給源」になっていた。
軍事向けに戦争が終わるまでフル稼働していた森永村の工場は、1945年8月の敗戦でひとつの役割を失ったのではないだろうか。だが、村に火を放って去ったことについては、疑問が残る。
日本統治時代、交通の便が悪かった台湾東部で、稲作をはじめ、製糖業、林業などが発展した過去を筆者は多く見てきた。そんな中で、南東部の片隅に森永製菓が理想を掲げて開拓したチョコレートの小さな「王国」があった。戦後、原料はガーナなどのアフリカ地域に求め、大量生産に入るが、台東で培われた経験は、戦後国内に戻った技術者らによって生かされたはずである。
村の名称以外は変わり果ててしまったパイワン族の村に、わずかに残る「森永」の伝承と静かな佇まいだけが「夢の跡」を想起させる。70年後、台湾最南端の客家人の農村で再開されたカカオ栽培とチョコレート作りが、新たな夢のスタートになるかどうかは、今後の台湾農家の熱意ひとつにかかっていると感じる。
工場跡地の裏に回ってみると、日本時代に建てられたと思われる建築物が残っていた
写真は全て筆者撮影・提供
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02280/

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科学者たちは最も多様なヒトゲノムを公開した

2023-05-14 | 先住民族関連
classicnews5月 13, 2023 Arzu
科学者たちがヒトゲノムの配列草案を初めて発表してから 20 年以上が経ち、生命の書は期限を過ぎて書き直されました。
私たちのゲノムのより正確で包括的なバージョンが水曜日に公開され、人間の生物学と個別化医療のより深い理解に向けた大きな一歩となりました。
以前の参考文献(主にヨーロッパ系の数十人からのエントリーを含む、雑種バッファローの DNA に基づいていた)とは異なり、新しい「パンゲノム」には 47 人の男性のほぼ完全なゲノム配列が含まれており、アフリカ系アメリカ人、カリブ海系アメリカ人も含まれています。島民、東アジア人、西アフリカ人、南アフリカ人、アメリカ人を含むさまざまな出身の女性。
更新された遺伝子マップは、疾患に関連する遺伝的変異を特定したいと考えている科学者や臨床医にとって重要なツールとなります。 また、人種や人種、民族に関係なく、すべての人に利益をもたらす治療を提供することも約束されていると研究者らは述べた。
「それは長い間必要とされてきた。彼らは良い仕事をした」と、この取り組みには関与していない欧州分子生物学研究所の遺伝学者で副所長のアイヴァン・バーニー氏は語った。 「これにより、変異の微視的な理解が向上し、その研究により臨床応用の新たな機会が開かれるでしょう。」
最新の DNA シーケンス技術を活用した Panganome は、47 個のユニークな遺伝子をすべて 1 つのソースに結合し、細胞を駆動するコードの最も包括的な全体像を提供します。 以前の参考文献のギャップは現在埋められており、以前は欠落していた約 1 億 2,000 万の DNA 文字が 30 億文字の長さのコードに追加されました。
コイルを解いて真っ直ぐに伸ばすと、トーテム的な DNA 鎖が 6 フィートの長さになるという考えはもう終わりました。 現在、再開された参考資料はトウモロコシの迷路に似ており、別の道や脇道があり、科学者は世界中の集団に見られる膨大な遺伝的多様性を調査することができます。
この研究に資金を提供した政府機関である国立ヒトゲノム研究所の所長であるエリック・グリーン博士は、パンガノムを自動車修理工場向けの新しい種類の車体加工マニュアルに例えています。 以前は、各整備士には 1 種類の自動車設計の詳細しかありませんでしたが、現在では、さまざまなメーカーやモデルをカバーするマスター プランがあります。
「私たちは、シボレーの 1 つの優れた設計図から、現在では 47 の異なるメーカーの 47 台の代表的な車の設計図を持つようになりました」と彼は言いました。
この Kelly Blue Book of Genomics の使い方を知るには、急な学習曲線が必要になる場合があります。 新しい分析ツールが必要です。 調整システムを再定義する必要があります。 広く普及するには時間がかかります。
ボストンのマサチューセッツ総合病院の最高遺伝学責任者であるハイディ・レーム氏は、「地域社会が利用しやすくするためにやるべきことはある」と述べた。彼はこのプロジェクトには関与していない。
しかし専門家らは、ペンゲノムはやがてゲノム医療の分野に革命を起こす可能性があると述べた。
ワシントン大学の遺伝学者エヴァン・アイクラー氏は、「私たちは自分自身を種として理解することで本当に恩恵を受けることになるだろう。100人以上の科学者や生物学者のうちの1人だ」と語った。 新しいパンゲノム参照について説明しました 『ネイ チャー』誌に掲載。
プロジェクトの設計者は、地球規模の人類の多様性の多くをカバーする少なくとも 350 個の高品質な遺伝子を追加することを目標に、さらに多くの集団グループを追加し続けています。
「私たちは人間の木のすべての枝を代表したいのです」とエール大学ゲノム健康センター所長の遺伝学者アイラ・ホール氏は語った。
新しい遺伝子の一部は、以前にマウント・サイナイ・ヘルス・システムの研究プロジェクトに参加したニューヨーカーからもたらされる。 予備的な DNA データが過小評価されている遺伝的背景を反映していると思われる場合、それらの個人はパンゲノム プロジェクトに参加するよう招待されます。
ただし、一部のスペースは仕様により、公開されている表記法には決して挿入されません。
ヒトの遺伝的多様性を捉えるこれまでの取り組みでは、疎外された集団からそのニーズや好みを考慮せずに配列データを抽出することが多かった。 パンゲノムコーディネーターはこうした倫理的誤りを認識しており、現在部族グループと協力してデータ所有権に関する正式なポリシーを策定している。
このプロジェクトに参加したカリフォルニア大学サンフランシスコ校の生物学者バーバラ・ケーニグ氏は、「私たちは依然として先住民と部族の主権の問題と格闘している」と語った。
オーストラリアでは、研究者らがさまざまな先住民族の DNA 配列を 1 つのリポジトリに結合し、オープンソースのゲノムにリンクされますが、その後はファイアウォールの内側に保管されます。 キャンベラにあるオーストラリア国立遺伝学センターのハーディープ・パテル氏によると、科学者らは次に、要請に応じてデータにアクセスするかどうか、またその方法について地域のリーダーと相談する予定だという。
部族擁護者の中には、パンゲノム計画をさらに進めたいと考えている人もいる。 カリフォルニア大学サンディエゴ校の遺伝学者でハワイ先住民のケオル・フォックス氏は、次世代の先住民科学者が遺伝データに対してより自由に行動できるよう訓練することを推奨している。
「ついに権力を分散化し、制御し、コミュニティ間で再分配する時期が来た」とフォックス博士は語った。
https://classicnews.jp/科学者たちは最も多様なヒトゲノムを公開した/

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【編集Gのサブカル本棚】第26回 すべての映画は“アニメ”になった

2023-05-14 | 先住民族関連
アニメハック2023年5月13日(土)19:00

 昨年2022年12月、ジェームズ・キャメロン監督の「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」(以下「アバター2」)の凄まじい映像を見て、実写とアニメの違いは一体どこにあるのだろうとあらためて考えさせられた。
 09年に公開された第1作は、主人公の元兵士ジェイクが地球から遠く離れた神秘の星パンドラに潜入するため、自分の分身となる新たな肉体「アバター」を手に入れ、神聖な森で暮らす先住民のナヴィと交流するなかで人類とナヴィの戦争に巻きこまれていく物語だった。
 人間側のキャラクターは実写、先住民のナヴィとアバターは3DCGで描かれ、肌が青くて人間とはちょっと違うナヴィの造型と3DCGによる違和感で、観客は最初ナヴィを気味悪く感じてしまう。それが、主人公の目をとおしてナヴィたちの暮らしぶりを疑似体験するなかで感情移入し、主人公と結ばれる女性のナヴィ・ネイティリが次第に魅力的に見えてくる。乱暴に言うと実写がシームレスにアニメになっていくような感じがあって、実写の主人公が3DCGで描かれたアニメの世界のキャラクターに恋して住人になっていく様子が、途方もない制作費をかけた圧巻の映像で表現されているように筆者には見えた。
 「アバター2」では、ナヴィに転生したジェイクに子どもが生まれていて、海の部族が暮らす海辺の集落が主な舞台となる。第1作と比べると実写で描かれる人間のパートが非常に少なく、大半がCGと思われる同作は3DCGアニメと言ってもいいのではないかと思ってしまう。とくに水の表現が素晴らしく、通常よりも1秒あたりのコマ数を多くしたハイフレームレート(HFR)と3D上映による立体視で、本物の海より海らしい映像美が味わえる。
押井守監督の予言
「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」などで知られる押井守監督は、20年以上前から実写とアニメの境界がなくなるであろうことを指摘していて、そのものズバリ「すべての映画はアニメになる」というタイトルの著書もある。自身が撮った実写映画「アヴァロン」(01年公開)の制作を通してCGとアニメの関係について考えることが幾つもあったという押井監督は、「映画のデジタル化は、映画をコントロールできる領域を飛躍的に広める」「そこには『意図のない絵』は存在しなくなる」「その意図に沿ってどこまで『絵』を『コントロールしきる技術』をもっているか否かが重要になる」「(※意図に沿って絵をコントロールする技術は)アニメは実写よりもはるかに優位な蓄積がある。だから、実写もアニメになるしかない」とコラム集「これがぼくの回答である。 1995-2004」で記している。
 押井監督の指摘を筆者なりに解釈すると、映像がデジタルになることで実写もアニメと同じように変更可能な1コマ1コマの絵の連続として考えられるようになり、その1コマの絵には作り手の意思が完全に投影できる。例えば企業が莫大な制作費をかけてつくっているわずか15秒のテレビCMは、450枚の静止画(テレビは毎秒30フレーム)の連続でできており、1コマの1枚の絵にどんな情報をいれるかにまでこだわることができる。長尺の実写映画でもそれと同じことができるようになり、人物から背景まで何もかも人為的に「見せたい絵」をつくることができてしまう。その弊害としてフェイク動画も生まれ、ネットの実写映像が本物ではないかもしれないというリテラシーが必要になってきている。
 「アバター2」ほど明らかにCGと分かる作品でなくても、ハリウッド映画の撮影メイキングで、グリーンバックの何もないところで俳優が迫真の演技をしているのを見たことがある人は多いと思う。一見実写に見える映像も実は大半がCGだったということはまったく珍しくなくなった。そのため、どんなに凄いアクションシーンを見ても、どうせCGで上手くやっているんだろうと不思議と冷めてしまう現象もおきていて、CGではないことをあえてうたうような作品もでてきている。けれど、実際は実写・CGに関わらず、凄い映像が生まれるかげには作り手の想像力とそれを具現化する途方もない尽力があるのだと思う。
「アバター2」と「THE FIRST SLAM DUNK」の共通点
昨年12月からロングラン公開中のアニメ映画「THE FIRST SLAM DUNK」は、これまでに体験したことがないぐらいバスケットボールの臨場感があって、ベクトルは違うものの「こんな映像作品見たことない!」と「アバター2」と同じぐらい衝撃をうけた。同作の試合部分は主にセルルックと呼ばれる手描きアニメ風の3DCGで制作されており、選手の動きは実際のバスケの様子をモーションキャプチャ(※動きをデジタル的に記録する技術)したものが基になっている。そのため手描きアニメで表現する場合は大変な手間がかかる、選手たちが終始動く様子やちょっとした仕草、メインのキャラクターの後ろにいる選手の細かい動きまで描かれていて、原作・監督の井上雄彦氏が映画制作の“義務”として挙げていた「リアルなバスケの動きを表現する」ことが非常に高いレベルで実現できている。
 バスケのリアルな動きにモーションキャプチャと3DCGを使っていると聞くと、ハリウッド映画のときと同じようにCGの技術で何とかしているのだろうと考えてしまいがちだが、公式サイトに掲載されているスタッフインタビューや、書籍「THE FIRST SLAM DUNK re:SOURCE」を読むと、年単位の試行錯誤の積み重ねと、井上氏自身が大量の絵を描くことで今回の映像が実現できていることが分かる。また、「シン・ゴジラ」でも用いられていたプリビズという手法で、仮の映像をもとに大胆なシーンの追加と削除を繰り返すかたちで制作が進められており、まず絵コンテで全体の設計図を決めこむ通常のアニメ制作とは異なる実写的なスタイルが採られているところも興味深い。
 「アバター2」では動きだけでなく、「パフォーマンスキャプチャ」と呼ばれる表情ふくめた俳優の演技全体をデータ化する技術が使われているが、最終的な映像にするためにCGクリエイターによる膨大な仕事が必要だったことはエンドロールのクレジットをみれば想像に難くない。両作とも最終的なルックが違うだけで、監督が描きたいものをあらゆる手段を用いて作りあげているところは共通していて、制作期間が長いところも似ている。
 実写もアニメも、ある方向でこれまでにない極限のものを作ろうとすると実写はアニメ的な、アニメは実写的なアプローチがなされていって、最終的に両者の区別はつかなくなってしまうのではないか。規格外の凄い作品である「アバター2」と「THE FIRST SLAM DUNK」を見て、押井監督の予言が実感として腑に落ちた感覚があった。(「大阪保険医雑誌」23年2月号掲載/一部改稿)
https://anime.eiga.com/news/column/editor_bookshelf/118658/

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