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教え子が担い手育成側に 〈アイヌ語を語り継ぐ〉中川裕=思索のノート

2023-02-13 | アイヌ民族関連
信濃毎日新聞2023/02/12 13:30
有料会員記事
■二風谷で育つ文化継承の芽
 以前書いたとおり、私のアイヌ語研究の出発点は北海道の平取(びらとり)町であった。平取は古くからアイヌ研究の一大拠点であり、金田一京助、久保寺逸彦など、数多くの研究者が平取を訪れた。戦後は、地元出身の萱野茂氏の活躍により、その平取町の中でも特に二風谷(にぶたに)という集落にスポットが当てられるようになった。二風谷はその人口の6割がアイヌ系住民といわれ、他の地域よりアイヌ文化を色濃く残していることで知られている。
 私は学生時代、貝沢薫さんとかつえさんというアイヌ夫妻の経営する「チセ」という民宿を定宿として、古老たちのところを回っていた。私が通い始めた当時、二風谷はすでに観光地としてのピークは過ぎていたが、それでも30軒くらいの民芸店が軒を並べ、にぎわった雰囲気のところであった。しかし、やがて北海道観光ブームが去り、団体客がバスを連ねてやってくるなどという光景も影をひそめ、町立とは思えない立派な博物館や諸施設を擁するとはいえ、現在はすっかりひっそりとしたたたずまいになった。
 平取本町から二風谷に行くバスは、私が最初に訪れた時と変わらず、朝2便、昼に1便、夕方2便きりで、車を使わないかぎり札幌や新千歳空港から日帰りで行って帰ってこられるところではない。立派な温泉旅館はあるものの集落からは少し離れていて、コンビニもないので、夜中にビールが飲みたくなっても車がなければ我慢するしかない。
 私は今にいたるまで自動車免許というものを持っておらず、学生時代は金銭的余裕もなかったので、二風谷にひとりで行き始めた当初、夜、平取本町から二風谷まで歩いていって、民宿のおやじさんにえらく怒られたことがある。そんなところを人が歩いているとは誰も思わないので、猛スピードで走って来る長距離トラックに跳ね飛ばされるぞというのだ。
 その民宿チセも今はなく、アイヌ語を話せる古老たちも姿を消した。しかし、そこでもアイヌ文化継承のための新しい芽は育っている。
・・・・・・
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023021200060

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100種類のビュッフェ!旅行者大満足…ガラス張りドーム型サウナ 阿寒湖温泉リニューアル

2023-02-13 | アイヌ民族関連
sasaru2023.2.12
阿寒湖の人気温泉『あかん遊久の里 鶴雅』と『鶴雅ウイングス』がリニューアルしました!
国内初のドーム型展望サウナに絶品ブッフェ、絶景を楽しめる客室など、レベルアップした阿寒湖の温泉に今注目が集まっています。
冬にしか出会えない魅力も盛りだくさんなので、冬の道東旅行を予定している人は必見ですよ~。
『あかん遊久の里 鶴雅』に国内初の「ドーム型展望サウナ」が誕生
『あかん遊久の里 鶴雅』から見ていきましょう。
8階にある空中露天風呂・天女の湯といえば、阿寒湖を一望しながら雪景色を眺められることで人気のスポット。2~3月上旬には、毎日花火も見られますよ。
ですが、見どころはそれだけではないんです。

昨年末のリニューアルで、国内初のドーム型展望サウナを楽しめるようになりました!
360度ガラス張りのサウナから、絶景を眺める贅沢なひととき…。昼と夜で違う景色を楽しめるのもポイントです。
ちなみに、1階と8階のサウナもリニューアルしました。10分ごとに自動でミストが噴出されるオートロウリュになったので、あわせてこちらもお楽しみください~。
ブッフェには「アジアンコーナー」が登場
サウナだけでなく、レベルアップしたバイキング会場も見逃せません。100種類の豊富な料理が楽しめるのに加えて、昨年末にはアジアンコーナーが誕生しました!
ブロッコリーとバナナのサラダや日本風にアレンジしたネパールのカレーなど、海外旅行気分も味わえる少し珍しいメニューがラインナップしています。
実際にネパールのカレーを味わってみましたが、子どもでも食べられるマイルドな辛さで安心感がありましたよ。
アイヌの暮らしを感じられる『鶴雅ウイングス』の「湖側ユーカラ和洋室」
さらに『鶴雅ウイングス』には、阿寒湖を一望できる「湖側ユーカラ和洋室」が誕生しました。
木の温もりが感じられる室内は、“自然と共生するアイヌの暮らし”がテーマ。
壁紙など細部にアイヌの暮らしが感じられる工夫が施されているので、宿泊する際は要チェックです~。
雪景色とコーヒーを堪能できる「モーニングカフェツアー」もおすすめ
リニューアルした温泉にブッフェ、客室など、すでに魅力が満載の阿寒湖観光ですが、せっかくならツアーに参加するのもおすすめです。
「アドベンチャーベースSIRI」では、阿寒の大自然を肌で感じる「モーニングカフェツアー」を提供。料金は4,400円です。
運がよければ、水柱のガスが氷ったアイスバブルや、湖上に咲く霜が花のようなフロストフラワーに出会えますよ。
ツアーの最後には、阿寒湖の氷の上で淹れ立てのコーヒーを飲みます。
寒さを感じながら自然のなかで飲む温かいコーヒーは、普段飲むものよりおいしく感じること間違いなし!
冬の旅行先でお悩みの人は、冬ならではの魅力が満載の阿寒湖温泉へ訪れてみては?
*みんテレ1月27日OAのものです
(上記の情報は記事作成時点でのものです。
最新の情報は各店舗・施設にお問い合わせください)
https://sasaru.media/article/media/20230212_002/

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ロシアから圧迫され続けた樺太の歴史 いつから日本じゃなくなった?

2023-02-13 | アイヌ民族関連
武将ジャパン2023/02/12

明治3年(1870年)2月13日は樺太開拓使が置かれた日です。
受験でもエンタメでも、これまで、ほとんど注目されなかった樺太――しかし最近は注目度が上がってきていますね。
そうです。大人気の漫画アニメ『ゴールデンカムイ』で舞台になり、必然的に樺太の歴史やロシア(日露関係)にも目が向くようになっているのです。
そこは一体どんな場所だったのか?何が起きてきたのか?
樺太の歴史を振り返ってみましょう。
北方からの圧力
日本が、ロシアからの圧力を感じ始めたのはいつ頃か?
ハッキリと「外圧」を感じ始めたのは、18世紀後半から19世紀初頭。
三谷幸喜さんの手がけた2018年正月時代劇『風雲児たち』の舞台となった頃ですね。
このころ日本人たちは自分たちの暮らす国以外にも、広い世界があると認識し始めました。
杉田玄白と前野良沢らが『ターヘル・アナトミア』を翻訳出版。
頼山陽はナポレオンを讃えた漢詩『仏郎王歌』(フランス王の歌)を作詩。
葛飾北斎の好んだ藍色がプロシア由来の「ベロ藍」。
世界で次々に起こる変化は、幕府お墨付きの玄関口・長崎出島から、オランダを通じて流入してきました。
では、ロシアはいつ頃からアクションがあったのか?
というと、これも同じころ、江戸時代終盤に向けての頃です。
江戸幕府では割と早くに注目していたが
ロシアからのプレッシャーを最初に感じたのは、東北の人々でした。
『風雲児たち』にも登場した仙台藩士の工藤平助(演:阿南健治さん)。
江戸で幕臣の子に生まれながら仙台藩に仕えた林子平(演:高木渉さん)。
彼らはロシアの脅威を感じ、海防論を唱えます。
工藤は『赤蝦夷風説考』を発表し、同じく林も『三国通覧図説』と『海国兵談』を出版。
早い段階から危機感を説いていますが、海外情報を統制したい幕府にとっては迷惑な話でしかありません。
当時、こうした意見に目を付けていたのは、先見の明ある老中・田沼意次(演:草刈正雄さん)のみでした。
田沼は、山形出身の探検家・最上徳内を蝦夷に派遣し、調査をスタートさせます。
間宮林蔵は、間宮海峡を発見。
さらには大黒屋光太夫などは、漂流の果てにロシアへ上陸、エカチェリーナ二世にも謁見するという驚くべき展開となっています。
しかし、田沼が失脚してしまうと、ロシア脅威論もまた注目されなくなってしまいます。
これでロシア側も日本との接触を諦める?
って、そんな都合のいい事は起きるハズもなく、さらに時代がくだるにつれ、彼らはついに強硬手段に訴えかけてきます。
樺太へ向かう武士たち
日露関係が、二国間において顕在化したのはいつなのか?
それは、幕末に向かってゆく最中「日本が世界の中でのどの位置にあるのか」を意識し始めたころでした。
このころ会津藩では、名宰相・田中玄宰が藩政改革に取り組み、その一環として藩校・日新館が整備されます。
天明8年(1788年)。
田中は軍制改革に取り組み、長沼流を採用、寛政4年(1792年)には、会津藩の恒例行事である「追鳥狩」が始まりました。
2013年大河ドラマ『八重の桜』第一回で描かれた、鳥を追いかける軍事訓練です。
それから約二十年が経ち、文化4年(1806)になると、津軽・秋田・南部・庄内の東北諸藩に重大な幕命が下されました。
露西亜の暴虐より、樺太を防備せよ――。
このころロシア船が南下し、樺太までやって来ることが度々ありました。
オフトマリ(大泊・現コルサコフ)、クシュンコタン(久春古丹・現コルサコフ)に進出し、運上屋(松前藩のアイヌとの交易所)や番屋、倉庫を焼き払い、住民を拉致し始めていたのです。
ロシア側は、普段からこんな危険なことをやっていたのか?というと、そうでもありません。
さんざん通商と開国を要求したにも関わらず無視されたため、実力行使に訴えたのです。
そこで幕府は、東北地方の藩から出動&対応するように命じたのです。
想像してみてください。
『ゴールデンカムイ』では、北海道の気候になれていた杉元すら
「北海道よりも冬が長くて寒いってことか。樺太やばいな」(14巻)
と驚嘆していたわけです。
樺太警備の武士たちは、現地の天候に苦しめられました。
ロシア軍と交戦することはありませんでしたが、厳しい寒さと病気が襲いかかったのです。
津軽藩にいたっては、100名中70名、つまりは死亡率七割超という甚大な被害を出したほどで、その原因は主に悪天候、湿気、病気、野菜不足による栄養失調でした。
「樺太やばいぜ。これはもうどうしようもないな」と、幕府は諦めたか?
否、違います。
「今度は東北の大藩にでも依頼するか」となりました。
会津藩士、気合い入りまくっていざ樺太へ!
文化5年(1807年)、今度は東北の大藩である仙台藩と会津藩に、蝦夷地・樺太の警備が命じられました。
仙台藩:2000名 箱館(函館)・国後・択捉
会津藩:1500名 樺太・宗谷・利尻島・松前
会津藩は財政難。
しかも、樺太は未知の土地。
「樺太やばいべした、いぎだくねえな」となるかと思ったら、その逆でした。
会津藩は、樺太警備にはなみなみならぬ意欲を見せました。なんと、幕府にわざわざ志願していたほどなのです。
彼らは東北に睨みを利かせるため、「保科正之を祖として配置された」というプライドがありました。
東北の小さな藩が動員されているのに、会津藩がおいてけぼりでは面目が立たない、自分たちこそ東北諸藩の先頭に立つのだ、という思いがあったのです。
このプライドこそ、幕末の悲劇にも繋がるのですが、それはまた別の話。
出発前になると、くじ引きで公正に決めたにも関わらず、順番で揉めます。
「せっかぐ戦いさ行ぐのに、宗谷や松前では、ロシア兵と戦うことはねえべ。樺太さいぎでえ」
なんと、樺太が嫌なのではなく、樺太でないと嫌なのだ、という理由ゆえだったのです。
樺太に行けない隊があまりに不満を述べるため、クジの決定は取り消されたのでした。
※続きは【次のページへ】をclick!
樺太での生活
いざ北海道へ!
出立した会津藩士たちは戦時体制ということで、食事は一汁一菜で、飲酒も禁止されておりました。
会津から津軽半島最北端までで、実に65日もかかる船旅です。
ようやく津軽海峡を渡り、3月29日(新暦4月24日)に松前へ到着。
そこから更に約3週間後の4月19日(新暦5月14日)、樺太に到着したのでした。
クシュンコタンはロシアによって破壊されていて、焼け跡しか残っていません。
会津藩士はまず住む場所をつくり始めました。
季節は夏と思いたいことですが、5月15日(新暦6月8日)には依然として氷が張っており、時折、雪も降ったというのですから、恐ろしい話です。
大泊(現コルサコフ)6月の天気を見てみますと……。
最高気温:25.1
平均気温:15.6
日平均気温:12.1
平均最低気温:9.0
最低気温記録:−0.5
気温の上昇している現代ですら、このような状況です。
氷が張るのも、積雪も、十分にありえる状況でした。
海産物の美味なることよ
会津藩士たちは、未知の土地でも武術の鍛錬や演習を行い、その見事さで幕府役人を驚かせました。
嬉しかったのは食事。なにせ北の豊富な海だけに海産物は事欠きません。
山のように押し寄せる鰊、鮭、鱒。
山に囲まれ、海産物の味を知らなかった会津藩士たちにとって、北国の味覚はたまらないものがあったことでしょう。
鯨が潮を吹いている姿を眺めたり、兎を狩ったり、大自然をエンジョイする日もあったとか。
樺太アイヌともすっかり仲良くなっており、彼らは帰り際、会津藩士たちを走って追いかけてきたそうです。
ただし、野菜は不足がちでした。
持参した胡椒、唐辛子、干し生姜を食べ、処方した薬を飲んでしのぐほかありませんでした。
ロシアとの交戦もありません。
結局なにもないまま、秋には帰ることになったのですが、問題は海路ということでして。台風に遭遇し、あわや溺死で全滅になりそうな危険性すらありました。
11月、会津へ戻った藩士たちは、褒美をもらい、ねぎらいの料理を城内で食べることも許されます。
このときかかった費用は2万両。
うち1万両は幕府負担とはいえ、財政難の会津藩にとっては手痛い出費でした。
そしてその後も会津藩は、幕府のために戦い続けます。
江戸湾警備、房総警備、京都守護職、そして会津戦争……。
自分たちこそが東北の雄藩として、幕府のために戦いたい。
そんなプライドのために、会津藩は幕末の情勢において、血みどろの道を歩むことになるのでした。
会津藩や仙台藩は、東北地方の山国で海もなく、薩摩藩のように外圧への危機感が薄かった――そんな風に言われがちですが、北方からの脅威を最も感じており、必ずしもそうとは言いきれない気がします。
見捨てられた蝦夷地
幕末の動乱においては京都守護職に注力した会津藩。
蝦夷には会津藩の代官が置かれていました。秀才と名高かった秋月悌次郎が、一時期この役職に就いています。
そして幕府も、蝦夷地探索を完全に諦めたわけではなく、弘化元年(1844年)には松浦武四郎が調査へ。
「北海道」という名称は、この松浦が考えたとされています。
慶応元年(1865年)には、幕命を受けていた岡本堅輔・西村伝九郎らが、日本人初の樺太一周探険に成功しています。
しかし、局面が戊辰戦争へと向かうと、蝦夷地どころではありません。
スッカリがらあきになってしまい、会津藩と庄内藩は、追い詰められる最中、蝦夷地の提供を条件にプロイセンとの連携を目指すことになります。
まぁ、これを根拠に「いくら困ったからといって国土を売り渡そうとした逆賊め!」なんて意見もありますが。
そもそも戊辰戦争という内戦が発生した結果、蝦夷地や樺太ががらあきになって、様々な問題が発生したのだということは認識せねばならない問題でしょう。
そして、その戦争は誰が始めたのか、という話でもあります。
幕末の動乱の最中、日本人たちは国を思い一致団結し、欧米列強の侵略から守った――という見方は、北に目を向ければ、決して真実とは言い切れないでしょう。
「中央」は北の大地に冷淡だった
幕末から明治にかけて発生した動乱――戊辰戦争と西南戦争という内戦に目が向けられる中、樺太はロシアの圧迫を受け続けました。
明治3年(1870年)には、ロシア船がクシュンコタンを襲撃。
漁場と先住民の墳墓が破壊される事件が起きています。
この事件を受けて、当時の開拓使判官・岡本堅輔は、強く抗議するよう中央政府に訴えました。
岡本は日本人で初めて樺太を一周した人物であり、樺太への思いは人一倍あった人物です。ロシアの暴虐に強い憤りを感じていたことでしょう。
しかし、中央政府の決定は無情なものでした。
同年外務大丞・丸山作楽が失脚した際、岡本堅輔も職を解かれてしまうのです。
岡本は晩年になっても、話が樺太のことに及ぶと、酒をあおりながら、涙を流して悔しがっていたそうです。
よほど無念だったのでしょう。
明治2年(1869年)には、前述の松浦武四郎が明治政府成立以降、開拓判官としてつとめていましたが、中央政府があまりにアイヌの境遇に無関心であることに憤り、地位を返上しています。
このように、幕府時代から北海道に目を向け、アイヌの人々の暮らしを考えていた、そして優秀な人々は、明治新政府のやり方に失望して職を辞すことが相次いだのです。
北方警備を担い、ロシアの脅威を実感してきた会津藩や仙台藩の人々は、新政府では発言権を封じられています。
こうして明治政府の目は、首都東京や日本の西南に向けられ、東北から北海道、そして樺太はおざなりにされたとしか言いようのない状況でした。
そして彼らのポストを埋めたのは、アイヌや開拓民の境遇に無関心な人々でした。
アイヌや屯田兵の苦境は、こうした“無関心”から生まれたのです。
樺太には古船一艘の価値もない
こうした樺太への無関心を、ついに日本政府はイギリスにつけこまれてしまいます。
明治3年(1870年)、政府はロシアと国境を定めるため、談判を行うことを決定。
外務大丞(だいじょう)・丸山作楽は、こう考えていました。
・樺太を日本の国土として維持すべきである
・樺太と北海道を合併し、経済発展の道を探る
・31万石以上の大名を移住させる
ここで割り込んできたのが、イギリス公使パークスです。
「樺太なんて、古船一艘の価値もない土地です。ロシアにくれてやればいい」
西郷隆盛が渋い顔を浮かべると、コップを手にしたパークスは、それを太政大臣・三条実美の足下へ投げつけ、さらに言葉をつなげます。
「樺太問題でロシアと揉めたら、日本の運命は、このコップのようになりますよ」
こうして談判は紛糾。
丸山の意見は受け入れられず、彼は失脚どころか「征韓論」でも問題があったとれ、投獄されてしまいます。
あれほど「日本を外国の手から守る」と言い、明治維新が推し進められたにもかかわらず、この体たらくはいかがなものでしょう。
イギリス公使によってあっさりと領土問題を紛糾させられてしまうというのも、なんとも哀しい話ですし、こういった話は現代の日本人にはあまり知られておりません。
それ以上に哀しいのは「古船一艘」と言われた土地に住む先住民たちの生活です。
日本とロシアのはざまで、彼らは政策に翻弄されることになります。
明治8年(1875年)、日本政府とロシア帝国の間で「樺太・千島交換条約」が成立。
樺太は、ロシア領となりました。
翻弄され虐殺された樺太の人々
明治38年(1905年)。
日露戦争勝利後に「ポーツマス条約」が締結され、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本領に復帰しました。
漫画『ゴールデンカムイ』で杉元たちが旅をしているのは、こうした情勢下の樺太です。
そして迎えた昭和20年(1945年)。
太平洋戦争における日本の敗色が濃くなっていた8月9日、ソ連側により「日ソ中立条約」が破棄され、樺太への侵攻が始まります。
当時、樺太の住民は本土の人々よりも安定した暮らしを送っており、食料もさほど不足しておりませんでした。
しかし、その暮らしは、ソ連軍侵攻により一変。
北海道を目指して逃げ惑う人々の上に、容赦なく爆弾や砲弾が降り注ぎます。
捕縛され、シベリアの抑留所まで連行されて行く男性もいました。
混乱の最中、真岡郵便局(現ホルムスク)では、9人の電信係の女性たちが、必死で業務を継続。
「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」
彼女らは最後となる通信を終えると、青酸カリを口に含み、自決しました。
8月22日には、引き揚げ者を乗せた船(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)が、ソ連の潜水艦により撃沈されてもおります。
こうして流血の中、日本からもぎ取られた樺太。
第七師団から再編成された第77師団は、ソ連軍の侵攻に備え警戒を怠りませんでした。
しかし、ついにその日は訪れないまま、最後の師団長・鯉登行一のもとで、終焉の日を迎えたのでした。
無関心を愛に変える物語
「日ソ中立条約」の侵犯についてだけ捉えると、樺太問題はどうしてもソ連(ロシア)が悪い、という気持ちになるでしょう。
ただし、事はそう単純でもない要素を含んでおります。
領土問題に介入してきたイギリス。
そして、丸山作楽の意見を退け、介入を受けて手放してしまった明治政府の“無関心”。
さらに遡れば、ロシアの干渉を許してしまった内戦(戊辰戦争)。
こうした根深い歴史が、樺太にはあります。
『ゴールデンカムイ』にも「中央・政府」への無関心に怒りを抱く人物が登場します。
函館戦争での敗北後、怒りの炎をたぎらせている土方歳三。
日露戦争の戦後処理で割を食った屈辱を晴らすべく戦う、鶴見中尉とその配下たち。
そして、アイヌへの目を向けさせるため、非情とも思える決断をしていたことがわかる、とある人物。
彼らは、冷たく無関心な「中央」へ怒りを炸裂させます。
そして読者は自然と、北海道や樺太の歴史と人々に関心を抱くようになるでしょう。
“無関心”とは正反対の、愛情のようなものすら、そこにはある。

明治維新から約150年の時が過ぎました。
今もって北海道(だけでなく沖縄)に深く関わった大河ドラマは無く、ようやく漫画『ゴールデンカムイ』がこの地に注目。
熱く、真摯で、しかも興行的にも大ヒットというのですから最高です。
明治以来の冷たい“無関心”にさらされてきた地の果てに、もう一度熱いまなざしを向けさせてくれる――そんな希有な作品を皆さま一度はご賞味あれ。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2023/02/12/113844

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ハロウ安比校 雪の家“イグルー”づくりに挑戦<岩手・八幡平市>

2023-02-13 | 先住民族関連
岩手めんこいテレビ2/12(日) 18:24

2022年8月に開校した岩手県八幡平市のインターナショナルスクールで、2月12日に子どもたちが冬の課外活動として雪の家「イグルー」づくりに挑戦しました。
八幡平市のハロウ安比校で学ぶ11歳から15歳の約40人が挑戦したイグルーづくり。
イグルーとはカナダの先住民族イヌイットが冬の間に使う簡易的な住居で、12日はイグルーを研究する青森大学の教授などが講師を務めました。
子どもたちは4つある寮ごとに分かれて、雪をのこぎりで切り出した後、協力し合いながらそのブロックを積み重ねていきました。
九州出身の生徒
「初めてイグルーづくりをしたが、チームワークを学べてすごく楽しい」
完成したイグルーでは今後、料理体験などの活動も行われる予定です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2d139214ad8b5a5b23f11320eadfd93335208b8a

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“ブラジルの水俣病”と呼ばれる健康被害 南米アマゾン・先住民の子どもたちに異変

2023-02-13 | 先住民族関連
TBS2023年2月12日(日) 08:21

https://www.youtube.com/watch?v=nsqlK7__z70
アマゾン先住民の子どもたちの身体に異変が起きている。
脳の異常、神経障害などの要因とみられているのは「水銀」。彼らの毛髪から高濃度の水銀が検出されていた。 医師は「体系的な研究が必要」と訴える。
研究機関フィオクルズは、先住民の一部地域で今年にも、妊婦と2歳未満の子どもを対象とした調査を検討しているという。 こうした症例は、関係者の間で、日本の水俣病との類似から“ブラジルの水俣病”と呼ばれ始めている。
いま、現地で何が起きているのか?
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/324313?display=1

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農文協・農業書センター(東京) 牛の結び方から百姓一揆まで、神保町の中心で叫ぶ「農! と言える日本」

2023-02-13 | アイヌ民族関連
好書好日2023.02.12
「食べ物にちなんだ書店を取材しているなら、うちにも来てみないか」
 昨年の暮れ、友人のりっちゃんからこんなDMが届いた。彼女が働いている農文協・農業書センターは農業書の専門書店で、全国の農家で読まれている「月刊 現代農業」の版元・農山漁村文化協会(農文協)が運営している。今から15年ほど前の話になるが、食べ物にちなんだ雑誌の編集者だった頃、よくお世話になっていた雑誌だ。
 これまで果物 →魚 →甲殻類 →野菜のお菓子を店名にした本屋を訪ねてきたが、真打ち登場といった感じがする。年が明けたある日、店がある神保町に向かった。
野菜の本と野菜のタネが一緒に並ぶ
 以前は神保町交差点の、岩波書店ビルの隣にあったが、九段下方面に移転したという。古書店を眺めながら歩くこと約5分。某チェーン系カフェが入るビルの2階に、農文協・農業書センターがあった。
 店に向かう階段の入口に、オレンジ色に赤い字で「伝統野菜のタネあります」と書いてあった。た、タネ! 今までの書店でも色々なグッズと出合ってきたが、タネは初めてじゃなかろうか。
 2022年に「現代農業」が創刊100周年を迎えたという記念パネルを読みつつ階段を昇ると、店長の荒井操さんと、りっちゃん=谷藤律子さんが出迎えてくれた。
 新井さんによると、店がオープンしたのは1994年で、当時は大手町のJAビル内にあった。2014年に神保町に移転したものの、耐震性の問題から入っていたビルの解体が決まり、現在の場所に再移転したそうだ。旧店舗にも何度か行っていたが、広さは同じぐらいだろうか?
「それが、以前に比べると約3分の2の広さになってしまって。現在は約40坪ぐらいなんですよ」
と、荒井さんは言った。
 94年と言えばバブル崩壊後とはいえ、まだまだ軽佻浮薄な空気が漂っていた時代。なぜ農業書専門書店ができたのだろう。
「その当時からすでに『地域から本屋がなくなりつつある』と言われていたのですが、『農村は文化の担い手である』という思いのもと、農業専門書店を作ろうと思い至ったんです。原則、農業に関する本を並べていますが、農と言っても畑作りから料理レシピ、林業や畜産や漁業と、多岐にわたっています。日本国内で出版されているのものであれば、地方の版元のものや自費出版まで置くようにしています」
 そう語った荒井さんが農文協に入社したのは、1980年のこと。実家が畜産業を営んでいる荒井さんは、農学系大学に進学していた。とはいえ次男だったため、家業を継ぐ必要はない。出版に興味があったことから、農文協を志望したそうだ。
「農から離れたいと思いつつも、戻ってきてしまった感じでしたね。入社後10年ほどは出版営業をしていて、全国の生産農家を巡っていました。農家の1日はとにかくやることが多くて忙しく、『ゆっくり本を読む時間などない』という方も多いため、どうしたら読んでもらえる本や雑誌を作れるのか。読者の声を聞き取るのが、その頃の仕事でしたね」
 2011年に農業書センターに異動になり、以来店長をつとめている。一方の谷藤さんは本の通販部門を担当していたが、2014年に移転した際に人手が足りなくなったことで、現場を任されるようになった。
「それまでもちょこちょこ手伝いには来ていたのですが、いざ書店員になってみると、オフィスで働くのとはまるで違いますね」
 そう言って笑った彼女は、現在も通販サイトの「田舎の本屋さん」の担当も兼任している。この日も、全国から集まった注文を送る作業に忙殺されていた。
農は田畑だけではない。畜産も狩猟も
 ひとことで「農」と言っても、一体どんな本があるのだろう? 現在3万冊ほどの在庫があるという棚を、ざっくりと見渡してみる。
 入口すぐの位置にあるのは日本農業新聞に書評が掲載された本と、現代農業のバックナンバーだが、なかには20年以上前の号もある。さすが、版元ならではだ。そのすぐ近くには、私がDANROというサイトで執筆していた、世界のかわうそを探す連載「かわうそ一人旅」で大いに参考にした、『聞き書 アイヌの食事』 (農文協)もあった。この連載、執筆者本人は非常に燃えていたのに、サイト終了とともにお蔵入りになってしまったのだ。なぜだ……。

聞き書きシリーズは、47都道府県すべて&アイヌ編の在庫アリ。
 切ない記憶を思い出しながら、さらに棚を見渡す。すると目立つ場所に『イチからわかる 牛の放牧入門』(農文協)、『小さい畜産で稼ぐコツ』(同)、そして『牛の結び方 増補版』(酪農学園大学エクステンションセンター)などが面陳されていた。いずれもかわいい表紙イラストが特徴だが、『牛の結び方』の牛は、リボンでおめかししているワケではない。牛を引く際のシチュエーション別に、どのように紐をかけて結べばいいのかについて、イラストで紹介する本なのだ。
 さらに奥に進んでいくと、狩猟に関するコーナーが。賢そうな犬が表紙の雑誌「けもの道」は狩猟専門誌なのだが、実は今日、初めてその存在を知った。確かに狩猟は今、注目されているけど、専門雑誌まであるとは。ふと顔をあげるとその上には、食べ物雑誌の編集時代に一緒に全国を飛び回っていた三好かやのさんによる、猟師の体験談をまとめた『私、山の猟師になりました。―一人前になるワザをベテラン猟師が教えます!』(誠文堂新光社)もあった。かつての仲間の仕事に触れて、今度は胸が熱くなる。 
 ここに来れば農に関する本が手に入ることから、ふらりと立ち寄る人もいるけれど、目指してやってくる人が多いと荒井さんは言う。中国や韓国、台湾など海外からの来客も多いのが特徴だ。
「昨日いらしたのは御年80歳の方でした。今は東京にお住まいですが出身地の信州で、ブルーベリー栽培を始めたそうで、ジャムに加工して道の駅で販売したいと話していました。こういうお話が聞けるのも、楽しみの一つです」
 食料自給率わずか38%の日本。100%と言われるコメだって、育てるための肥料やエネルギーなどは、外国に頼らざるを得ない。そんな状況であっても、色々工夫しながら身近な場所で農業を続ける人たちを応援したい。そんな思いで荒井さんは日々、店頭に立っているようだ。
農民は圧政に抵抗していた
「こんな本も置いてあるんですけど」
 谷藤さんが手招きする先にあったのは、『図説 日本の百姓一揆』だった。ひゃ、百姓一揆の本があるとは……。教科書や学習参考書をおもに刊行する「民衆社」という出版社だが、その名も一揆にふさわしい。そのすぐ隣には『言いなりにならない江戸の百姓たち 「幸谷村酒井家文書」から読み解く』(文学通信)なる本もある。
 江戸の農民たちは、理不尽なことがあれば訴訟を起こしていたという。年貢の取り立てでひたすら締め上げられていたイメージが強かったけれど、黙っていられないことには毅然と立ち向かっていたようだ。
 在庫のほとんどが農業関連ながらも、レジのすぐ脇には内山節や藤原辰史、内田樹らの本と並んで、「沖縄」や「政治・格差」、「民主主義」や「ヘイトスピーチ」関連本のコーナーもあった。このあたりのセレクトは、谷藤さんに任されているらしい。
 個人的にも興味深いものばかりだが、なかでも人気なのはフランスの作家、ディディエ・デニングスの絵本、『父さんはどうしてヒトラーに投票したの?』(解放出版社)だと教えてくれた。障がいを持つ妹がいるドイツ人の少年が、ナチス・ドイツによる弾圧や支配を目の当たりにしていく物語だが、農業に関係あるの? と言われることはないのだろうか。
「農民の歴史は、実は抵抗の歴史でもあるんです。一揆の本を見てもわかるように、日本人はずっと、圧政に戦ってきました。政治や社会は人々の暮らしと切り離せないし、農村と民主主義は深く結びついています。すべてが、地続きなんですよね」
 今自分が生きている世界と、自分を生かしてくれる食べ物は、切っても切れない関係にある。農業政策が失敗すればそこに住む人たちは飢えてしまうし、生きること自体が難しくなる。一揆どころか、もはや一気飲みもできない、いやしないお年頃になったし、農に関する記事は10年近く手掛けていない。そんな私にとってもここに並ぶ本は、ただ興味深いだけではなく、どこかでちゃんとつながっているのだ。
 これまで訪ねることがなかった専門書店、今後もあちこち行ってみたい。そんな気持ちになったところで、食べ物にちなんだ書店探訪は、ひとまずこれで締めくくり。次回は久々に、地方に行ってみようと思う。
(文・写真:朴順梨)
荒井さんと谷藤さんが選ぶ、農と抵抗を知るための3冊
●月刊「現代農業」(農文協)
昨年、創刊100周年を迎えました。コンセプトは「農家がつくる総合雑誌」。営農技術や暮らしの知恵、農産加工・地域づくりにと、幅広い情報が満載です。家庭菜園や移住に関心のある方にもおすすめです。
●『武士に「もの言う」百姓たち 』渡辺尚志(草思社)
重い年貢をとられても、武士にはひれ伏し従うだけ。いよいよとなれば一揆して結局弾圧される。そなイメージを持っていませんか。江戸時代の百姓はちゃんと武士を相手に裁判で闘ったのです。武士は戦で恨みをはらしますが、百姓は戦ができません。そのかわり法廷で命がけで闘います。今で言う非暴力不服従ですね。彼らは決して「もの言わぬ民」ではありませんでした。
●『非国民な女たち 戦時下のパーマとモンペ』飯田未希(中央公論新社)
昭和の女たちはひたすら夫や子のため国のため、つましく健気に働いてきた…なーんちゃって。
もちろんそんな面もあったでしょうが、ここに登場するのは、家族に食わせる竈の薪をちょろまかしてでも私はパーマをあてたいのよ!という普通の女たちの姿。「おしゃれがしたい」は自分自身を生きること。令和の私たちも熱く励まされます。
https://book.asahi.com/article/14829903

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<書評>『学知の帝国主義』 継続する植民地主義

2023-02-13 | 先住民族関連
琉球新報社 - 2月12日

 この書名を目にしたとき、「ああ、現在の話だな」と思った。本書では、近代の欧州や日本の植民地帝国主義を「学術」が正当化し、加担した事実を明らかにしている。人類学者らは、身体的特徴により帝国の人間と「その他の人びと」に優劣をつけた。さらに日本は他民族の言語と日本語の幾つかの共通点から「同祖論」をでっちあげ、「遅れた同胞を近代化する」ため同化支配を進めた。  研究のために世界中で先住民族の遺骨の盗掘が行われ、琉球人の遺骨も帝国大学の人類学者によって盗まれた。現在、子孫らが遺骨を所有する京都大学や沖縄県教育委員会に対し返還を求めているが、「貴重な研究資料」との理由で拒否されている。  国際社会では植民地主義の反省や国際人権法の発展により遺骨返還が進んでいるが、日本はいまだ、日本人の「起源」研究のために琉球人の遺骨を占有し、権利や尊厳を侵害している。  現在でも、日本人の「専門家」が琉球の帰属や基地負担を勝手に決め、県が進めている人権条例に関しても「琉球人・沖縄人の定義が難しい」と、植民者・支配者側が「他律的」に民族の存在やアイデンティティーを否定している。彼らは、日本人やアメリカ人だと自認する者に対してその定義を求めるのだろうか? 琉球・沖縄ルーツの人に対して「のみ」なのか。琉球において、「植民地帝国主義」は現在進行形なのだ。  著者は、琉球人側の「内なる植民地主義」も指摘する。1903年の人類館事件で琉球人女性が「陳列」されたことに対し、太田朝敷が「我らをアイヌや西蕃と同一視するな」と批判した。差別から逃れるために強い側(日本人)に同化し、より弱い者を差別する構図は、現在の「沖縄の人々は先住民族『など』ではない」という、世界の先住民族を蔑視するメンタリティと深くつながっている。  琉球人であれ日本人であれ、本書に対する反応が、自らの歴史を直視し克服できるか否かのバロメーターになるだろう。基地の県外移設論や琉球独立論に対するそれと同様に。 (仲村涼子・琉球人遺骨返還を求める「ニライ・カナイぬ会」)
 まつしま・やすかつ 龍谷大教授。主な著作に「歩く・知る・対話する琉球学―歴史・社会・文化を体験しよう」「琉球独立宣言―実現可能な五つの方法」など。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/書評-学知の帝国主義-継続する植民地主義/ar-AA17nzYj

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水立、行田、本動堂… 初見じゃ読めない群馬の難読地名

2023-02-13 | アイヌ民族関連
上毛新聞社2/12(日) 13:00配信
 群馬県内を車で走っていると、難読地名に出合う。由来を調べてみると、過去の出来事や伝承などさまざま。初見ではなかなか読めない五つの由来は?(紹介するもの以外に諸説あります)。
水立(やけだち、邑楽町)
 国道354号を館林市から太田市方面へ進み、「高源寺北」交差点で左折。県道矢島大泉線をしばらく進むと「水立」という交差点が現れる。「みずだち」と読んでいしまいそうだが、実は「やけだち」。「水」の字は、かつて地域で起きた大火事に由来している。
 年代は定かではないが、かつて地域一帯の家屋や林を焼く大火事があり、江戸時代には「焼立」という漢字が使われていた。それが明治時代の資料では「水立」に変わっていることが確認できる。地元の人々が「火事に打ち勝つ」との願いを込め、火を思わせる「焼」ではなく「水」の字を使うようになったから、と伝えられる。
 周辺は広い畑や民家に交じって林が点在している。字(あざ)が「篠塚」となった今も、古くから住む住人は地域を「水立」と呼ぶという。大火事の痕跡は見つからなかったが、交差点名標識がかつての火事を乗り越えようとした住民の思いを伝えている。
行田(おくなだ、安中市松井田町)
 妙義山の麓にある、富岡市の旧妙義町地区と隣接する地名。埼玉県の行田(ぎょうだ)市と同じ漢字だが「おくなだ」と読む。地名の由来は、仏教用語の「行い」にあるという。
 かつて、五穀豊穣や家内安全を願う仏教行事「修正会」が地内の寺で行われていた。修正会は「行い」と呼ばれ、行いにかかる費用を捻出するための田「オコナイ田」が転じて「おくなだ」となったということだ。
 妙義山に入山する修験者が数日間、精進潔斎する施設があったから、とする説もある。実際に足を運ぶと、妙義山や周辺の山々が眼前に迫り圧倒される。いにしえの人々も妙義山を望みながら、仏道に励んだようだ。
本動堂(もとゆるぎどう、藤岡市)
 藤岡市にある地名で、かつて雨乞い中に起きた出来事の伝承に由来している。ある年の夏に日照りが続き、村人が法師とともに観音堂で雨乞いをしたところ、お堂が揺れて雨が降り出した。以来、この地は「動堂(ゆるぎどう)」と呼ばれるようになった。その後、仏像は市内の寺に移され、元々あった場所という意味で「本動堂」と呼ぶようになったそうだ。現在は、工場や物流倉庫が立ち並んでいる。
魚尾(よのお、神流町)
 神流町内を流れる神流川沿いにある旧中里村地区の地名。「魚尾」は川で取れるアユに由来している。太古の昔、神様が疲労と空腹のため、川沿いにある「丸岩」の上で休んでいた。これに気付いた村人が、麦飯と川で取れたアユを献上。神はたいそうアユを気に入り、しっぽまで食べると「この地を魚尾と称すべし」と命じたと伝えられている。「よのお」という読みは、アイヌ語で「生活の場」を意味する「イオル(イウォロ)」が変化したとされている。丸岩は今も存在し、すぐそばにある「神流川鮎神社」が伝説をしのばせる。
乙父、乙母(おっち、おとも、上野村)
 上野村役場や「道の駅 上野」近くの国道299号沿いにある地名。春の伝統行事「おひながゆ」が行われる地域としても知られる。地名の由来は、木曽義仲の四天王と言われた今井四郎兼平の遺児ら一族が戦に敗れてたどり着き、男は乙父に、乳母は乙母に住み着いたからと言われている。二つの地区は隣接しており「父母トンネル」がつないでいる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4c99f75784300c04aba19b9ab97fecb61878abf?page=1

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