毎日新聞 2015年09月17日 東京夕刊
先住民族ニブフの打楽器「チャチチュハルシ」をたたく地元の子供=ロシア極東ユジノサハリンスクの州立郷土博物館で、真野森作撮影
カンカン、コン。丸太をつり下げた素朴な打楽器のリズムが青空に吸い込まれていく。サハリンに約2300人が暮らす先住民族ニブフ(旧称ギリヤーク)の人々が手がける州立郷土博物館での初の文化紹介イベント。「私たちニブフは今も健在と示したい」。民族活動家のアントニーナ・ナチョートキナさん(67)は真っ赤な伝統衣装姿で力を込めた。
アジア大陸のアムール川下流域とサハリンに居住するニブフは、サケ・マスを取り、海獣を狩って自然と共に生きてきた。だが、近現代は日露のはざまで翻弄(ほんろう)された。
日露戦争後の1905年、サハリンは北緯50度線で区切られ、ニブフやウィルタなど少数民族は南の日本領と北のロシア(革命後はソ連)領とに分断された。第二次大戦の末期には敵味方に分かれ、日ソ双方のスパイにもされた。
日ソ両国はどちらも少数民族に同化政策を押しつけ、文化を奪った。ナチョートキナさんは「ニブフ語は家庭内でも使われなくなり、多くの伝統が失われた」と残念がる。
80年代から一部の学校でニブフ語が教えられるようになり、新聞も発行されているが、復興は道半ばだ。少数民族が多く住むサハリン北部には仕事が少なく、就職や就学のため州都ユジノサハリンスクへやって来る若い世代が増えている。
ニブフの血を引くマリーナ・クラギナさん(50)は魚の皮やアザラシの毛皮を使った伝統工芸を4年前に書物から学んだ。「先祖からの『呼び声』があったように思う」。クマやフクロウの文様を縫い付けた小物を誇らしげに手に載せた。
◇
終戦時、南樺太に約40万人いた日本人はソ連軍による占領後、本土へと順次引き揚げた。だが、ソ連が必要とした技術者や、コリアンやロシア人と結婚した女性ら数百人がサハリンに残らざるを得なかった。そうした人々も91年以降、日本への永住帰国が進み、かつて「支配民族」だった日系人は現在、200人ほどがひっそりと暮らす。
その一人で戦後生まれの朴愛子さん(66)=旧姓・長野=は「質素だったソ連時代、家ではカレーライスがごちそうだった」と振り返る。北海道出身の両親はソフホーズ(国営農場)で働き、8人の子供を守り育てた。母親は「桃太郎」など日本の昔話は繰り返し話してくれたが、大戦当時の思い出を語ることはなかった。
ソ連・ロシアになったかつての南樺太で暮らしてきたが、日系人との理由でつらい思いをした記憶はないという。会計士として働き、コリアンの男性と結婚、2人の子供と孫に恵まれた。「戦争はもう過去のこと。うちには日本と朝鮮、二つの文化がある」と笑顔を見せた。【ユジノサハリンスクで真野森作】
http://mainichi.jp/shimen/news/20150917dde007040042000c.html
先住民族ニブフの打楽器「チャチチュハルシ」をたたく地元の子供=ロシア極東ユジノサハリンスクの州立郷土博物館で、真野森作撮影
カンカン、コン。丸太をつり下げた素朴な打楽器のリズムが青空に吸い込まれていく。サハリンに約2300人が暮らす先住民族ニブフ(旧称ギリヤーク)の人々が手がける州立郷土博物館での初の文化紹介イベント。「私たちニブフは今も健在と示したい」。民族活動家のアントニーナ・ナチョートキナさん(67)は真っ赤な伝統衣装姿で力を込めた。
アジア大陸のアムール川下流域とサハリンに居住するニブフは、サケ・マスを取り、海獣を狩って自然と共に生きてきた。だが、近現代は日露のはざまで翻弄(ほんろう)された。
日露戦争後の1905年、サハリンは北緯50度線で区切られ、ニブフやウィルタなど少数民族は南の日本領と北のロシア(革命後はソ連)領とに分断された。第二次大戦の末期には敵味方に分かれ、日ソ双方のスパイにもされた。
日ソ両国はどちらも少数民族に同化政策を押しつけ、文化を奪った。ナチョートキナさんは「ニブフ語は家庭内でも使われなくなり、多くの伝統が失われた」と残念がる。
80年代から一部の学校でニブフ語が教えられるようになり、新聞も発行されているが、復興は道半ばだ。少数民族が多く住むサハリン北部には仕事が少なく、就職や就学のため州都ユジノサハリンスクへやって来る若い世代が増えている。
ニブフの血を引くマリーナ・クラギナさん(50)は魚の皮やアザラシの毛皮を使った伝統工芸を4年前に書物から学んだ。「先祖からの『呼び声』があったように思う」。クマやフクロウの文様を縫い付けた小物を誇らしげに手に載せた。
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終戦時、南樺太に約40万人いた日本人はソ連軍による占領後、本土へと順次引き揚げた。だが、ソ連が必要とした技術者や、コリアンやロシア人と結婚した女性ら数百人がサハリンに残らざるを得なかった。そうした人々も91年以降、日本への永住帰国が進み、かつて「支配民族」だった日系人は現在、200人ほどがひっそりと暮らす。
その一人で戦後生まれの朴愛子さん(66)=旧姓・長野=は「質素だったソ連時代、家ではカレーライスがごちそうだった」と振り返る。北海道出身の両親はソフホーズ(国営農場)で働き、8人の子供を守り育てた。母親は「桃太郎」など日本の昔話は繰り返し話してくれたが、大戦当時の思い出を語ることはなかった。
ソ連・ロシアになったかつての南樺太で暮らしてきたが、日系人との理由でつらい思いをした記憶はないという。会計士として働き、コリアンの男性と結婚、2人の子供と孫に恵まれた。「戦争はもう過去のこと。うちには日本と朝鮮、二つの文化がある」と笑顔を見せた。【ユジノサハリンスクで真野森作】
http://mainichi.jp/shimen/news/20150917dde007040042000c.html