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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

書籍『世界アート鑑賞図鑑 改訂版』2月21日に発売。

2023-02-22 | 先住民族関連
現代アートを中心に大改訂しました。
東京書籍株式会社2023年2月21日 10時50分
東京書籍株式会社は、2023年2月21日(火)に書籍『世界アート鑑賞図鑑 改訂版』を発売いたしました。

改訂版について
本書は2015年2月発行『世界アート鑑賞図鑑』の改訂版にあたります。
改訂箇所は本文576ページの約30%の168頁におよび、特に現代アートの分野での作品変更、最新記述が目をひくものとなっています。
1946年以降について、全体の20%にあたる116頁を割いて解説。
アフリカの芸術、東アジアの芸術、ラテンアメリカの芸術、インドの芸術などもとりあげ、ポップアート、コンセプチュアルアート、パフォーマンスアート、オップアート、ビデオアート、ランドアート、デジタルアートなどの最新概念も作品とともに紹介。バンクシーも登場しています。
 紀元前から現代美術まで1100点以上のカラー写真
作品の全体解説と細部を検証した部分図解説により、作品の詳細な理解ができます。
美術館での主要展示作品はもとより、新聞、テレビや、小説の表紙などでふと目にふれる世界的な芸術作品を年代順に紹介。鑑賞可能なアートのほとんどを掲載しています。
比類のない作品範囲
【本書が取り扱う時代・地域・ジャンル】
<時代>四大文明、エーゲ文明、エジプト、ギリシャの古典期から中世、ルネサンス、近代から現代まで、最新作品は2006年のミックス・メディアに及ぶ。
<地域>四大文明、エジプト、アフリカ、地中海世界、ヨーロッパ、西アジア、インド、東南アジア、中国、朝鮮半島、日本、北米、中南米、オセアニアまで全土をカバー。
<ジャンル>先史時代から古代世界の美術全般、ヨーロッパの美術(ルネサンス、マニエリスム、バロック、ロココ、新古典主義、ロマン主義、写実主義、印象派、後期印象派、象徴主義、アール・ヌーボー、分離派、フォーヴィスム、キュビスム、バウハウス、シュルレアリスム……)を中心とする世界の芸術、現代芸術全般(写真、オプアート、ポップアート、コンセプチュアルアート、インスタレーション、ミニマリズム、ハイパーリアリズム、ビデオアート、デジタルアート)まで。これらに日本・中国・アフリカ・メキシコなど各地域に根差した芸術を挿入して紹介。西アフリカの仮面、オセアニアの神像彫刻、北米先住民のトーテムポールなども漏れなく掲載している点も興味深い。
日本語版監修のことば
21世紀の今、アートの世界は花盛りといわれる。日本でも、あらゆる種類の美術作品の展覧会が催され、地方ごとの芸術祭が多くの観客を集めている。そのときに、英国では定評あるテームズ&ハドソン社から、大部ながら使いやすいガイドブックが刊行された。しかも、世界の各国語版も次々と翻訳されているという。
この日本語版は2015年の初版に対する改訂版である。現代の部分を中心にかなりの改訂が加わっている。ご覧になって、お分かりいただけるだろうが、本書の全体のうち、非ヨーロッパの美術世界と第2次世界大戦以降だけをあわせると、あらましの総計は50%にも及ぶ。これまで、「世界」の美術史のなかでは添え物とみなされがちであった分野に、穏当な暖かい光があたったというわけだ。
日本をふくむ非西欧世界の諸地域の間で、美術では提携と交流とか、差異と相同はどのようなかたちをとるのか。それはグローバル時代にあって、私たちには大きな関心事だろう。あるいは、古典から近代にいたる西欧の美術史は、そこではどんな位置を占めるのだろうかと、問題を考えることもできる。いやそればかりか、しばしば難解にすぎるといわれる現代アートだって、人間の技としてみれば、現代人としての共感を送ることもできる。
こうして本書はアート・ガイドブックとして便利なだけではなく、グローバル時代の快い刺激の発信源となったように思われる。ただしこの種の国際共同出版には、たしかに技術上の難関がともなう。評価や表記法にあっては、日本における常識的理解と齟齬をきたす心配もある。それらを克服するために、日本語版として必要最小限の修正を施していることを、お断りしておく。
いずれにせよこの日本語版が、美術の世界でグローバルな楽しみ方を開拓できるとすれば、関係者としてこれにまさる喜びはない。読者からの応答を待ちたい。
樺山紘一
著者プロフィール
編者:スティーヴン・ファージング
1990年、オックスフォード大学ラスキン・スクールの学長、およびオックスフォード大学の聖エドマンド・ホールの客員研究員に選任。1998年、ロンドンのロイヤル・アカデミーの会員に選出。2000年、ニューヨーク・アカデミー・オブ・アートの学長に就任。1977年から美術を教えている。
日本語版監修:樺山紘一
1941年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京大学文学部教授、国立西洋美術館館長、印刷博物館館長を経て、現在、東京大学名誉教授。
主な著書に、『ルネサンス』(講談社学術文庫)、『肖像画は歴史を語る』(新潮社)など。共編著に、『クロニック世界全史』(講談社)など。監訳書に、『世界の歴史大図鑑』『世界の美術』(以上、河出書房新社)、『世界記憶遺産百科-全244のユネスコ世界記憶遺産』(柊風舎)などがある。
<概要>
『世界アート鑑賞図鑑 改訂版』
■定価:5,390円(税込) 
■発行・発売:東京書籍株式会社
https://www.tokyo-shoseki.co.jp/books/81606/

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アイヌ文化振興策を発表 大地連携ワークショップ冬inびらとり【平取】

2023-02-22 | アイヌ民族関連
日高報知新聞2023.02.21

アイヌ文化を活かした平取町の活性化策について発表する大学生ら
【平取】13日から町内で開かれていたアイヌ文化に理解を深める講座「大地連携ワークショップ冬inびらとり」(町主催)で17日、イオル文化交流センターで町やアイヌ文化振興策についての発表会が開かれた。
 北大、東北大、東京都立大、関西大、立命館大、琉球大など全国の大学から15人が選抜され、4グループに分かれて発表し5日間の日程を終えた。会場65人、オンライン11人が参加した。
 審査の結果1位になったDグループのメンバー澤岻南々帆さん・盧愛奈さん・青木拓也さん・樽車ディルシャンさん4人は、「そうだ二風谷へ行こう!WEBサイトでアイヌ文化を世界へ」と題し発表。
 二風谷発信のアイヌ民族公式ウェブページを制作し、アイヌ民族を守ろうとする人々が自ら正しい情報を発信することで、偏見のない全国共通認識を導くことやアイヌ文化の継承を維持可能なものにすることが目的。活動内容や事業のPRなど、「アイヌに関連する企業、団体、事業主などの魅力を将来の連携パートナーへ伝えることで、新しい出会いが生まれ、アイヌ民族の活躍の幅がより広がるのではないかと考えた」とした。
 2位のCグループは「平取町におけるアイヌ語教育の可能性」―幼児教育の事例を手掛かりに―。3位のBグループは「VR技術を活用したアイヌ文化体験」。4位のAグループは「現代アレンジ民具」を提案した。
 遠藤桂一町長は「年々内容のレベルアップを感じる。どれも実践できるものが多かった。DXを使った内容で参考になった。価値観が変わってきている。発信することの大切さをプレゼンで感じた」と述べた。まとめとして、小田隆治連携協議会会長は「実り多い発表会になった。活かすのは、平取町と地域住民たち。一歩一歩進んでいってほしい」と結んだ。
 1位に貝澤雪子さんの「アットゥシの小銭入れ」、2位に関根真紀さんの「トートバッグ」3位に同「タオルハンカチ」、4位に貝澤守さんの「ブレスレット」or尾崎友香さんの「ステッカー」が贈られた。
https://hokkaido-nl.jp/article/28348

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「身体で考える」ことで、未知と向き合う

2023-02-22 | アイヌ民族関連
未知へのアプローチ 「感じる」ことを真ん中に #4
ダイヤモンドオンライン2023.2.22 3:25
吉泉聡:TAKT PROJECT代表/デザイナー
キャリア・スキル
Virtical Analysis
テクノロジーが進化し、あらゆる情報が溢れる世の中では、ともすれば人間らしい身体感覚を置き去りにしたまま、頭の中だけでアイデアを構築したり、分析したりすることだけが求められがちです。しかし、未知を本当に理解するためには、まだ言葉や論理になっていない情報を、身体でまるごと「感じる」ことこそが重要です。連載第4回では、未知へアプローチする糸口として、いかに身体感覚を豊かにしていくか、そして、そこから得られたものをいかに統合的な知として昇華していくかを考えます。
身体は無意識に考えている
 前回は「つくる」がテーマでした。そして、未知の何かを生み出すためには「つくりながら考える」ことがとても重要であることをお伝えしました。今回は、もっと無意識に行われる身体活動に注目し、思考と身体の関わりについて、さらに掘り下げていきたいと思います。
 「考えること」は、一般的には頭の役割だと思われています。そのため、人間の活動を「脳が命令し、身体が動くプロセスである」とイメージしている人も多いのではないでしょうか。しかし、私は「脳が思考の主体であり、全身の司令塔である」という図式には、違和感を覚えます。デザイナーとして活動をしている時も、日々生活をする中でも、身体が脳からの命令で受動的に動いているというより、身体が自ら能動的に考えているとしか思えない場面が非常に多いからです。
 寿司職人が流れるように寿司を握ったり、陶芸家がろくろの上で器をかたちづくる時も、シャリの量や土の厚みをいちいち頭の中で計算していないのは明らかです。だからといって、彼らが機械のように画一的に手を動かしているわけでもないはずです。外部からの刺激を絶えず受け入れながら、指先まで神経を行き届かせて、当意即妙に動かし続けている…。そう考えるのが妥当です。
 このような身体の使い方は、スポーツ選手にも見られます。ダイナミックな技を次々に繰り出す体操選手も、助走と踏み切りを跳躍のパワーに変える幅跳びの選手も、絶えず動きながら身体の状態を調整し、連続的に次のアクションに美しく移っていきます。
 身体が、じかに接している対象や環境から情報を読み取り、自分自身にフィードバックをかけながら、それらとどのような関係を取り結ぶかを無意識に決定していく。人間の行為を方向づける力を「思考」とするなら、職人もスポーツ選手も「身体で考えている」としかいいようがありません。
感性が「知」として蓄積されていく
 このように言うと「それは反射では?」と考える人もいるかもしれませんが、それは違います。「熱いものを触って、とっさに手を引く」とか「食べ物を口に入れると、唾液が出る」といった反射における刺激と反応は一対であり、何度繰り返しても同じです。ところが、職人のような、あるいはスポーツ選手のような「無意識の身体的思考」には熟達があります。同じ行動を何度も重ねることで、対象や環境に対する知覚が発達し、最初は全く気づかなかった情報まで読み取れるようになっていく…。すると身体にインプットされる情報量は充実し続け、対象を捉える解像度は上がり続けます。そしてその結果、熟達していくのだと考えられます。
 特別なプロの技に限らず、私たちが何か初めてのことに取り組もうとする時も、身体的思考が非常に大きな役割を果たします。例えば、初めて自転車に乗った時のことを思い出してみてください。言葉でどれほど乗り方を説明されても、実際に乗ってみなければ乗れるようにはなりません。最初はうまくバランスがとれず何度も転びますが、やがてコツをつかみ、スムーズに乗れるようになります。
 陶芸の初心者にとっては、初めて触れる陶土もネチョネチョした得体の知れないものでしかないでしょう。いくら陶土を観察しても、そこから器に至る道筋はなかなか見えません。しかし、それを触り、格闘しているうちに、だんだんうまく扱えるようになっていきます。
 これらは、まさに本連載のテーマである「未知へのアプローチ」の実例です。未知の領域には、そのまま脳にインプットできる形式化された情報がありません。だから、身体ごとそこに赴いて対峙し、何かを感じ、関係を結んでいかざるを得ないのです。
 注目すべきは、未知から既知へのジャンプにおいて、人は単に「できなかった動作ができるようになる」だけではないことです。自転車の例なら「動きながらバランスをとること」、陶芸の例なら「土からかたちを生み出すこと」といった、事象そのものに対する理解こそ、確実に深まります。未知なるものの理解は、それに先立つ身体経験なしに獲得できないものだと言えます。
身体が未知へアプローチする入口になる
「未知」の本質とは何か?と考えたとき、「人間の理解の外側」と表現することもできるでしょう。人類はこれまで、さまざまなものに名前をつけ、頭で理解できるかたちに分類し、活用してきました。こうしてかたちづくられたのが人間の世界です。しかし、この外側には、まだまだ広大な未知の領域が残されています。
 例えば、未踏の大自然は典型的な未知です。当然、頭で理解できるデータや、どうすればうまく扱えるかというナレッジはありません。このような「大きな未知」にアプローチする場合こそ、身体で向き合い、身体で考えていくことが重要である事は想像に難くありません。
 もちろん、一人一人の身体で向き合えるのは、広大な未知の領域のうち、ほんの小さな部分にすぎません。しかし、身体知は、対象を多角的に感じる体験を重ねれば重ねるほど鍛えられ、無意識の解像度が上がり、理解もより深くなっていきます。すると、やがて部分に含まれた全体が語りかけてくるようになるのではないでしょうか。
 寿司職人が、100回、200回、300回……さらに何千回もマグロの握り寿司を握る体験を重ねていくと、そこから知覚できるマグロの情報の総量がどんどん増えていくでしょう。最初は寿司ネタとしての鮮度や弾力だけを知覚していた手が、やがてマグロという生物種のあり方、さらには大西洋が今どうなっているのかまで、統合的に感じられるようになっても不思議ではありません。それは、身体による思考を重ねた人だけが見える世界なのだと思います。
「イナウ」の造形に宿る、人間と自然の対話
 身体こそが統合的な「知」の入口である――。私が見るたびにそれを実感するデザインが「イナウ」です。木の棒を半削りで仕上げた、素朴ながら魅力的な造形美を持つ祭具で、アイヌ文化圏でさかんに作られてきたものです。木から削り出されたふさふさとした装飾がついているのが特徴で、見方によって、髪のようでも、羽のようでも、衣服のようでもあります。

Gold / PIXTA
 それぞれの木の特性が生かされていて、一つとして同じ形がないことからも、頭の中の情報だけで作られるものでないことは明らかです。おそらく、木の枝一本一本に宿る個性と、削りつつ思考する人間の手の相互作用によって生み出されてきたものでしょう。
 森とともに暮らす人々は、さまざまな種類の、さまざまな季節の、さまざまな枝を、何度も何度も削っていく中で、木を育てた森や大地、気候などに対する理解を深めていったのではないでしょうか。ここには、生活とは切っても切れない自然を、より深く理解するために、人間が自然を相手に重ねてきた対話の軌跡が刻まれているように思うのです。
「身体で考える」ことの核には、未知と対話し、理解を深めていくことがあると思います。まだ見ぬ未知へアプローチするためには、まずは身体で向き合って「身体で考える」こと、そして、身体に蓄積した知を頭脳で統合していくことが重要だと私は思っています。
https://diamond.jp/articles/-/318036?page=4

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なぜ「理解増進」ではダメか。「差別禁止」反対論の問題を解説

2023-02-22 | アイヌ民族関連
Yahoo!ニュース2/21(火) 18:23
松岡宗嗣一般社団法人fair代表理事
荒井元首相秘書官による、「(性的マイノリティを)見るのも嫌だ」などの差別発言を発端に、政府や与党では「LGBT理解増進法案」の国会提出に向けた検討が進んでいる。
しかし、そもそも政権が差別を広めているといっても過言ではない現状で、「理解の増進」というのは、お茶を濁しているようなものだろう。いま必要な法制度は「理解の増進」ではなく「差別的取扱いの禁止」だ。
ここでは「なぜLGBT理解増進法では問題なのか」、そして「差別禁止への反対言説」の問題について考えていきたい。
なぜ「理解増進」ではダメか
なぜ理解増進では問題なのかを、大きく4つの理由から説明する。
一つ目は「具体的な差別的取扱いの被害の解決に繋がらないから」だ。
現に「トランスジェンダーであることを理由に採用面接を打ち切られた」「同性カップルであることを理由に、住宅の入居を拒否された」といった、差別的取扱いの被害が起きている。
もしLGBT理解増進法案が成立しても、こうした事例に対処することはできない。LGBT理解増進法案では「相手に理解がなかったので残念ですね、今後は理解を広げましょう」ということになってしまうのだ。
差別的取扱いとは「合理的な理由のない区別の取扱い」をいう。属性によって異なるルールをあてはめる「ダブルスタンダード」と言いかえることもできるだろう。
もし差別的取扱いを禁止する法律があれば、合理的な理由もなく、ただ性的マイノリティというだけで解雇したり、左遷やサービス提供を拒否したりといった、具体的な「差別的取扱い」に対処することができる。この規定が、訴訟の際の根拠になるなど、大きな後ろ盾となるのだ。
二つ目は「理解増進が、権利保障を阻害する言い訳に使われる可能性があるから」だ。
もしLGBT理解増進法案ができれば、今後、例えば「婚姻の平等(同性婚)」の実現が求められても、理解増進法を根拠に、「まずは理解を増進させることが重要だ」と議論を進めないための言い訳に使われることが予想される。
今回の法整備をめぐる動きの発端は、政権中枢の人物による弁解の余地のない差別発言だった。そんな政権の掲げる「理解」が果たして信頼できるだろうか。むしろ誤った差別的な認識を「理解」として広げられてしまう懸念もある。
三つ目は「地方自治体の条例整備を後退させる可能性があるから」だ。
現状、すでに約60の自治体で「LGBT差別禁止条例」が施行されている。さらに200以上の自治体で「パートナーシップ制度」が導入されている。
もし国レベルでLGBT理解増進法ができてしまうと、今後条例を制定する自治体は、差別禁止ではなく「理解増進」を基準に、条例を制定してしまう可能性が高いと言える。
差別も禁止せず、企業や学校などに求める啓発といった具体的な施策も「努力義務」ばかりで、さらに、パートナーシップ制度に関しても「理解の増進が先だ」と導入しないために言い訳に使われてしまう可能性もあるのだ。
四つ目は「G7の首脳宣言に反するから」だ。
G7各国のうち、性的マイノリティに関する法整備がほぼないのは日本だけだ。
そんな中、昨年ドイツで開催された、G7エルマウサミットの首脳宣言では「 性自認、性表現あるいは性的指向に関係なく、誰もが同じ機会を得て、差別や暴力から保護されることを確保することへの、我々の完全なコミットメントを再確認する」と述べられている。
これは岸田首相も参加する中で採択された宣言であり、いわば国際公約と言える。日本の現状は、この公約に反している状態だ。
他の6ヵ国の法律では、性的指向や性自認等を理由とした「差別的取扱いの禁止」が明記されている。
いま、LGBT理解増進法案を成立させたとしても、他国と同じレベルの法律を整備したとも、国際公約を果たしたとも言えない。政権中枢による差別発言を発端にした法整備が「理解増進」レベルというのは、「汚名挽回」には到底及ばない。このままでは世界中のメディアから指摘される可能性もあるだろう。

筆者作成
日本だけ遅れている法整備
もちろんどの国をみても、法律で差別的取扱いの禁止を明記すれば、すぐに差別がなくなるわけではない。しかし「差別的取扱いの禁止」規定は、差別をなくす上での「大前提」だ。
本当に「理解を増進」したいのであれば、差別禁止というベースラインを示した上で、適切な認識を社会全体に広げていくことが当然の方法だ。
さらに、現在議論されている「LGBT理解増進法案」には、基本理念や目的に「差別は許されないとの認識のもと」という文言があるが、これは差別を禁止する規定ではない。あくまで「前提認識」や「精神」、「たてまえ」を記しているにすぎず、この言葉にすら自民党内に反対が起きている現状は、「差別をなくしたくない」という意思表示だとしか説明できない。
日本の性的マイノリティをめぐる法整備状況は、G7の中で遅れているだけでなく、OECDの調査によると、35ヵ国中34位で「ワースト2位」だ。1999年時点では22位だったという点が、諸外国で法整備が進むなか、「日本だけ変わらなかった」ことを如実に表している。
このままではG7の議長国だけでなく、そもそもの参加資格すら疑われるべき状況だと言えるのではないだろうか。
差別禁止への反対言説の誤り
自民党内の「LGBT理解増進法案」への反対意見のなかには、「『差別』という言葉すら削除すべきだ」という声があるという。
他にも「社会を分断する」や「訴訟が乱発する」といった言説をはじめ、トランスジェンダーをやり玉にあげた排除言説なども行われている。しかし、これらの主張がいかに当事者の困難や実態を無視し、差別の問題や法案の内容への認識が誤っているかを見ていきたい。
「差別の定義が曖昧?」
差別禁止への反対言説のなかに「差別の定義が曖昧だ」というものがある。前述のように、「差別的取扱い」とは、採用拒否や入居拒否などの「合理的な理由のない区別の取扱い」を指す。「当事者が差別だと感じたら、なんでも差別になってしまう」という言説も見受けられるが、当然そんなことにはならない。
もちろん、現実に起きている事例すべてが「差別か、差別ではないか」と明確に分け切れるわけではない。
例えば雇用領域での「性差別」を禁止している男女雇用機会均等法でも、指針で一部「例外規定」が設けられているように、個別のケースごとに「これは合理的な理由のない区別か」ということが絶えず検討されるものだ。難しいケースは司法によって判断されるだろう。
しかし、そもそもの「差別的取扱いはダメだ」という前提のルールすらない現状では、明らかな差別の被害を受けても、当事者は泣き寝入りしなければいけない。そもそも法律で「差別はNO」と明記されていないため、声をあげることすらできない現状がある。
法律を作るにあたって、こうした法的な議論を無視して、「なんでも差別になる」とか、「差別の定義が曖昧だ」というのは、反対するための説明になっていない。一概に差別とはみなされないケースを持ち出して、他の深刻かつ明確な差別的取扱いも含めて、「だから差別を禁止すべきではない」というのは理由にならない。
すでに差別的取扱いを禁止している法律はいくつも作られている。
例えば「男女雇用機会均等法」では、雇用領域における性別に基づく差別的取扱いを禁止しており、「アイヌ施策推進法」でも、アイヌであることを理由とした差別を禁止している。
「障害者基本法」や「障害者差別解消法」でも、障害を理由とした差別的取扱いを禁止している。障害者基本法は、LGBT理解増進法案と同様に「理念法」として位置付けられるが、ここでも「差別の禁止」が明記されている点は強調したい。

筆者作成
「内心や差別発言が罰せられる?」
依然として、差別を禁止すると「内心や発言が罰せられる懸念がある」という言説があるが、これは誤りだ。
そもそも差別の被害を議論する際に、「意図」や「悪意」があったかどうかは関係ない。「差別的取扱いの禁止」は、差別の意図や悪意など「内心」を禁止するものでも、または差別「発言」を禁止する法律でもない。
また、当事者が求めているLGBT差別禁止法も、検討されているLGBT理解増進法案も差別に対する「罰則規定」はない。差別禁止の規定を入れたからといって、それにより刑事罰が科されるわけではない。ここは冷静に押さえておくべき点だ。
罰則規定を入れるべきという考え方も確かにあるが、その場合、強い規制となる反面、差別的取扱いに該当する範囲がより厳格になり、狭い範囲でしか「差別」の対象にならないという問題も指摘されている。
一言で「差別の禁止」と言っても、法律の実効性として、厳密には細かくいくつかのバリエーションがある。
(1)差別禁止と規定するのみで、罰則などがないもの。
(2)差別禁止を規定した上で、行政に差別の相談があり、実際にそれが差別だった場合、行政から指導できるようにするもの。
(3)差別禁止を規定した上で、例えば解雇を無効と明記するなど、強い効力を持つもの。
(4)差別禁止を規定した上で、違反すると刑事罰に問われるもの。
差別を禁止したくない側の人々が、これらの議論を一緒くたにして反対してくる点にも注意が必要だ。
ちなみに、理解増進法の「差別は許されない」という「認識」は、実は(1)にも満たないものであることは強調しておきたい。
「差別発言も禁止すべきだ」という声も確かにある。しかしこれは、あくまで最低限「差別的取扱い」を禁止した上で、いわゆる「ヘイトスピーチ」として規制するかどうかが検討されるべきだろう。
「訴訟が乱発される?」
前述のように、差別禁止法があれば、具体的な差別的取扱いの被害を受けた際に大きな後ろ盾となる。これまで被害を相談することすら難しかった状況を変えるきっかけとなるだろう。
その一つとして「訴訟」という形で問題提起され、被害を受けた人が救済されたり、調停やあっせんを受けられることは重要だ。「乱発」という言葉の印象操作によって悪いイメージが付けられようとしているが、悪質な被害について訴訟が提起されることはむしろ必要なことだろう。
ここで、「なんでもかんでも『差別だ』と主張し、訴訟が起きるかもしれないだろう」という反論が予想されるが、訴えた側が「差別」であると立証することには高いハードルがある。なんでもかんでも差別的取扱いに該当する、などという簡単な実務ではないことは強調しておきたい。
そもそも、差別禁止法ができることによって、訴訟が「乱発」されるほど増えることがあり得るのだろうか。性的マイノリティでなくても、ただでさえ訴訟を起こすことへのハードルは高い。
そのうえ社会的にマイノリティで、カミングアウトしている割合も低い。そんな状態で、ましてや訴訟を起こすというのは相当なハードルがあることは明らかだ。その労力を伴ってでも訴えざるを得なかったケースを放置して良いはずはない。
声を上げにくい状況を変えるためにこそ、差別禁止という基盤が必要ではないだろうか。
「社会が分断される?」
差別を禁止すると、前述のような理由から「社会が分断される」という言説もある。ここでいう「社会の分断」とは一体何だろうか。
例えば、性的マイノリティが差別を受けているという点では、すでに差別によって社会は分断されているとも言える。他方で、こうした差別の被害をなくすために、法律によってルールを設けることは社会を分断するのだろうか?
前述のように、すでに差別的取扱いを禁止している、男女雇用機会均等法やアイヌ推進施策、障害者基本法や障害者差別解消法によって、社会が分断されていないことは明らかだ。
約60の自治体で施行されている「LGBT差別禁止条例」の施行後の現状を見ても、社会は分断されていない。ましてや、国会が置かれている東京都でも、すでに条例で差別的取扱いは禁止されている。「社会が分断される」という人は、その事実を踏まえて主張しているのだろうか。
「社会の分断」という抽象的な言葉で悪い印象を与えようとしている点からも、いま起きている深刻な差別的取扱いの被害を解決するつもりがないという意思が明らかだと言える。
「男性が『心は女性だ』と言えば女湯に入れるようになり、それを拒むのが禁止される?」
トランスジェンダーをやり玉にあげたバッシングとして代表されるのがこの言説だが、これも誤りだと言える。
まず、この言説の背景には「性犯罪」への懸念があるが、どんな人であっても「心が女性」とさえ言えば、性犯罪が許されるはずがない点は押さえておきたい。
そもそも前提として、トランスジェンダー当事者の多くが、周囲の視線、社会からの差別や偏見を恐れて、公衆浴場を利用できていないというのが実態だ。また、トランスジェンダーの半数程度が性暴力被害を受けているという調査もある。
もちろん、公衆浴場における性犯罪自体が起きてしまっていることは事実で、許されないものだ。そこから生じる“不安”自体は受け止められるべきもので、性犯罪への対策を強化していくべきだ。
しかし、トランスジェンダーの実態を押さえず、特定の少数派の属性を性犯罪者と同一視し排除することは問題だ。
こうした前提を踏まえた上でも、法律で差別を禁止するからといって、「男性が『心は女性だ』と言えば女湯に入れる」ようにはならないし、それを「拒むことが禁止」されることにもならない点を指摘したい。
「LGBT差別禁止条例」が施行されている約60の自治体でも、こうしたケースが起きて利用拒否が禁止された、という事例はない。
例えば埼玉県で同様の条例ができた際、提案者の自民党県議は、公衆浴場に営業の自由があること、管理者が入浴施設への立ち入りを禁止することが、一律に差別的取扱いで条例違反になるわけではない点を説明している。
また差別禁止の規定が、「迷惑行為防止条例」や「建築物侵入罪」などの適用を否定するわけではない点も説明している。
利用者が裸になる共同浴場において、男女で施設が区別されていることは合理性がある。そのとき、身体的な状況により異なる取扱いとなることについても合理性があるという指摘がされている。
よく「女性スペース」と一括で語られることがあるが、トランスジェンダーの性別分けされた施設の利用に関しては、当事者の状況や施設の環境によっても性質がそれぞれ異なる。
例えば当事者の身体的な状況や外見、または、トイレなのか、更衣室、共同浴場なのか、さらには、職場や学校など限られた人が利用するのか、それとも公共施設など不特定多数が利用する場所なのか等によって判断は異なり、現実としても個別的な調整が行われている。
その調整のあり方について細かく検討していくことは非常に重要だが、当事者の実態や個別の調整をおろそかにして、一部のケースから危険性を煽り、生活そのものの改善を無視することは許されないだろう。当事者の受けている差別や偏見の被害を矮小化し、やはり差別をなくすつもりがないという点が如実に表れている。
「少子化を助長する?」
なぜここまで「差別禁止」に対する強硬な反対が起こるのか。その理由を旧統一教会のメディア『世界日報』の記事が端的に表している。
旧統一教会は、2006年に都城市の男女共同参画推進条例に「性的指向」という文字が入っている点に対して、「ホモ・レズ、両性愛を擁護」「フリーセックスコミューンになってしまう」などと反対運動を展開し、性的指向が削除された。
そんな旧統一教会側が掲げる、LGBT差別禁止への反対理由は「『同性婚ができないのは差別だ』として、同性婚の法制化運動が勢いを増す」からだという。
つまり、法的な異性カップルは結婚ができて、同性カップルは結婚ができないというのは「差別的取扱い」になってしまう可能性があるから、同性婚の法制化に繋げないために、差別禁止にも反対している、というのが大きな理由の一つだろう。
「同性婚」への反対理由は、旧統一教会や神社本庁、日本会議、それらと繋がる自民党保守派など、それぞれの論理があるが、いずれにせよ「家族の形」を押し付け、それ以外の多様な家族のあり方を認めたくないという強固な思想がある。
こうした状況を背景に、同性婚への反対、ひいては差別禁止への反対という文脈で、「少子化を助長する」という言説が出てくることも少なくない。この点も、端的に事実誤認だということを指摘したい。
そもそも、同性婚が認められたとしても、異性愛者が同性と結婚するようになるわけではない。33の国と地域がすでに同性婚を法制化しているが、少子化と相関関係がないことは明らかだ。
また、同性カップルでも子どもを育てている人たちがすでにいる、と指摘することもできる。しかし、そもそも子どもを持つか持たないかのみによって、結婚できるかできないかを分けること自体、非常に暴力的だろう。
これは性的マイノリティに限る問題ではない。多数派の人々のなかにも、子どもを持たない、持ちたくても持てない人の排除にも繋がりかねない言説だ。
差別禁止という「大前提」への反対に、合理的な説明できない
政権中枢から溢れた差別発言を発端として、約2年前に国会提出が見送りとなった「LGBT理解増進法案」の検討が進められている。
しかし、率先して差別を広めているのは政府自身であるにもかかわらず、「理解増進」とお茶を濁す背景には、上述のような根深い問題がある点が知られてほしい。
いま、すでに同じ社会を生きている性的マイノリティの人々が、さまざまな場所で個別具体的な差別的取扱いの被害を受けている。
岸田首相は「不当な差別はあってはならない」という。昨年のG7首脳宣言で、性的マイノリティについて「差別や暴力から保護されることを確保すること」への「完全なコミットメントを再確認する」と述べられている。
この言葉が真実であるのであれば、まず被害の実態と向き合い、性的マイノリティの人権を守る法律を整備すべきだ。
とにかく「理念法」としてLGBT理解増進法を成立させ、その後、差別禁止を明記すれば良いという「ステップ論」を提唱する声もある。
しかし、例えば障害者基本法と障害者差別解消法では、その両方で差別が禁止されている。「理念法だから差別禁止を入れなくても良い」のではなく、「理念法だからこそ、原則である差別禁止を明記すべき」であり、これは最低限のベースラインだ。
何度も繰り返したい。社会から差別をなくすためには、差別的取扱いを禁止した上で、理解を広げる必要がある。
いま整備すべき法律は、理解増進ではなく、差別の禁止だ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/matsuokasoshi/20230221-00338191

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